第5話 濃霧①

ハナはおじいの家に来ていた。

そして、右足を捻挫中のおじいが寝そべっているベッドサイドで、飼い猫のチャボに対しておもちゃの猫じゃらし棒をフリフリして構ってもらおうとしていた。

しかしチャボは猫じゃらしに対して反応を見せず、丸くなったまま瞼を少しだけ開けて面倒そうにその棒を見ているだけだった。

退屈そうにあくびをされた。


「あれー、今日は元気ないのかな」

「そりゃおめー、何度も来ては毎回構ってやろうとするから、チャボもいい加減飽きたんだろうよ」

とおじいは真っ当な指摘を、白い息を吐きながらした。

ハナの高校進学以降は、高校のすぐそばの帰り道におじいの家があるため、帰り道にわざわざおじいの家に寄ることも多く、週に2度から3度は来ていることになる。

そうして、おじいの家に寄っては、おじいと今日学校であったことの世間話をしたり、バイクでおじいと二人ツーリングをした思い出話や次に行きたいところの話、おじいの少年時代の修行の苦労話やその後の芸で身を立てていた昔話など色々とダベりつつ、時たま料理を作ってやって一緒におじいと食べたりもしていた。

妻に先立たれてしまったおじいにとっては、ハナは良き孫であり、良き話相手でもあった。


そしてハナにとっても、たとえ高校から真っ直ぐに帰ったとしても、シングルマザーの母親は仕事に出ているため結局一人になってしまうことが多く、また思春期を経て微妙な距離感になってしまった母親との食事は多少なりとも気疲れしてしまう部分も多く、おじいの家がある意味でオアシスになっているのであった。

そのため、ハナとしてはあまりおじいに迷惑にならないような頻度で、おじいの家に寄っているのであった。

おじいは「全然迷惑なんかじゃないよ、毎日来てくれてもいいよ」と言ってくれているが、親しき仲に礼儀、とまでは行かなくとも、多少の気遣いは必要であろうし、あまりに行き過ぎると(あまり本人はそう思っていないのかもしれないが)本来の保護者である母親の視線も気になってしまうため、現状は週に2回から3回に抑えている。


「おじい、足の調子は大丈夫?」

とハナは尋ねた。

2週間くらい前に、家の中でよろけた時に、足首を挫いてしまったらしい。

「うん、もう痛みはあまりないし、このままいけば大丈夫じゃなかろうか」

おじいはかなりの歳であるはずだが、年齢の割にはかなり矍鑠かくしゃくとしており、足を捻挫する前はハナとツーリングにしょっちゅう行っていたこともあって、まだまだ元気であった。


通常であれば、高齢者が足を痛めると、そのまま寝たきりになってしまうことも多いが、そんなことにはならないだろうとハナは楽観的に思っていた。

「またハナとツーリングに出かけないといけないからなぁ、まだまだ死なんよ」

とおじいは笑顔に皺を深めつつ、白い息を吐きつつ言った。


「そういえばハナ、最近はナイフ投げを練習しているのかい? 練習の成果を見せてごらんよ」

と話をハナに向けてきた。

おじいは少年時代から見世物小屋で修行をしつつ働いていたという過去があった。

見世物小屋とは良く言えばアメリカのサーカスのような物だが、日本のものはもっと狭雑物に塗れており、奇形児の展示や小児病や巨人病の人々の見世物、エログロナンセンス等、なんでも『見世物』として興行されていたらしい。


おじいは7人兄弟の中でも末っ子だったために、半ば無理やり見世物小屋の曲芸師に弟子入りをさせられ、そこで軽業の修行をすることになった。

色々な曲芸師としての技を師匠に仕込まれたらしいが、おじいが最も得意で、何年も何年も鍛錬を積み重ねてきた技術がナイフ投げだった。

ナイフを投げて女性の頭の上に載せたリンゴに当てたり、ナイフでジャグリングをしたり。ここでリンゴをいつも乗せてくれていた女性が後のおじいの妻になるその人だった。


ハナが小学生の頃には、既におじいは現役を退いて何年も経っていたが、それでもそのナイフの扱いは非常に洗練されていた。

ナイフ投げでは的のど真ん中にするりと軽々と的中をさせていたし、ジャグリングでは小さいナイフが光に煌めきながら空中で踊っているようだった。


ハナの母親はあまり良い顔をしなかったが、おじいの「ナイフの扱いは護身にもなるし、将来きっと包丁捌きもうまくなるぞ」という説得により、小さい頃からおじいと年に数回会うたびに色々な技や心構えなどを教えてもらってきた。

その時は「そうかもなぁ」と思ってしまったが、いま考えると、護身用なら柔道とか空手とか他の武術の方が役立つだろうし、包丁とナイフはかなり扱い方が違うとわかるため、おじいの説得はかなり怪しいかったなと現在ではハナは思っている。


まず小学生の頃は「俺も昔はこれでめちゃくちゃ鍛錬をしたもんだ」という練習用の全く切れないナイフを、指先でペン回しのようにくるくる回す練習から始めた。

おじいはまず見本として、指先、手のひら、手の甲でそれぞれに綺麗にくるくると回転させるという技を見せてくれて、次に会う時までにこれを両手でできるようになるまで頑張ってごらんと言ってきた。


ハナは小学生の時から自分に自信がないおどおどとした子で、あまり友達もいなかった。

また母親もシングルマザーでいつも働きに出ていたため、家では一人でいることが多かった。

そのため家で一人っきりで練習をする時間はたっぷりあった。

母親に動画で撮ってもらったおじいの見本を何度も見ては練習し、スローで見返しては練習し、指先・手のひら・手の甲で出来るように何度も繰り返し練習し、さらには左右の両手で出来るように練習をし続けた。

「練習用で切れない」とは言われたものの、刃先が薄くなっているため、勢いと当たる角度が悪いと切り傷が出来てしまったが、ハナは手の平や手の甲に線状の浅い打ち傷をつけながらも練習し続けた。


そうして練習を続けるうちに、徐々にハナにとってナイフが道具として手に馴染み始め、何も見てなくとも、自分の手とどういう位置関係にあるのか、どちらを向いているのかが手に取るように分かるようになってくる。

まさにナイフがハナの体の一部となってくるようであった。

ハナは自分の体が拡張されていき、さらに段々と出来なかったことが出来るようになることで、練習が楽しくなっていった。


そうしているうちに、半年が経って、おじいの家に母親と行く機会が巡ってきた。

そこでおじいに「どれ、見せてごらん」と言われてナイフの練習の成果を見せると「上手くなったねぇ」と目を細めて喜んでくれた。

ハナにとっては、これが初めての明確な成功体験だった。

これに味を占めたハナは、年末年始と盆で半年に1つずつ課題とアドバイスをもらって帰り、次におじいに会った時に練習成果を見せて「上手くなったねぇ」と言われて、また次の課題とアドバイスをもらって帰るという方式で、ナイフを上手に投げる技術を身につけていった。

小学生の低学年の頃からナイフの扱いに慣れていったハナは、高学年になる頃には、練習用ナイフの投擲をかなり正確にできるようになり、さらにナイフ3本で鮮やかにジャグリングができるようになっていた。

おじいの技術と比べたらまだまだ未熟ではあったが、趣味として楽しんで練習を積み重ねてきたことを考えれば十分な上達と言えた。

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