第4話 故郷⑧

「……やはりそうですか……」

父親はハナにとって意外な返答をしてきた。


「『やはり』ってことは、これまでも『霧』がこの街を飲み込むことがあったってことですか?」

「……ええ。確信はありませんでしたが……。風が非常に強い昨日みたいな日に町全体が薄く靄がかったような状態になったことはあり、最近の些末な出来事について、記憶違いが妻と起きたことはありました。一瞬『もしかしたら……』とうっすら不安が横切りましたが、この町は湖が近くにあり昔から自然現象として霧や靄が発生しやすいですし、私も妻も段々と老けてきて……、たまたま偶然が重なったんだろうと考えてました。というより、そう考えたかったんだろうと思います。そう思い込みたかったんだろうと思います。人の記憶なんて曖昧で、『霧』が無くとも忘れるのですから……」

「……」

ハナは何も言えなかった。


「それに……あぁ、今思えば、朝に妻と些細な記憶違いで喧嘩が起きていたりもしていたんですが、それも深夜に霧が町を覆い隠したせいなのかもしれませんね……」

父親は遠い目をして言った。


「『霧』から逃げるべきです。移住をすべきです。ヒカリちゃんのためにも」

ハナは少しだけ逡巡しつつも、思い切って力強く言った。

しかし父親は声に力がなかった。

「……それが出来ないから、私たちは自分の脳味噌を信頼できずに『ボケが来てしまった』と誤魔化し、この霞がかった状態はただの霧であって、『忘却の霧』ではない、とずーっと無意識的に思い込んだんですよ……」

父親は続けた。

「この街は『霧』以前から存在した街です。私は私の両親の代から、この町で民宿と酪農を経営して暮らしてきたんです。それを潰して別の街に移住しろというのですか。それにこの町には大事な思い出がたっぷり詰まっているんです。『霧』が発生したとしても、『霧』がたまに襲いくることはあっても、大事な大事な私たちの故郷なんです……。それをあっさり手放せと言うのですか……」


ハナは故郷という言葉で、唐突におじいを思い出した。

ハナにとっては故郷とは生まれ育った場所ではなかった。またおじいが住んでいた田舎でもなかった。

故郷のような郷愁と居心地のよさを感じるのは、いつもおじいの存在そのものだった。

ハナにとってはおじいが故郷そのものだった。


そしておじいが『忘却の霧』によって多くの人と共に『消えて』しまった時、ハナは自分の半身が奪われたような感覚になった。

そんなハナだからこそ、父親の心の底からの悲痛な叫びを直感的に理解できた。

しかし同時に、それはヒカリ一家を見捨てることになるため、何としても反論しなければならないとも考えた。


「……でも……! 例え大事な故郷を捨ててでも、移住すべきですよ! 『霧』のせいでご自身も奥さんもヒカリちゃんもいつ消えるかもわからないんですよ!」

「……ここはいつまでも私たちの故郷です。ここを離れての生活なんて考えられないんです。『霧』で私たちも色々なものを失いました。両親や友人、民宿の常連さんに気さくな取引先、酪農製品を買ってくれた近くの方々や遠方のお客さん。もちろん私たちだけが不幸だとは言いませんし、むしろまだ良かった方でしょう。しかし、それでも、こうして民宿と酪農を続けているのは、この町が今も昔も私たちの大事な故郷で、その故郷に誇りを持っているからです」


