先生イジメ

奥田手前

先生イジメ

 年々職員室から教室までの距離が伸びている気がする。階段を上り切って息を整えている自分に気づき、横田は自分が情けなくなった。

 歳をとっていいことなど一つもない。子どもたちには好かれなくなるし、気苦労は増えるばかりだ。最近鏡を見ても白髪やシワが気にならなくなったのは、おそらく老眼のせいだろう。

 横田が四年二組の教室に入ると、子どもたちに緊張が走った。子どもたちに怖がられている自覚はあるし、いつも通りといえばいつも通りなのだが。

「朝礼するから、とりあえず座って」

 大人しく従いながらも、子どもたちは不安そうだった。涙目になっている子までいる。

「中野、学級委員だろ。号令かけて」

「横田先生、新井先生は?」

 怯えているのか、中野が言いにくそうにクラスメイトの疑問を代弁する。 

 横田はなるべく優しい声を心がけて言った。

「その話は後でするから」

 それを聞いて、子どもたちは深刻な顔をしてヒソヒソ話し始める。横田は、子どもたちが自分の前で静かにしないのを久しぶりに見た。

 号令のときも点呼のときも、話し声は止まなかった。普段は静かにさせるところだが、今日ばっかりはそういう気にはならなかった。新井のことを心配しているのだから仕方がない。

 点呼が終わると同時に、子どもたちが一斉に静かになった。横田が事の次第を説明する番だからだろう。

「体調を崩された新井先生の代わりに、ワシがしばらくこのクラスを見ることになった」

また、子どもたちがざわつく。

「みんなが心配なのはよくわかる。まあ、新井先生の体調が戻るまで、普段から授業してるワシが朝礼とか給食に来るってだけだ。なんか困ったことがあったら、当分はワシに言ってください」

 クラス全員が暗い顔をしている。休むだけでそこまで残念がられるのを見るとジェラシーを感じる。横田が休んでも喜ぶ子どもがほとんどだろう。

 若くて人気がある新井と張り合う気は微塵もないが、露骨に落ち込まれると、鬼教師として名高い横田だって少し傷つく。横田は落ち込んだ自分を職員室に着くまで隠し通せる自信がなかった。


 新井は、横田がまだ中堅と呼ばれていた時期の教え子だ。卒業するとき先生になりたいと言ってくれる子は結構多く、新井もその中の一人だった。横田が特別好かれていたというわけではなく、ある程度人間的に整っていれば、そう言ってくれる子に必ず出会うものだ。

 しかしながら小学生の頃の夢なんて変わってしまう方が普通だし、実際に教師になった人間はそう多くない。中でも小学校の教師をしているのは新井だけで、横田にとって新井は特別な教え子だった。二年前に新井がこの学校に来て以来、新井は横田の弟子のような位置づけになった。呑み会をするときには必ず誘うし、何度も二人でシメのラーメンを食べた仲だ。

「詳しい説明もなしに朝礼に行ってもらってすみませんでした。それで、新井先生の件ですが...」

話しかけてきたのは教頭だった。

「新井はなんで休んでるんですか。ワシに言えない理由なら無理には聞きませんけど」

 教頭は驚いた顔をした。

「新井先生から何か聞いてないんですか」

「ええ、何も。しばらくってことは、風邪とかじゃないんですよね」

「私も、横田先生が事情を知ってるんじゃないかとあてにしてたんですが...。落ち着いて聞いてくださいね」

 長期入院しなければいけない病気か、あるいは...。ある意味病気より恐ろしい可能性も存在する。

 教頭は声を潜めて言った。

「新井先生が昨日、退職願を提出されました」

「えっ⁈」

 横田は驚愕した。新井は昨日まで普通に勤務していたのだ。そんな素振りは一切なかった。しかしそれは、一瞬頭をよぎったことでもあった。

「横田先生には相談してると思ったんですけどね」

 新井が自分に何も言わずに決断したことはショックでもあり、新井らしいとも思った。悩んでいたとしても気取らせず、自分でなんとかしようとするのが新井だ。辞めるという決断自体は、まったく新井らしくないが。

「新井は昨日、辞める理由を言わなかったんですか」

「何回も、自分が悪い、とばかり言ってました。それから、横田先生に謝っておいてほしいとも」

「新井はもう、ワシとは会わないつもりなんでしょうか」

教頭は苦々しく俯いた。

「そう決めているように見えました」


 とりあえず、退職願は教頭がキープすることになった。

 ドラマみたいに退職願を保留しておいて、帰ってきた先生に澄まし顔で返すのが夢だったんですよ、と教頭は力なく笑っていた。

横田はずっと考えていた。どうして新井は辞めようと決めたのか。他の教員とのトラブルか、保護者とのトラブルか、子どもたちとのトラブルか。精神の病か、それとも家族に何かあったのか。

