第5話 濃霧⑥
翌日、起きると不快感が体中に纏わりついていた。何だかとても嫌な夢を見た気がするが、そういう気がするだけで具体的な映像は一切思い出せなかった。
鏡を見ると、涙の跡が顔についており、また体中も昨日の汗でベタベタしていたため、まずは部屋のタオルを持って温泉に入ることにした。
携帯電話はあえて見なかった。きっと何らかの情報がSNS等で分かるとは思いつつも、それを観測しないことで、何かが発生した過去と今何かが発生しつつある現実と絶望的と思われる未来を、不確定性の霧の中に放り込んでおきたかった。
温泉は高級旅館ということもあり、非常に気持ちがよかったが、二人で温泉に来ていたおばさん二人組と温泉内で一緒になってしまったため、彼女たちの騒がしい雑談が嫌でも耳に入ってくることとなった。
ハナはそれも聞きたくない一心で、シャワーを浴びて水音で彼女たちの話声を遮り、温泉でゆっくりする間もなく上がることとなった。
そうして部屋に戻ったハナは、震える手で携帯電話を操作した。
あまりまともに稼働しているニュースサイトは無かったが、辛うじて更新されているニュースと各種SNSによれば、平野部は全て『霧』に沈んでいること、『霧』は体に毒であることがほぼ明白であること、どうやら記憶を失うらしいことがわかったが、なぜ『霧』が発生したのかや、どうすれば治るのか、どれくらい『霧』の中にいてはダメなのか等、肝心なことは全く不明であった。
またテレビは全くつかず、ラジオも全て止まっており、『霧』の中が現在どうなっているのかもよく分からなかった。
ハナはそんなことを知るにつれ徐々に目に涙が溜まっていき、携帯画面がどんどん滲んでいった。
頭が後ろに引っ張られるような目眩がした。頭がクラクラした。
どうして良いのか分からず、何も考えられない状態になった。
おじいの安否が心配になった。母親の安否も心配になった。
しかしどうすれば良いのか。何も名案は思いつかなかった。
ハナはぼーっとする頭のまま、ベッドで横になっていた。
断片的な情報だけがぐるぐると頭の中を駆け抜けており、ただぐるぐると延々と回り続けていた。
その情報は何にも結び付かず、何も産み出さなかった。
しばらくすると、ノック音と共に朝食が部屋まで運ばれてきた。
ハナは全く食欲はなかったが、ご飯と味噌汁に焼き鮭、海苔、ひじき、温泉卵といった典型的な和風の朝食セットを食べ始めた。
全ては食べきれなかったが、胃にモノが入ると多少体力的には元気になり、ハナは今後のことについて考え出す気力が出てきた。
いつ『霧』が晴れるのか分からないが、現時点では自分の家に帰れないだろうこと、きっと昨晩のうちに平野部から逃げてきた人もいるだろうことを鑑みると、とりあえずこの旅館に数泊は追加で留まり続けた方が良いだろうと考えられた。
そうハナは結論づけると、旅館の受付で連泊の申請をしたところ、「……多分大丈夫ですよ」という言葉と共に、泊めてもらえることとなった。
受付の『多分』という言葉に引っ掛かりを覚えたが、恐らく『霧』のせいで今日以降の予約客と連絡が取れず、恐らく来られないと推測されるためと考えられた。
高級旅館で値段は張るが、おじいからもらったお金があったため、ハナはこの旅館に追加で2泊することとなった。
そういった手続を済ませた上で、昼前頃から情報収集とお昼ご飯を目あてに温泉街の街中へと出てみることにした。
その温泉街は山中の川沿いに湯治場として作られた宿を起源とする由緒ある温泉街であり、小さな個人経営の宿屋から、50年くらい前には社員旅行で使用されていたであろう古くて巨大な旅館施設まで、温泉関連の施設が多数存在していた。
ハナはお土産物屋が並ぶあたりを散策しつつ、他人の会話を聞いたり、お土産物屋の店主に話しかけたりしつつ、情報収集をしていったが、特にここまでSNS上で得られた情報と大差は無かった。
お昼を適当に定食屋で済ませた後で、さらに情報収集を地道に続けていくも、あまり芳しい情報は得られなかった。
暗い気持ちになりながらそろそろ宿に帰ろうとすると、ふと道端で大声を出しながら井戸端会議をしていたおばさん3人の会話が耳に入った。
「昨日うちの人が出張で、しばらく例の『霧』の中にいたらしいんだけど、記憶を失うって本当に怖かったって言ってたわよー。何だか脳内に黒くて何もない空間が広がり続ける感じなんだってさ。思わず、あたし、『あんた、ボケてきていつもしょっちゅう色んなことを忘れるじゃないさ、その言い訳にできたなぁ!』って言ってやったわよ」
隣で聞いていた一人のおばさんが「本当だわよねぇ」と明るく笑った。
もう一人その話を聞いていたおばさんも、ひとしきり笑っていたが、ふと唐突にこう切り出した。
「そういえば、昨日うちの旅館に泊まりに来ていたお客さんも、何だか似たようなことを言っていたわねぇ……。『記憶がなくなるような感じがしたけど、脳内に何もないエアーポケットができたみたいで、とても怖かった』ってさ。さっきの『黒くて何もない空間』と似てない?」
「確かに似てるのかもねぇ。でも私たちもしょっちゅう物忘れをしているのに、それと何が違うんだろうねぇ……」
ハナはこの話を聞いて、ある種の違和感を覚えた。
――私、昨日、そんな『何もない空間』や『エアーポケット』を感じたかな……? 『何かを忘れた』って自覚も特段無いよな……、まぁあまり確証は持てないけど……。
ハナは最後に貴重な情報を得られたことに感謝をしつつ、旅館に戻って行った。
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