第5話 濃霧⑦


そして旅館で晩御飯を食べつつ、SNSを色々と検索してみると、『霧』の体験者らしき人々が、記憶喪失の感覚をリアルな言葉で綴っているのを読むことができた。

例えば「脳が黒く塗りつぶされていく感覚」や、端的に「『無』が生じる感じ」、「奈落に落ちていく感じ」「自分が過去から剥がされるような思い」などなど。

詩的な表現から実体験の生々しい語り口まで、色々な体験談を読むことができた。

そして、どの感想を読んでも、記憶の忘却は人間の根源的な恐怖につながるもののようで、概ね「二度と体験したくない」というニュアンスが込められているように思えた。


――私はそんな感覚したっけ……?

とハナは振り返るも、特段身に覚えはなかった。少なくともおじいの家と移動中で数時間は『霧』の中に留まっていたにもかかわらず、そういう何かしらの「根源的な恐怖」は特段感じていないように思えた。


さらにSNSを色々と検索してみると、半日以上『霧』の中で過ごしたが、特に何も起きなかった、と書いている人を見つけることができた。

その投稿には疑問や賛同、混乱に陥れる愉快犯と決めつける投稿など、色々な反応があったが、ハナも自分の認識としては「特に何も起きなかった」側の人間であるため、どうにもその人のことが気になった。


ハナは思い切ってその人に直接ダイレクトメールをしてみると、その人からすぐに返信が返ってきた。

何度もその人とDMのやり取りをして、色々なことを教えてもらうことができた。

「何も起きなかった人」からの連絡はハナ以外からもあったこと、どの人も特段記憶障害は起きていないようだったこと、もしかしたら『霧』が効かない人もいると言う仮説、しかしあくまで仮説段階の話であって、もしかしたら『霧』の毒が蓄積して有害になる可能性もあり、恐らく試さない方が良いだろう、という貴重なアドバイスまで聞くことが出来た。

その人の意見は、どれもハナにとっては腑に落ちる話だった。

ハナはその人に感謝のDMをした後で、翌日以降の計画を何となく思い描きつつ、ハナはその日、眠りに落ちた。



翌日、ハナは『霧』の中に入っていく決心をした。

前日にSNSで聞いた貴重なアドバイスを破ることにはなるのだが、どう考えても、ハナの脳内で「ブラックボックス」が生じた感覚が無かったため、やはりハナは自分は『霧』の影響を受けない人間なのだろうと思うことにした。そうして『霧』の中に入って、おじいや母親がどうなったのか知りたいと考えた。

そして、簡単な食料と貴重品など最低限の荷物だけを持って、ハナは群青色のスーパーカブに乗って、山道を降りていくことにした。


山道をスーパーカブで降りていくと、遠くの眼下に境界がくっきりと判別できる雲海のようなものが見えてきた。

山間部の緑色と白い雲海に乱反射する太陽光が目に眩しく、見た目には非常に綺麗な景色ではあったが、あの『霧』が人々の記憶を奪うと言うことがわかってきた以上、ハナはどうにも複雑な心境になった。

そうしてくねくねした山間部の道を降りると、ついに白い『霧』の中へと入ることとなった。


ハナは「自分には無害」だと信じていたが、盲信していた訳ではないため、自分の周囲をこうして危険とされる白い物体に取り囲まれると、何だか空気が高い粘性を持つように感じられ、ハナは思わず息を止めてしまった。

息を止めたところで、暫くすれば限界に達するのは当然であるため、ハナは思い切って一気に『霧』を吸い込んだ。

有毒とされる白い気体が、自分の顔の目の前から自分の鼻を通って、肺を満たし、有害物質が身体中を駆け抜けるような感覚になり、ハナは突然えも云われぬ恐怖に襲われ、呼吸が途切れ途切れに震えるようになってしまった。


――落ち着け……落ち着け……、私には無害なんだ……。だってブラックボックスの記憶は無いんだし……。

とハナは考えたところで、ふとあることに思い至った。


――自分のブラックボックスの記憶すら『霧』の所為で失くしていたとしたら……?

ハナは思わずその場で急ブレーキをかけて、群青色のスーパーカブを山中の道路に止めた。

白い『霧』は非常に濃く、白い周囲の『霧』以外に見えるものは、地面のコンクリートと車線を示す白いペンキのみであり、あたかも周囲にハナだけが取り残されてしまったかのように感じられた。


一瞬ハナは自分がどちらの方角から来たのか分からなくなった。

『霧』の所為か、と思った。

落ち着くために深呼吸をし始めたが、「『霧』が……」と再び恐怖が意識の中で隆盛してしまい、ハナは呼吸の浅いところで吸うのを止めざるを得なかった。

少ししか息が吸えないと、少ししか吐けず、どんどんとハナの呼吸は浅くなっていった。

ハナはパニックに陥っていた。

浅い呼吸のまま、『自分は大丈夫だ……大丈夫なんだ』とハナは自分に言い聞かせたが、『大丈夫』である根拠は一切見当たらなかった。


――助けて、おじい……!

と思った瞬間に、おじいに小さい頃に何度も教えてもらった、ナイフを投げる前に気持ちの昂りを抑えるための呼吸法を脳裏に浮かべていた。

目を閉じて、丹田に気持ちを向けた上で、自分を一本の線のように感じながら、息を深く吸って深く吐き出す。

呼吸器の一定のリズムへと意識を向けて、振り子のような感覚になりながら、一呼吸をするごとに徐々に雑念を自分の中から追い払っていく。

何度もそうしてリズム良く深呼吸を続けると、ハナはだいぶ気持ちが落ち着いてきた。

目を開けると、周囲の『霧』も何故だかだいぶ薄くなったような気がした。


――私はこっちの道から来た。間違いない。思い出せる。問題無い……はず……。

多少の疑念は残りつつも、パニックが解消されれば、問題なく記憶を思い出すことができることにハナは気づいた。

ハナは改めてスーパーカブを走らせて、ゆっくりと深い『霧』に包まれた山道を降り始めた。


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