 電話にもラインにも、当然のように反応がない。

 二時間目は四年二組の授業。そこに手がかりがあるのかもしれない。横田にとってそれは、最後の望みだった。

少し息を吐いて教室に踏み込む。何十年かの教員生活で、初めて味わう種類の緊張だった。

 果たして、そこに手がかりはあった。

 黒板は小学四年生が知り得る限りの、考え得る限りの汚い言葉で埋め尽くされていた。その言葉は全て横田に向けられたもので、これもまた横田の経験したことのない事態だった。


 子どもたちのことは好きだが、舐められては教育は成り立たない。

 体罰を肯定する気はないが、子どもたちの間違いを正すために恐怖が必要なときはある。暴力以外にも、手段はいくらでもある。

 新井も同じ目にあったのかと思うと怒りが無尽蔵に沸いた。

 その怒りを、横田は全力で教卓にぶつけた。自分でも驚くほど大きな音が鳴る。効果は抜群で、教室は一気に恐怖で染まった。

「誰だ、これを書いたのは」

敢えて押し殺した声で聞く。誰も何も言わない。

「誰だ!」

 急に上がったボリュームに、子どもたちの体が反応する。

「中野、どういうことだ」

 こういうときに学級委員を名指しするのは間違っているのかもしれないが、そんなことをいちいち考える余裕はなかった。

「新井先生にもこうしてきたのか」

「違います!」

中野が叫ぶ。反射的にというのがふさわしい気がした。

「違わないだろう。そうか、お前らのせいか」

 横田は一人一人の顔を順に睨んだ。全員無差別に殴りたかった。教師としての理性がまだ残り、衝動を行動に移せない自分が腹立たしかった。


 職員室に戻った横田は、他の四年を受け持つ先生たちと話し込んでいた。

「それでどうなったんですか」

「気の弱い女子が何人か出てきて黒板消して、授業したよ。本当にふざけた奴らだ。新井が何か、あいつらのことを相談したりしてなかったか」

 各々に顔を見合わせる。どうやら誰も心当たりはないようだった。

「主犯格は誰なんでしょうか」

「それがよくわからん。悪口を書いたのは何十人もいると思う。字の書き方で大体わかるけど、男子だけじゃなくて女子も書いてたみたいだから」

何かが起きているのは確実だが、その異様さには計り知れないものがあった。

「先生イジメってあるらしいですね。新井先生は真面目だから、一人で抱え込んでしまったのかもしれないし。でも、新井先生は優しいし、こういうことになってしまうのはまだわかるんですけど...」

「はあ⁈」

何を言っているんだとみんなに睨まれて、西野が慌てて弁解する。

「違うんです! 新井先生が攻撃されて当然だって言ってるわけじゃないんです。たとえ新井先生にそういうことをする生徒がいたとしても、同じことを横田先生にもするのかな、って疑問に思ったんです」

 その場にいた全員が熱くなっていたが、意表を突かれて黙り込む。新井と同期で若手の西野の発言は、冷や水というよりびっくり水だった。

 横田は反抗したい子どもたちの捌け口になるような人間ではなかった。むしろ横田への反抗心が他の先生に向いてしまうことの方が多い。

 そもそも、今まで四年二組の子どもたちから敵意を感じたことなどない。

「どうしてだろう。ワシ以外の先生は、四年二組からは何もされてないんだよな」

みんなが首肯する。

「担任とかが標的になってるってことですかね。理由はわかりませんが」

現時点ではそう考える以外になかった。

 横田は得体の知れない違和感に身震いした。


 次に横田が四年二組に行ったのは給食の時間だった。また落書きがあるかと身構えたが、黒板は四時間目の授業で書かれたらしい面積の公式のままだった。

 子どもたちが態度を改めたのかと思ったが、喜ぶのはまだ早かった。とにかく、横田と目を合わせようとしない。男子に話しかけても無視される。女子も曖昧で短い返事しかしない。日直が先生の給食を教卓に用意することになっているが、誰も横田の給食を配膳しようとしない。日直の名前は消されていた。

