第5話 濃霧③


そうして、高校生になると、ハナはおじいからスーパーカブを譲り受け、たびたびおじいとのツーリングやバイクでの一人旅に行くようになってしまったため、ナイフの練習は一時期ほど熱心に行ってはこなかった。

ただ、2週間前におじいが自室で軽い捻挫をしてしまったため、ハナはおじいとの会話のネタを作るという意味でも、ナイフ投げの練習を継続的に再開するようになったのだった。


ナイフ投げの際には呼吸法が非常に大事となり、練習の時から常に実践する必要がある。

この呼吸の操作による集中力の高め方は、おじいが小学生の頃から何度も繰り返しアドバイスをしてくれたことだった。

ヒトはナイフのという明確な殺意の塊たる武器を眼の前にすると、緊張と興奮をしてしまう生き物であって、ナイフを扱う時にはそれが邪魔になる。その緊張と興奮を沈めるために、必ずナイフを扱う際にはこの呼吸をしなさい、と言うおじいの教えだった。

具体的には、自分を一本のピィンと張ったピアノ線としてイメージをし、丹田へ息を入れ込むように空気をたっぷりと吸い、そこからゆっくりと邪念と共に空気を吐き出す、と言う呼吸を何度か丁寧に行い、意識を呼吸器の感覚へと方向付けて雑念を追い払うと言う呼吸法だった。

これにより気持ちの昂進を抑え、澄んだ水面のような気持ちになる。


ハナはいつものように幼い頃から実践してきたおじい直伝のこの呼吸法を行い、気持ちを平穏へと落ち着かせた上で、練習用のナイフを立てかけていた的に向かってスルリと投げつける。

筋肉の一瞬の緊張と弛緩の後に続く、ドスという立てた畳にナイフが刺さる音。もう1本。もう1本とハナは投げ続ける。

ハナはそんな練習をここ2週間ほど行ってきた。


ナイフ投げの練習をしている時に、集中力が高いレベルで持続すると、空間が自分とナイフと的だけになる瞬間がやってくる時がある。

自分の身体が「ナイフを投げる」という機能に徐々に純化されていき、自分とナイフが一心同体のような感覚になり、その全てを手中に把握できている瞬間。

ナイフが空気を切り裂き、的に当たるまでの時間が横に引き伸ばされ、ナイフの飛ぶ先が確実に感じられ、畳に貼り付けられた的に当たる前から、『当たる』と直感的に『知る』ことが出来る瞬間。

――この感覚が心地良いのよね……。

とハナはナイフ投げの練習をしていて、久しぶりに実感した。



そうして今日、ハナは久しぶりに、最近のナイフ投げの練習の成果をおじいに見せることになった。

ハナはおじいの横で立ち上がって、壁に立てかけてある畳に相対して立ち、練習用の刃先が尖っていない薄いナイフを取り出し、手の上でくるくると何度か回転させた後で、右手を天井に向かって垂直に上げて、ナイフを構えた。

狙いは畳に貼り付けてある、紙にプリントされたダーツボードの真ん中である。

ハナは息を整えつつ、手首に一瞬だけクンっと力を入れて、後は脱力して振り子のように右手を振り下ろした。

すると、するりとナイフは空中を飛んでいき、ダーツボードの真ん中に綺麗に突き刺さった。

集中を保ちつつ、腕を胸の前に横にして構え、そのまま軽く水平に右手を振ると、先ほど投げたナイフの隣にドスという音とともに突き刺さった。

さらに腕を垂れ下げた状態から一瞬の筋肉の収縮により腕を跳ね上げ、下から右手を振ると、空中を切ったナイフが2本のナイフの間にドスと突き刺さった。

ハナは3本投げると「ふう」と息をつき、体の筋肉を弛緩させた。


おじいは笑顔で「上手くなったねぇ」と皺を深くさせつつ、白い息を吐きながら言った。

「良い呼吸と無駄の無い身のこなしだね。全然なまっているようには見えないよ」

「本当? やった! やっぱりおじいの今までの教え方がうまいんだよ。師匠が良いと弟子も上手くなるからね!」

「そうだねぇ」


すると突然、おじいの飼い猫のチャボが、寝そべっている体制からスックと立ち上がり、唐突にニャーニャー鳴き始めた。

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