第5話 濃霧④

おじいの飼い猫のチャボが、寝そべっている体制からスックと立ち上がり、唐突にニャーニャー鳴き始めた。

そうかと思ったら、その場で自分のカギ尻尾を捕まえようとしているのか、一生懸命にくるくると右回転をし始めることになった。

「おじい、チャボどうしたのかな。そんなお腹が空いているのかなぁ」

ハナはおじいに尋ねた。

「何だろうか。こんなチャボは初めてだなぁ……」

おじいはベッドの上で眉毛を八の字にして困ったような顔をした。


ハナは何だろうかとも思いつつ、おじいの家に来てから全然見ていなかった携帯で、Twitterのタイムラインをふと追ってみると、気になるトレンドとニュースがあった。

「おじい、これ、なんだろう?」

ハナがスマートフォンでおじいに示した画面には、飼い犬・飼い猫の異常行動が現在日本中で発生していること、またそれと同時に『霧』がなぜか一斉に日本中、もしかしたら世界中でも同時多発的に発生していること、すでに『霧』が観測されてから2時間近く経過していること、『霧』はもしかしたら動物の記憶を混乱させる効果があり、その所為でペットが異常行動を起こしている可能性があること、人間に対しても、もしかしたら有毒かもしれないということが書かれていた。

それを読んだおじいは「確かに外には『霧』が出ているな……」と言った後、しばらく口を閉ざして、何やら悩んでいるようだった。


ハナは窓からボケーと外を見ていると、ふと窓のサッシの隙間から、白いモヤモヤが徐々に室内に入っている様子に気づいた。既にいくらか室内にも入っているのだろうか、そう思えば、室内も薄く靄がかって見える気がしてくる。

そういえば特に寒い訳でもないにもかかわらず、おじいの吐く息が先ほどから白くなっているが、これも『霧』と関係があるのだろうか。


「おじい……、」とハナが室内に入ってきたその白いモヤモヤを見遣りながら言うと、おじいもそれに気付いたようだった。

そうして、おじいはハナに対してこう言った。

「……ハナ、今すぐここから逃げなさい。スーパーカブに乗って、まずは『霧』の出ていないところに行きなさい」

「いや、そんな……」と、ハナは大丈夫だと言おうとしたが、おじいに言葉を中断されてしまった。

「『霧』から逃げて、もしも何もなかったら、その時はそのまま家に帰ってきて、ワシを心配し過ぎだと思う存分笑ってくれれば良いだろうさ」


「いやでも……、そんな心配しすぎだよおじい。どうせただの霧だよ。そんな原因もよくわかんなくて、想定すらしてないことを信じる方がどうかしているよ……」

「いや、ハナ……。想定外のことは常に起こると思った方が良いし、それが起きる前に逃げるべきだと思うよ。……何かが起きてから後悔しても遅いんじゃよ」

おじいは遠い目をしつつそう言った。


「……それじゃ、こういうのはどうかな。ハナはこれから一番近くの山まで一泊二日旅行に行くと思えば?」

おじいはあくまで冷静にハナに伝えた。

「でも、おじい……、おじいはどうするんだよ……、もし本当に体に毒なら、おじいはどうやって逃げるんだよ?」」

震える唇をなんとか呼吸法を使って静めつつ、ハナは冷静を装って聞いた。内心、本当に『霧』が有害ならば、とても冷静ではいられないと感じていた。

ハナは一定のリズムでの呼吸を意識し続けた。


「わしは一人じゃ逃げられないからなぁ……、いつも見回りをしてくれている地域の人に電話してみるとするよ。あの……あれ、名前はちょっとド忘れちゃったけど、あの人ならいつも助けに来てくれるからなぁ」

おじいはあくまで冷静だった。

ハナはおじいをこの家に残してここを離れたく無いと思っていたが、おじいはベッドから体を起こして、ベッドのふちに座るようにしてハナの荷物を持って、ハナの方へ差し出した。

あくまでハナ一人で、この場所を離れるようにというおじいの静かな命令だった。

おじいは柔らかい微笑みを浮かべていた。


「……わかったよおじい。どうせ何も起きて無いんだから、一泊の旅行に行ってくるよ。おすすめの場所とかある?」

あくまで気楽に聞こえるようにハナは言った。気楽な感じで言ってせめて自己暗示をかけないと、呼吸法だけではハナは冷静でいられない状態だった。

霧は常に窓のサッシの隙間から部屋内に入っているようだった。

先ほどよりも室内のもやもやが濃くなった気がした。単なるハナの気のせいかもしれないが。


「そうだなぁ、この前の山の上の温泉街とか良いんじゃないか? あれ、名前は何て言ったっけ。あそこだよ。あの温泉、とても気持ちよかったよなぁ。お金は渡しておくから、これで行って来なさい」

おじいは5万をハナに手渡した。

一泊だけするにしては多い金額だった。この『霧』へのおじいの気持ちを暗示しているようだった。


しかしハナはあくまで平静を装っていた。一定のリズムで吸って、吐いてを繰り返していた。

「わかった、行ってくる。んじゃ、また明日、温泉の感想をたっぷりまた聞かせてやるからな」

「……楽しみにしてるぞ。ハナ……、思う存分、旅行を楽しんできなさいな……」

おじいはベッドサイドに座ったまま、片手で力強くハナをくるりと半回転させて、ハナの背中をトンッ、と押し出した。

ハナは思いがけない強い力に少々よろめきながら、玄関の方へと進まざるを得なかった。

「……おじい……、行ってくるよ。また明日帰ってくるからな」

とハナはおじいを振り返りながら言った。どんな顔をすれば良いのか分からなかったが、ただ泣き顔だけは見せてはいけないと思っていた。

それでも涙が出てきそうになっていた。

「……行ってらっしゃい」

おじいはあくまでいつもの感じで送り出してくれた。

ハナはおじいの顔を見ようと思ったが、涙が溢れておじいの表情が良く見えなかった。


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