 給食の時間はやけにうるさかった。声量が大きいというより、無理して話しているように見えた。普段は大人しい子も無理やりテンションを上げて相槌を打っている。

 落書きの時よりも明らかにやり口が陰湿になった。横田が嫌な思いをするような、しかし怒れないような手段をとっている。

 間違いなく子どもたちはそこに横田がいないふうに振る舞っていた。子どもたちの演技はわざとらしく、横田を意識しているのは明白で、むしろそこに横田がいるという事実を肯定していた。横田はその様子に、腹立たしさより痛々しさを覚えた。


「どうしてそんなことに...」

 教頭はため息をついた。

「ワシにだけ反抗するっていうのは、やっぱり何か理由があるんだと思います。やってることはイジメと一緒ですけど、意地とか執念みたいなものを感じました」

「単に反抗しているわけではないと?」

「はい」

 横田には、曖昧な確信があった。

「ワシが、新井にも同じことをしたと断定したとき、中野がすぐさま否定したんです。あのときは頭に血が昇ってて自己擁護だと決め付けていたんですが、あの大人しい中野が叫んだのがどうも引っかかるというか。その辺に何か、ヒントがあるのかも知れません」

「新井先生に少しでも、お話を伺えたらいいんですが...」

 教頭はまたため息をついた。普段からため息の多い教頭だが、今日ほど頻繁で深刻なのは初めてだ。

 相変わらず、横田のスマホにも連絡はない。

「終礼で、二組の子たちにもう一度話を聞いてみます」

 横田はここが正念場だ、と気合を入れた。

 本当のゴールはまだ見えない。


 二組の教室に入って、横田はまず混乱した。いつも通りに教室の前方の扉から入ったのに、なぜか子どもたちの後頭部が見えたからだ。

 理由は簡単で、子どもたちがみんな後ろを向いていたからだった。机を反転させ、頑なにこっちを見まいとしている。真正面といえばいいのか真後ろと言えばいいのか、とにかく教室の後方に意識を集中させ、そのせいかやけに姿勢がいい。教室の後ろにも黒板があることが、横田の混乱に一役買っていた。

「お前らこっち向け。こっちが正面だろ、教卓あるんだし」

横田は言いながら、なんて間が抜けた台詞だろうと自嘲した。

 子どもたちは当然のように振り向かない。

「中野!」

中野の肩が跳ねた。全身が震えているがこっちを見たりはしない。本当に損な役回りだ。

「島津!」

島津は二組の男子の中心だ。小四とは思えない胆力で、一切動じる気配がない。島津が動揺すれば、その動揺は全体に伝染していただろうが、さすがと言ったところだろうか。

 実のところ、打つ手はもうほとんどなかった。最終兵器にしては心許ないが、もう一度同じ言葉を。

「お前たちは! ワシにしたのと同じように! 新井にも! 陰湿なイジメを! したんだな!」

 明らかに、子どもたちの体が硬直した。それが横田に対する恐怖から来るのか、何か他の感情のせいなのか、横田にはわからなかった。

 長い沈黙が流れた。他の教室では終礼が終わり、ガタガタと椅子を引いた音がして、直後に元気の良い挨拶が聞こえる。一斉に子どもたちが教室を飛び出して、まだ終礼が終わってない二組を覗いては、その異様な空気に気圧され足早に去っていく。

 根負けしたのは横田だった。教室の後ろ、生徒の正面に歩いていく。

「なあ、何でお前らはワシらに反抗するんだ」

 そう言って生徒たちの方に向き直り、横田は予想だにしない光景を目の当たりにした。横田は自分の鈍感さを呪った。

 中野も島津も、他の男子も女子も、みんなが泣いていた。それを気取らせない小学四年生の根性に、横田は勝った負けたでいえば負けたのだ。

「話してくれないか。何か事情があるんだろう」

「新井先生がいいですっ...!」

 絞り出すように言ったのは、中野だった。

「ふざけんなよっ! 絶対に喋らないって決めただろっ!」

島津が立ち上がり、中野を怒鳴りつける。

「仕方ないじゃない! 横田先生は悪くないんだから!」

中野が机を叩いて怒鳴り返す。こんな中野は初めて見た。それは子どもたちも同じようで、島津が圧倒されている。

「新井先生に帰ってきてほしいんです...! でも、どうしたら戻ってきてくれるかわからなくて、代わりに来た横田先生がいなくなっちゃえばいいんだって話になって...だからみんなで力を合わせて、横田先生をイジメようって決めて...みんな平等に黒板に悪口書いたりとかして...でも給食のときに横田先生が来ちゃったから、次はもっとヒドイ事しなきゃって...」

