第3話 先祖③

「実は……、私たち、ダイバーじゃないんです……」


ハナは目を丸くした。

「はぁ? 一体こんなところで何してるんですか……?」

――我慢大会? 心中? 新興宗教の修行?

とハナの心の中で謎が渦巻いていたが、ふと今日のとある出来事に思い至った。

「……まさか、変な商人から『霧』の効果を受けなくなる薬を買った訳じゃ……?」

それと同時に、どこでこの男女を見かけたのかハナは思い出していた。

――あの焼き芋の屋台で、私の前に並んでた男女二人組だ……。その後も道端で焼き芋を食べていて、私とあの男の会話を聞いていたのか……。

ハナはそう確信した。


男女は座って俯いたまま二人で顔を見合わせた。

二人は何も言わなかったが、図星であると仕草や顔色が雄弁に物語っていた。

「あんなの、偽物よ。……まぁ確かに証拠も無ければ、証明も断言も出来る訳じゃないけど、99%偽物に決まってるよ」

ハナはあくまでも誠実に、100%偽物とは断言はしないでおいた。

しかしそれでもこの男女の感情を逆撫でするには十分だったようだ。

「そんなのわからないじゃない! それに、ここまで二人で色々話してきたけど、忘却現象は始まってないわよ!」

女は初めから薬を否定されて、逆に躍起になっているようだった。叫ぶ息が白くなっていた。

ハナは、まず男女を冷静にさせないとどうにも出来ないように思った。

「……『霧』に入ってからどれくらい経つの?」

「もうすぐ2時間かな」と男。

「2時間!? もう重要な記憶までどんどん失われていくじゃないの」

個人差や体格差にもよるが、『忘却の霧』の中に数分以上いると些末な記憶が段々と失われ始め、概ね2時間前後経った頃から、生活に支障を来すような重要な記憶も、徐々に失われ始めると言われている。

そして半日程度『霧』の中に入っていると、言葉も失われ、ある種の廃人と化してしまうらしい。

「でも! 忘却現象は全然起きていないんだから……、大丈夫、きっと効いているの……」

女は何かに縋りたいような、何かを信じたいような声で言った。

内容は真逆だったが、本心ではまるでハナに助けを求めているかのような声だった。


ハナは思った。

確かに忘却現象は自分では判別しにくい。二人いたとしても、明確に認識するのは至難の技である。人間の脳には元々記憶を忘却する機能が備わっているために、忘却は、それが『霧』の効果によるものか、脳の本来的な機能によるものか、全く見分けがつかない。

しかもそれが些末な記憶の場合は、記憶自体が些末であるため、何らかの外部刺激がないと通常は思い出して意識の表層に上ることもないのである。つまり、些末な記憶の忘却という現象は、それが単に意識の表層に上らず思い出せないだけなのか、脳の本来的な機能による忘却なのか、『霧』の効果による忘却なのかが全く見分けがつかないのである。

それを見分けるのは、さながら光が全く届かない真っ暗闇の中、そこにあるモノが見えない原因が、光が届かないせいなのか、壁が間にあるせいなのか、霧がかかっているせいなのかを検討するようなものである。

だからこそ、この男女は自分の記憶の一部が『霧』によって剥奪されているかもしれないという根源的な恐怖の中で、顔を青ざめさせつつも「薬は効いている。忘却現象は起きていない。今思い出せないものは『霧』の所為ではない」と頑なに思い込み、信じているのであった。


――だとしてもあんな男の持ってきた薬を信じるなんて、どう考えても無謀すぎるでしょうよ……。それにしても……、全く……。

「何でこんなことをしているのよ?」

ハナはどうやってこの二人を説得すればいいのかわからず、ため息を吐き出しつつ話題を変えることにした。

「……この前、俺たちの親父が死んだんだ。村の火葬場で火葬されて、骨になって。で、親父の遺言、って言っても本人は遺言とも思ってなかったんだと思うけど、亡くなる数日前にぼそっと『あの墓に入りたかったなぁ……』って言ったんだよ。だから……、せめて骨壺をあのお墓に持っていって、先祖の墓参りをしたいんだよね。親父、お爺ちゃんっ子だったって前に言ってたから、『霧』の発生前は結構頻繁にその先祖代々のお墓参りをしていてさ、墓の前でぶつぶつお爺ちゃんと最近起きた出来事とか、俺たちの成長の様子とかを逐一報告をしてて。子供の頃は親父ながらもなんだか少し気味悪いなぁと思ってたけどさ、成長すると親父の気持ちがわかるんだよね。今では親父も亡くなったし、今度は俺たちが親父とお爺ちゃんと墓前で色んな報告をしたいんだよなぁ……」

男の方が説明をしてくれた。

やはり二人は雰囲気が似ており、『俺たちの親父』と言ったことから、どうやら二人は兄妹のようだった。

妹も顔色が悪いながらも目を潤ませており、兄の言葉に強く頷いていた。


「最後にお墓参りをしたのはいつだっけ……」兄が唐突に妹に尋ねた。

「……あれは……」と妹が思い出そうとすると、青ざめていた顔がさらに恐怖で蒼白へと変化していった。

「いつだった……? あれ……、そっか、結構前だったからか思い出せないだけか……?」


ハナは直感的にまずいと感じた。

兄妹の話を聞く限り、先祖代々のお墓参りは彼らの家族にとって重要なイベントにもかかわらず、二人とも顔色を蒼白にさせつつも全く思い出せないでいる。

しかもそれを「昔のことだったから」と脳の忘却機能に理由を転嫁させようとしている。

これも脳の防衛機制のような働きと考えられた。


――これはかなり忘却現象が進行して、徐々に重要なことまで侵食しているな……。しかしなぁ……。

とハナは思った。

重要事項の忘却現象であっても、基本的には些末なことの忘却現象と変わらず、自分では基本的には『霧』のせいだと判別しにくい。ただ違いがあるとすると『覚えていただろう』という直感的な喪失感が意識の中に生じるため、勘が良ければ『何か自分の身に変なことが起きている』と感じることができる。

例えるならば、明るい部屋の中で急に発生する、光を一切反射しない真っ黒なブラックボックス。空間だけがその場合から根こそぎ削り取られたような物体で、ただ、そこにかつて『何かがあった』ことだけが明確に感じられる。そしてその真っ黒な箱の発生原因が、脳の本来的な機能か、『霧』のせいかは自分では判別できない。脳の忘却機能のせいだと思い込めば『霧』のせいでは無くなってしまう。

そして、このまま彼らが『霧』の中に居続ければ、さらに忘却は進行していき、町に帰るための方向、『霧』が人間に忘却を生じさせること、様々な言葉、自分の名前、足を動かして歩くことすら忘れていって、半日経てば廃人に、1日経てば『消える』と言われている。


――これはまずいな……。

とハナは思った。

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