第3話 先祖④

――これはまずいな……。


どうしても霧の中に行きたいと思っていて、薬の効果があると思い込んでいる人に、忘却現象を認識させてさっさと帰すにはどうすれば良いのか。

自分の記憶が徐々に侵食され、剥離され、消滅していくということはつまり、過去の自分が記憶と共に一部分だけ消えるということで、二人は底の知れない根源的な恐怖を感じているはずではある。

しかしまた、親父の遺志を達成したいという強い願いによる強力な思い込みというのも、粘着的に自己認識を縛るものである。

その狭間で二人は顔面を蒼白にして呆然と動けず、廃バス停に座り込んでしまっている。


――ふーむ、どうにかして彼らの思い込みを解く必要があるか……。

とハナは一人で考えていると、遠くから様子を見ていたナギからお気楽な通信音声が入った。

『おーいハナ、会話が途切れたけど大丈夫? 説得失敗?」

どうやら通信機の圏内でずっとハナとこの男女の会話を聞いていたらしい。


ハナはナギからのいつも通りの音声を聞いて安心しつつも、とあることを思い付いたため、二人に「ちょっと失礼」と言いつつ廃バス停から一旦距離をとって、ナギにあることのお願いをした。

ナギは『オッケー、任せて!』と楽しそうに言った。


ハナは再度二人に向き直って尋ねた。

「それで、最後にお墓参りにいった日は思い出せましたか?」

「……、思い出せない……、が、きっと結構昔だったんだろう……」

兄が絶望的な表情で言った。相変わらず息が白く吐き出されていた。

「そ、そうよ……」と妹も絶望的な表情で頷いた。

「だから、忘却現象はとっくに進行していて、その薬は偽物なんですって……」

「そんなことはないんだよ!」

変わらず蒼白の顔のまま、何かを信じて縋りつきたいような様子で兄妹は叫んだ。

精神的に限界が近づいていた。


すると、突然、道路の反対側の歩道で甲高い女性の声がした。

「やっぱりあの薬は偽物だったのねー! あの男騙しやがってー! 今に見てろー! 絶対に絶対に仕返ししてやるんだからー!」

という間の抜けた叫び声が、一気に坂の下から上に向かって、物凄いスピードで走り去っていった。

しかし奇妙なことに、人影は見えず、足音も聞こえず、女性の甲高い声と鳥のはばたきの音だけが聞こえた。


しかしこれを聞いた兄妹はハッと顔を見合わせた。

「やっぱり……」と兄。

「偽物だったのかな……」と妹。

「ほら、だから言ったじゃないですか、偽物だって。」

ハナがそう言うと、兄妹は急に立ち上がって顔面蒼白のまま坂を走って登っていった。

全力疾走だった。

ハナはそんな兄妹の後ろ姿を無駄な疲労感と共に見つめていた。

――はぁ……。

と思わず溜め息が出た。


するとナギがハナの右肩に飛び乗った。

「ありがと、ナギ」

「いいえー」

もちろん先ほど反対側の歩道を駆け抜けていった女性の声の主はナギである。

ハナは感謝の気持ちを込めて、ナギの頭を撫でてやった。

「上手くいって良かったよ。ナギのセリフがあまりに棒読みすぎてちょっと大丈夫かと思ったけど、あの二人はやっぱり、全く冷静じゃなかったから、バレずに済んだね」

「えー、そんなこと言うー? なんにせよ上手くいったんだからいいじゃない」

ナギは軽く笑いながらケラケラと言った。


「それにしてもハナ、ハナが代理で骨壺を置きにいってあげればよかったんじゃないの? ダイバーの仕事として、お金をとってさ」

ナギはそのまま頭を撫でられつつ素朴な疑問を口にした。

「まぁ、それも少しだけ考えたけどさ、二人ともお墓参りっていう行為自体をしたそうだったからな……。墓参りってさ、彼らもやっていたように、過去の自分の記憶との会話なんだよ。故人に想いを馳せて、懐かしんで、思い出と現在を重ねて色んな報告をして、先祖代々のお墓の前で個人的な対話をする。そうして自分の中のわだかまった気持ちとかを全部吐き出して、色んな物事に整理をつけるんだよ。だからそこまでは私に代理できないじゃない」

ハナは『霧』の中に消えてしまったおじいの記憶を思い出しながら言った。

「確かにねぇ。そう言うのは個人的な記憶が大事だもんね」

「そう言うこと。二人とも、今日のことで大事にしている記憶まで失っていないといいけど……」

ハナは二人の様子を思い出しながら心配をした。

「まぁきっと大丈夫でしょ! 多分! あー……、もう少し下。あと、撫でるんじゃなくて、指の先で掻いて欲しいな!」

唐突なナギのワガママなリクエストにハナは応えてやることにした。

ナギは満足気な「きゅえー」と言う気の抜けた声を出した。

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