 中野の話は飛躍していて、小学生に特有の考え方だった。

 すんなり中野が言ったことを理解できなかったのは、横田がそこまで好かれていないという事実を脳が直視できなかったからかもしれない。

 どうやら、横田が思っていた以上に新井と横田の間には格差があるらしかった。新井に戻ってきてもらうために、子どもたちは横田をイジメることをためらわなかった。中野が言った通り、横田は何も悪くないにもかかわらずだ。今は落ち込んでいる場合ではないのだが。

「でも、新井先生は体調崩しただけだって言ったよな。ワシをイジメたって新井先生はよくならないだろ」

「違います...新井先生は辞めるんです...」

「どうして」

 それを、と言いかけて、慌てて口をつぐむ。危うく中野の話を肯定するところだった。新井の退職願が受理されたわけではないし、そういう状況に新井があるということを子どもたちに伝えるわけにはいかない。

「どうしてそう思うんだ」

「昨日、お母さんに言われたんです。ようやく新井先生が辞めるって言ってくれたって」

 横田は、ノーガードで殴られたような衝撃に見舞われた。

「始業式の日からずっと、お母さんは新井先生のこと若いからダメだって言ってて。わたしはそんなことないよっていうのに全然聞いてくれなくて。何回も、お母さんが電話に向かって叫んでるのを見ました。昨日お母さんが、電話を切ってもう安心だよって笑ったんです。お母さんの笑顔が怖くて、わたしも一緒に笑っちゃったから...」

「じゃあ、お前らは新井先生に何もしてないのか」

「だからそう言ってるじゃないですか!」

子どもたちが一斉に横田を睨む。しかし、あの状況で子どもたちを疑うのは当然の流れではないか。教師なら子どもを信じろと言われても困る。横田は実際に子どもたちにイジメられた被害者なのだから。新井のために黒板に描かれた悪口はある意味真剣に考えられたわけで、横田の精神をピンポイントで抉っていた。

「みんなにその話をしたら、同じようなことがあった子がたくさんいたからどうしようってなって...」

 親が教師と戦うときに、徒党を組むのはよくあることだ。親が正しいときも、間違っているときもある。下手な教師に当たって子どもたちが不利益を被ることももちろんある。結局、親にも教師にもまともじゃない人間はいて、割を食うのはいつもまともな人間だ。まともじゃない同士で潰しあってくれればいいのだが。

 少なくとも、新井はまともな教師だった。

「よくわかった」

 よくわかったが故に、横田は困り果てていた。自分が攻撃されたことはひとまずどうでもいいのだ。だが、教育者としてこの子たちをほめるべきか怒るべきかは実に難しい問題だった。新井を助けようとしたことと、その手段として自分をイジメようとしたことが天秤の両極で揺れている。

「ワシをイジメなくてもよかったんじゃないか。ワシとか他の先生に話せばよかったのに」

「でも、そのときはそれしか思いつかなくて」

 子どもはたまにとんでもないことを考える。わかっているつもりだったし、新井に偉そうに語ったこともある。けれど所詮、大人が制御し切れる範疇にはないのだとようやく横田は悟った。

 そして、大人もとんでもないことをする。他の教員が気づかなかったということは、どこで番号を知ったかしらないが個人の電話にかけているのだろう。その狡猾さと周到さを隠し、子どもたちにはイジメはダメだと嘯いていると思うと戦慄する。

 横田は、子どもたちの行動は間違ってないのかもしれないと思い始めていた。子どもたちは横田に、なにか熱いものを思い出させてくれたからだ。

 横田は大人として、これからなにをするべきか考えた。

 結論はすぐに出た。大人として、とんでもないことをするのだ。

「ワシをイジメる作戦は誰が立てたんだ」

「みんなで考えました」

 何だこの会話は。この場面だけを切り取ったら笑えるのかもしれない。人生は俯瞰で見れば喜劇だ。

「誰かをイジメることは、今回みたいな理由があったってダメだ。ワシはみんなに嫌われてると思って傷付いたんだから」

 わかりきった説教を、子どもたちは真面目に聞いていた。

「こういうときは、謝るんじゃないのか」

 子どもたちが、声をそろえて謝る。

 なんてつまらないことを言っているんだと、横田は自分を眺めた。けれどそれも、教師の務めであるからには避けられない。教えるだけなら塾の講師にでもなればいい。教え、育てたいと思ったからこそ、三十余年前の横田は教員の道を志したのだ。

 定年を意識する歳になった横田は、子どもたちの目には退屈な存在に映っていたかもしれない。これからそのイメージを打ち砕くと思うと、不謹慎にも横田は笑いが止まらなかった。

