第41話 箒に乗った理由

 お風呂から出ると、リビングにアリシアの姿がなかった。ナルカちゃんの髪を乾かしてあげていたアンナちゃんによれば、夜風に当たりたいからと制服に着替えて外に行ったという。


 どうしたんだろう……?


 わたしとクレアさんがお風呂に入る前、入れ替わりでお風呂場から戻ってきたアリシアの表情を思い出す。普段と変わらない様子だったけど、……ちょっとだけ気になった。


 クレアさんとアンナちゃんに一言告げて、わたしも制服を着てアリシアを探して外へ出た。


 そしてすぐに見つかった。


 アリシアは店の前の道に立って、空を見上げている。髪は降ろしたままで、夜空に浮かぶ月明かりが彼女の金色の髪をキラキラと輝かせていた。


「どうしたの、アリシア?」


 わたしが話しかけると、アリシアは空を見上げたまま言う。


「思い出してたのよ、箒に乗ろうと思ったきっかけを」


 わたしはアリシアの隣に並んで、一緒に空を見上げた。どこまでも続く、吸い込まれてしまいそうなほど暗い空。そこに大きな月が浮かんでいて、数えきれないほどたくさんの星が瞬いている。


「さっき、ナルカに箒の乗り方を教えてほしいって言われたわ」


「ナルカちゃんが箒の乗り方を?」


 わたしは一度も言われたことがなかったから、ちょっぴり驚いた。そもそもナルカちゃんが箒に興味を持っていたことすら知らなかった。


「なんでも、ミナリーと一緒に空が飛びたいそうよ」


「ほんとっ⁉ ナルカちゃん、そんな嬉しいこと言ってくれたんだぁ」


 思わず「にへぇ」と口角が緩んでしまう。そっかぁ、ナルカちゃんわたしと一緒に飛びたいのかぁ。


 今はまだ難しいけど、将来大きくなったナルカちゃんに箒を買ってあげて、一緒に空を飛んでみたくなった。きっと、すごく楽しい時間になる。


「……今になって思い返せば、あたしもナルカと同じだった」


 そう言って、アリシアはわたしの方を見た。その表情はどこか物憂げで、何かに思い悩んでいるように見える。


 わたしはアリシアの手を取って、訊ねる。


「話したいなら聞いてあげようか?」


「聞いて欲しいから話してるのよ」


 アリシアはわたしの手をぎゅっと握り返してくる。わたしも、少し力を込めて握り返した。


「……あたしね、姉さまに憧れてたのよ」


 アリシアはゆっくりと言葉を紡ぐ。


「五歳の時、初めてレースを観戦したの。姉さまが出場した、領内の小さな大会だったけど、姉さまを凄いと思った。鳥のように、自由に空を飛んで。とても楽しそうに笑ってる。それでいて大人たちよりもずっと速くて、かっこよくて」


 それがアリシアにとっての始まりだった。


 箒に乗って飛ぶお姉さんの姿は、幼いアリシアの瞳にとても輝かしいものとして映ったことだろう。


「あたしも飛びたいと思ったわ。姉さまと一緒に飛びたい。同じ景色を見て、同じ風を感じて、姉さまと並んで飛ぶのが、私の夢だった。その夢を叶えるために、必死になって箒に乗る練習をしたわ。何度も箒から落ちたし、何度も壁にぶつかった。そのたびに怪我をして、あたしは泣いてばっかりだった」


 それでも、アリシアが頑張れたのはお姉さんと一緒に飛びたいという強い思いがあったからだろう。


「その頑張りを、姉さまも褒めてくれたのよ。だから、あたしはよりいっそう頑張ったわ」


 頑張って、頑張って、頑張って。箒に乗る練習を始めて三か月と経たずに、アリシアはアリス先輩と同じレースに出場できるまでになったそうだ。


 わたしが四か月かけてようやく乗れるようになった箒を、アリシアは五歳の時にものの三か月で乗れるようになったなんて。やっぱり、アリシアはすごい。


「姉さまと同じレースに出られることになって、あたしはそれだけで嬉しかった。姉さまと同じ景色が見られる。同じ風を感じて、一緒に飛ぶ夢が叶うんだ…………って」


 ――だけど、


「その夢は結局、今まで一度たりとも叶ったことがないわ」


 アリシアは唇を噛み、わたしと繋いだ手に力がこもった。


「……あたしは姉さまに、付いて行くことすら出来なかった。姉さまの背中を必死に追いかけた。置いて行かないでって、何度も叫んだ。……姉さまは一度も、振り返らなかったわ。だって、レースだもの。姉さまは、レースをしてたのよ」


 一緒に飛びたいというアリシアの願いが、お姉さんの手で叶えられるはずがなかった。同じレースに出場した時点で、アリス先輩にとってアリシアは敵以外の何でもなかったのだ。


「あたしがどんなに頑張っても、魔力を限界まで絞り切って飛んでも、姉さまの背中はどんどんと遠くに行ってしまう。目の前で距離が開いて行くのよ。ゆっくり、じわじわと。取り返しようのない距離が」


 それは幼いアリシアにとって、単なる物理的な距離ではなかった。


 もっと精神的な……お姉さんとの距離だった。


「姉さまがあたしを置いて行ってしまう。それが凄く、怖かった。だから必死になって…………気づいたら、魔力切れで落ちてた。そりゃそうよね。初めてのレースで、ペースなんて考えずに姉さまを追うことだけを考えてたんだもの。その時の記憶はずっと頭の隅に追いやってたわ。……この間のレースで、落ちるまでは」


 この間の新入生歓迎レースで湖に落ちたアリシアは、救助の魔術師が駆け付けた時、人目もはばからずに泣いていたそうだ。それは魔力切れで落ちたことや、アリス先輩に勝てなかったことが悔しかったというわけじゃなくて。


「……前に、姉さまに勝ちたいって言ったでしょ。本当は、勝ち負けなんてどうでもいいのよ。あたしはずっと、嘘をついてきた。姉さまに勝ちたかったんじゃない。本当は、姉さまに置いて行かれるのが怖かっただけなのよ。一人になるのが、寂しかっただけなのよ」


 アリシアは泣きそうになりながら、心境を吐露し終えた。


 ただ、わたしに胸の内を伝えただけじゃない。言葉にすることで、アリシアは自分自身と向き合ったのだ。それがどれだけ勇気の要ることで、どれだけ辛いことなのか、想像に難くない。


 お疲れさま、アリシア。頑張ったね。


 わたしは心の中で、アリシアを労う。


 そして彼女に、ここへ来る前から決めていたある提案をする。アリシアはちゃんと自分と向き合った。今度は、わたしがアリシアと向き合う番だ。


「ねえ、アリシア。今からわたしと――レースしようよ」

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