父親の決心は固いようだった。

ハナは暫く何もいえなかった。放心状態になってしまった。

父親に反論すべきだと頭では分かっていても、何も考えられなかった。

ハナの口が半開きになっている。ふるふると口の端が震えている。


そうしてハナの脳内にポッカリと空白の隙間が生まれた。

ハナはその隙間を震える頭で眺めていると、どうやらうっすらと父親の言い分に納得させられている自分に気付いてしまった。

故郷に誇りを持っているという父親の言をどうにも否定出来ない自分に気づいてしまった。


ハナは何とか言葉を紡いだ。

「……わかりました。でも、せめて……、せめて、ヒカリちゃんはどうするか、彼女自身に選択をさせてあげ、」

とハナが言いかけたところで、ヒカリが厨房のドアの陰から父親に向かって飛び出してきた。

「パパ! 全部聞いてたよ! 私はパパとママとここで暮らしたい! この町じゃなきゃ嫌だ! パパとママと一緒にこの町でじゃなきゃ嫌だ!」

ヒカリは父親に抱きつき、父親はそのまま娘を愛おしそうに抱え込んだ。

「……」

ハナはヒカリの重たい決意に何もいえなかった。


ハナは民宿の自室に戻ってきた。

朝食はすぐにヒカリによって運ばれてきたが、手をつける気分になれなかった。

すると、すーっとナギが窓から戻ってきてハナの右肩に降り立った。

外で朝食を食べてきたのだろう。

「あれ、ハナ、どうしたのさ。既にめっちゃ疲れた顔してるよ?」

「ああ、朝からとても重たい話をしてね……」

と先程の話をナギに説明した。


「なるほどね……」と言ったあとで、ナギは続けた。

「まぁ、でも人生なんてそんなもんじゃないの? 人には譲れないプライドとか絶対的に大切なものがあって、それを生涯大事にして、そうして死んでいくってことじゃん。人生の絶対価値とでも言えるかもね。もちろんそんなものを持たない人もいるけど、それでも絶対価値を持ってしまった人は、それを死ぬまで守らなきゃいけないんだよ、文字通り死ぬ気でね」

「でもさ、だからと言って『霧』に覆われて『消える』かもしれない町で暮らすのって……、何回かに分けて『霧』に入った場合の影響とかもよくわかってないし……」

とハナは思わず感情的に言った。

言ってからハナはあまり反論になっていないと気づいた。


しかしナギはあくまで冷静だった。

「遅かれ早かれ人は死ぬ。オウムも死ぬ。普通の町で普通に暮らしてても、事故とか病気で死ぬ危険は常にあって、この町の方が死ぬ危険性が高いってだけでしょ。それなら自分の絶対価値を守ってこの町で死にたいって思っても不思議はないと思うけどなぁ……。そもそもどれくらいの頻度でこの町が『霧』に覆われるかもわからないし、徐々に『霧』の標高が下がるかもしれないし。

……まぁ、確かに、この町だと、そのラストの『消える』タイミングが『忘却の霧』ってことで、死の危険性が常に見えちゃう点で何となーくモヤっとしちゃうけどさ。あ、今のは霧とモヤでかけた高等ジョークね、これ」

ナギは最後だけ茶目っけたっぷりに明るく楽しそうに言った。

「真面目な話っぽかったのに、自分で自分のジョークを解説するな」

「まぁまぁ」


そして少し考えてハナは話し出した。

「でもさ、せめてヒカリちゃんだけでもさ、どうにかならなかったのかなって思っちゃうんだよね……。ヒカリちゃんはきっと両親の影響力が強すぎて、本当に心の底から故郷のために残りたいのかもわからないじゃん……」


「それじゃ、ハナが引き取る?」

ナギは少し苦笑しつつ、提案をした。

「それは無理がありすぎるかな……。だってヒカリちゃん、忘却現象が起きてたから、ダイバーにはなれないし。隣町に運んだところで、そこから一人っきりで生きていくのは難しいでしょ。私はそこまで責任は取れないよ……」

「それじゃハナが悩んだってしょうがないじゃん。どうしようもないよ」

「……そうなんだけどさ……。でも、まぁ確かにそうなのかな……」


ちょっと考えた後でハナは続けた。

「『忘却の霧』が発生した日、大事なおじいと一緒にいて、『霧』の影響がよくわからない状態で、足が悪いおじいと一緒に逃げられないってなって、一人なら自分のスーパーカブで逃げられるからって言われて、私はおじいに背中を押されて一人で『霧』から逃げてきたんだよね……。あの時は自分がダイバーだとはわかってなくて、『霧』の中にいるとヤバいんじゃないかという話がうっすらと伝わってきて。一人で逃げて……。あの時の後悔は今も自分の中に強く残っているんだよな……。この後悔は多分一生残り続けるんだろうな……」


「……」

ナギは何も言わずにハナの頬にふわふわの頭を擦り付けてきた。

ナギなりの慰めの姿勢であった。

「そういうことなんだろうな……、どうしようもないよな……」

ハナはやるせない心情に一粒の涙がこぼれ、ナギの頭にぶつかった。

ハナはナギの頭を感謝の気持ちを込めて撫でてやりつつ、『忘却の霧』が発生した日、その日はまだ『忘却の霧』という名前すらついていなかったが、その当時のことを思い出していた。

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