第5話 濃霧⑤

そうしてハナはおじいの家から、山岳部の温泉街へと向かってスーパーカブで勢い良く走り出した。

既に街中は深い『霧』に覆われており、運転するには少々見通しが悪くなっていた。

幹線道路に出ると、歩道ではまだ『霧』から逃げるという選択をとっている人は非常に少ないようで、いつもと同じくらいの人通りで、特段大きな混乱は見られなかった。

ただ、幹線道路を走っていると、なぜだか道路の真ん中で立ち往生をしている車があったり、逆走している車がいて、ところどころで後続車からクラクションが鳴り響いている状況が発生していた。

立ち往生の原因となっているドライバーを見ると、口をぽかんと開けて、「私はどうやって行動すれば良いのか?」と言ったクエスチョンマークが頭の上に出ているような態度だった。

ハナは何が起きているのか、上手く飲み込めなかった。


ハナはそのような交通状況の中、あまり速度を出しすぎずに、立ち往生している車輌の間を縫うように群青色のスーパーカブで走り抜けて行った。

時折休憩を挟み、Twitterのタイムラインを追っていると、霧のせいで痴呆や認知症のような症状が出ていたり、それが悪化していると言うことがどうやらわかり、あるところでは混乱によりドミノ倒しのような状況が起きたと言う噂も流れていたが、一方で、ただのデマだろう、ただの霧に乗じた愉快犯だろうという憶測も流れており、どれが本当の情報か見極めが難しい状況となっていた。

それでもハナはおじいに言われた通り、山岳部の温泉街をスーパーカブに乗ってひたすらに目指し続けた。


しばらく走り続けると、人通りもまばらな山間部に入ってきた。

徐々に『霧』も薄くなってきたようだったが、太陽光はあまり届かなくなってきたために既に辺りは薄暗く、電灯の間隔も徐々に伸びていき、スーパーカブの足元すら心許ない状況になってきた。

それでも走り続け、ようやくハナは目的地の温泉街に入ることができた。

その温泉街はバイクのライトで大気を透かして見る限り、『霧』は出ていないようだった。


当然のことながらハナは宿泊の予約をしていないため、走っているうちに目に止まった古くて安そうな宿にとりあえず入って、宿泊可能か聞いてみた。

すると今日は宿泊不可というご主人の返事だった。

ご主人曰く「不思議なことに、今日になって突然いっぱい当日客が入ったんです……大変申し訳ございませんが……」とのことだった。

その次に見つけた宿屋でも似たような返事で宿泊を断られてしまった。

ここでハナは、どうやら自分以外にも平野部から『霧』を避けてきた人がいたことを悟った。


――どうしたら……。

とハナは悩むも、特に名案は浮かばず、ひたすら宿屋を巡ってその温泉街を走り続けた。

すると5軒目の少し高級感の漂う旅館で、一泊1万5千の部屋なら空いている、との返事をもらうことができた。

ハナは「高いな……」と少し考えて逡巡したが、おじいから多額のお金をもらっていたことを思い出し、ここまで尋ねた宿は全て満室で、別の宿もあるかどうかわからない状況でここを避けると、今日は宿泊すら出来なくなってしまう可能性もあったため、やむを得ずそこに宿泊することにした。


一人で使用するには広すぎる洋室に入ると、ハナはここまでの運転に疲れていたために、ふかふかのベッドにまずは飛び込んだ。

横になっていると、今日の記憶がとりとめもなく次々とフラッシュバックしてきた。チャボの冷ややかな目つき。ナイフ投げ。おじいに言われて、一人逃げてきて本当によかったのだろうかという悔恨。おじいの優しい目と深い皺と優しい笑顔。最後の涙で見えなかったおじいの表情。おじいの色々な言葉。『上手くなったねぇ』と言っていた言葉の裏には何かあったか? とりとめの無い映像が流れるうちに、今日の移動中にタイムラインみた「霧による痴呆のような症状」と、おじいの『名前はちょっとド忘れちゃったけど』と『この前の山の上の温泉街、あれ、名前は何て言ったっけ』という何気ない言葉が唐突に結びついた。


――おじいには既に『霧』の症状が出ていた? それに気づいて、私を無理矢理にでも送り出してくれたのか……?

とハナは気付いた。


気付いたが、ハナは確信は持てなかった。というより、確信したくなかったため、確信を持たなかった、という方が正しいのかもしれなかった。

涙が出てきたが、声は出なかった。

色々な種類の困惑と悔恨と薄い希望が交錯するうちに、自分でも何を考えているのかよく分からなくなり、徐々に意識が遠のいていって、そのままハナは眠りについてしまった。

翌朝には『霧』なんてものは既にどこかに消え去っており、『霧』の人体への影響は一切無く、気持ちよく暖かい温泉に入って、山の幸が豊富な美味しくて豪華な食事をして、そんな素晴らしい旅行をおじいに自慢してやるんだ、と表面では思いつつ、本心ではそのような機会が訪れないことが薄々知りながら。

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