第5話 濃霧⑧


ハナは2日前に通った道をゆっくりと戻って、おじいの家へと向かっていった。

既にハナが『霧』の中に入って数時間が経過していたが、ハナの脳裏にブラックボックスが浮かぶことはなかった。

――やっぱり私は『霧』の影響を受けないんだ……。

とハナは思った。


ハナはおじいの家の近くの街中を走っていると、あることに気付いた。

既に、ここまで走っていて薄々ながら感じていたことだ。

――街の人は一体どこに消えたんだ?


いつもの街中の風景では、歩道に何人か歩いている人がいて、車道では車を運転しているドライバーが何人もいた。

しかし、今、街中には誰もいない。

車は車道に放置されているが、ドアは開かれっぱなしでドライバーだけが忽然と姿を消してしまったように見えた。

ハナはものは試しに道中のコンビニに入ってみたところ、商品は全く散らかっておらず綺麗に並んでいるが、店員は誰一人としておらず、まるで一瞬にして神隠しにあったかのような状況であった。


――どういうことだ……? 

長時間『霧』の中にいて救出された人は言葉も喋れず廃人のような状態になったとSNSでは書かれており、そこからハナは『霧』に沈んだ街中は、何人も何十人も、下手をしたら何万人も死体が転がっているような酷い状態だろうと想像していた。

しかし実際には、数時間前まで生活をしていた人が一気に忽然と姿を消してしまったような、あたかもゴーストタウンのような状態になっていた。

ハナは目の前の光景を理解できないまま、そのままおじいの家へと向かっていった。


おじいの家の近くに来たものの周辺にも人影は全く見えなかった。

そして『霧』によって何が起きたのかよくわからないまま、おじいの家に到着した。

「おじい? いる……?」

とハナは家の外から声をかけたが、返事はなかった。ハナとしても返事が無いことは、あまり認めたくなかったが、予期していた。

しかしハナはまだ「家の外からの呼びかけに反応がなかっただけ」とも思おうとしていた。


ハナはそのままおじいの家にゆっくりと入った。

まずはおじいの書斎兼寝室に行くと、おじいが2日前に横になっていたベッドは、おじいがそこからちょうど抜け出たような形に布団が折り曲げられていたが、そこにおじいは見当たらなかった。

「おじい……、いるか……」

とハナは願うような、縋るような声色で呼びかけつつ、おじいの家の全ての部屋を見て回った。

それでもおじいは見つけられなかった。

やはりおじいも街中の人と同じように、忽然と姿を消してしまったようだった。


おじいの全ての部屋を見て回ったハナは改めて、おじいの書斎兼寝室へと戻ってきた。

ハナはおじいがそこにいた事実が残っていないか、折り曲げられた布団をそっと撫でたが、ただ『霧』の冷たさだけがそこに残っているだけだった。

薄々おじいもいないだろうと勘づいてはいたが、こうして事実として目の前に現れると、呆然とするしか無かった。

ハナは何も考えられなかった。


ふと文机の上に目をやると、ハナが出て行った時には無かった和紙が置いてあった。

そちらに近づくと、もはや懐かしいと言えるおじいの筆跡で「ハナへ」と書かれているのが読み取れた。

ハナは焦る気持ちを抑えつつ、一旦深呼吸をして息と心を整えてから、その短い手紙を読み始めた。

何かおじいが生きている痕跡が無いかを探しながら。


『ハナへ

この手紙を読んでいると言うことは、おじいは既に死んでいると言うことだと思います。

まさか自分がこういう書き出しで手紙を書くことになるとは思いませんでした。

ハナがいつこの手紙を読んでくれているかわからないけれど、おじいからの最後のプレゼントをここに遺しておきたいと思います。

それはおじいが昔大事に使っていた、ナイフです。練習用では無い、本物です。

これまでも手入れを欠かさずにしてきたので、今でも使えるはずです。

そして、おじいからの最後のレッスンです。

正しくナイフを使いなさい。

ナイフに使われるのではなく、隅から隅まで「自分のモノ」として責任を持って扱いなさい。

決してナイフに使われるようにはなってはいけませんよ。


そして、自分のやりたいことをやって、精一杯生きてください。


おじい』


その手紙の横には薄くしなやかなナイフが3本2セットの計6本が、ホルスターに収納されておいてあった。

ハナはホルスターからナイフを1本抜き取り、そっとナイフに触れた。

ナイフの刃には何度も研がれた跡があり、柄は何度も握られて飾り模様が薄く剥げていた。おじいによって、これまで大事に使用されてきたことが見てとれた。

ナイフの柄を軽く持ち上げると、刀身の薄さに似合わず想像よりもずっと重たかった。

おじいの気持ちと、これまでの手入れの歴史が詰まっているような気がした。

ハナはそのナイフをホルスターに改めて入れた上で、太ももと腕に巻きつけた。練習用のナイフではないホンモノのナイフを身につけたことで、おじいの温もりを微かに感じられるような気がした。


ハナはホルスターをつけたままそのままおじいの家を出て、家の前の道に出た。

2日前におじいの家を出た時のことが唐突にフラッシュバックした。

自分のことよりもハナのことを優先して、無理やりにでもハナを追い出して逃げろと言ってくれたおじい。

内心『霧』が有毒であると気づいておきながら、あくまで平静な雰囲気を残したまま「旅行を楽しんできな」と笑いながら送り出してくれたおじい。


そんなおじいもこのナイフを遺して消えてしまった。

急にそんな実感が、今更ながらハナに襲ってきた。

これまで出なかった涙が急に止めどなく溢れてきた。

思わず嗚咽も漏れ出てきた。

どうにもハナには止められず、その場で両膝を付いて崩れ落ちてしまった。

感謝と後悔と悔恨が混ざり合い、実体のある言葉は何も出てこなかった。

ハナはぐちゃぐちゃになった感情のまま、ただひたすらにはおじいの家の前で泣き叫び続けた。


すると唐突にバサリと上空から羽音が響いてきた。

白い羽に黄色い冠毛がぴょこんと飛び出ているオウムが、急に泣き崩れているハナの右肩に飛び乗った。

ハナは突然の衝撃に何が起こったのか理解ができず、固まってしまった。


するとそのオウムはこういった。

「よう、そこの嬢ちゃん。泣いてるところ悪いけどよ」

やたら流暢な明るい口調で人語を話し出した。

「もうすぐ怪しい野郎があんたの泣き声を聞いてここまでやってくるから、ここから逃げた方がいいよ。おっと、今は疑問は後回しだ、何も聞かない方がいいと思うよー」


ハナは唐突に日本語を流暢に話し出すオウムという意味不明な存在に目を白黒させて混乱しつつも、とりあえず、オウムの言葉に従って、オウムを右肩に乗せたまま群青色のスーパーカブに跨って、走り出すことにした。

そうしてハナとナギの旅が始まったのだった。



「……、あとは、ナギも知っての通りって感じかな」

ハナは『忘却の霧』の出ている麓の村にて、あまり荒らされていない廃屋に入り、適当にホコリっぽいベッドに横になってくつろいでいた。

今日はそのままこの廃屋で一晩過ごすつもりであった。

「なるほどねぇ……、ハナも大変だったんだねぇ」

とナギはあっけらかんと、あまり同情しているように聞こえない声でいった。

「『ハナも』ってナギも大変だったの?」

「まぁなぁ、その辺は気が向いたら話すよ」

「はいはい。忘れないうちに頼むよ」

とハナは言って、ナギの頭をカキカキしてやった。

ナギはいつも通り、キューという気の抜けた声を出して喜んだ。

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