「じゃあな、これからもう一回、作戦会議をしよう」

 子どもたちはポカンとしている。今日は子どもたちに驚かされっぱなしだったが、横田は一矢を報いた気分になった。

「新井先生を助けるために、どうやったら親を説得できるか考えよう。ワシにしたみたいに、無視したり壁に油性ペンで悪口を書いてもいい。みんなの親が集団になって新井先生を辞めさせようとしてるなら、こっちも集団になって戦うのも面白い」

 子どもの反乱を扇動するなんて、きっと前例はないだろう。正気でできることじゃない。でも、教え子を救うために正気を失えないほど、横田は正気を失ってはいなかった。

「みんなならできるよ、だって、ワシに反抗できたんだから。みんなのお父さんお母さんは、ワシほど怖くはないだろ」

島津だけが横に首を振っている。

「ウチの親は先生の何倍も怖い。でも、二人とも新井先生のことは好きだから大丈夫」

「オレんちも」「ウチもだよ」口々に言う生徒は、黙っている生徒より随分と多かった。

 新井のことをちゃんとわかってくれる親だっている。騒いでいるのは数人だけで、本当は新井のことを認めている親の方が多いのだ。

 中野と島津を中心に、作戦が練られていく。

 この子たちは親に育ててもらっている。親ほど計算もできないし、知識もないだろう。それでもこの子たちのうちの何人かは、きっと親より賢い。

 横田は作戦会議に介入する気はなかったが、責任を取る覚悟はできていた。どうせもうじき退職だ。いつの間にか失った気になっていた若さを、子どもたちが思い出させてくれた。

「それから、新井先生に言いたいことがあったら、ワシが伝えるから教えてくれ」

 新井の家は知っている。泥酔した新井を何回も送っていったことがあるからだ。アパートのドアの前で寝袋に入って夜を明かしてやろう。他の住民に通報されたら車中泊に切り替える。確か新井の家の近くにはコンビニがあったから食料はそこで調達しよう。幸い明日は土曜日だし、今日から二晩くらい粘れば大丈夫だ。家事ができない新井は、カップ麺が尽きて出てくるだろう。

 とにかく、今は冷静になってはいけない。冷静になって、こんな馬鹿げたことができるはずがない。

「じゃあ、みんなで手紙を書こうよ」

発案した子どもが自分の自由帳を差し出し、一人ずつメッセージを書いていく。

 横田は確信した。

 この子たちは将来、絶対に誰かをイジメたりしないだろう。

 

 



 

 


 

 






 年々職員室から教室までの距離が伸びている気がする。階段を上り切って息を整えている自分に気づき、横田は自分が情けなくなった。

 歳をとっていいことなど一つもない。子どもたちには好かれなくなるし、気苦労は増えるばかりだ。最近鏡を見ても白髪やシワが気にならなくなったのは、おそらく老眼のせいだろう。

 横田が四年二組の教室に入ると、子どもたちに緊張が走った。子どもたちに怖がられている自覚はあるし、いつも通りといえばいつも通りなのだが。

「朝礼するから、とりあえず座って」

 大人しく従いながらも、子どもたちは不安そうだった。涙目になっている子までいる。

「中野、学級委員だろ。号令かけて」

「横田先生、新井先生は?」

 怯えているのか、中野が言いにくそうにクラスメイトの疑問を代弁する。 

 横田はなるべく優しい声を心がけて言った。

「その話は後でするから」

 それを聞いて、子どもたちは深刻な顔をしてヒソヒソ話し始める。横田は、子どもたちが自分の前で静かにしないのを久しぶりに見た。

 号令のときも点呼のときも、話し声は止まなかった。普段は静かにさせるところだが、今日ばっかりはそういう気にはならなかった。新井のことを心配しているのだから仕方がない。

 点呼が終わると同時に、子どもたちが一斉に静かになった。横田が事の次第を説明する番だからだろう。

「体調を崩された新井先生の代わりに、ワシがしばらくこのクラスを見ることになった」

また、子どもたちがざわつく。

「みんなが心配なのはよくわかる。まあ、新井先生の体調が戻るまで、普段から授業してるワシが朝礼とか給食に来るってだけだ。なんか困ったことがあったら、当分はワシに言ってください」

 クラス全員が暗い顔をしている。休むだけでそこまで残念がられるのを見るとジェラシーを感じる。横田が休んでも喜ぶ子どもがほとんどだろう。

 若くて人気がある新井と張り合う気は微塵もないが、露骨に落ち込まれると、鬼教師として名高い横田だって少し傷つく。横田は落ち込んだ自分を職員室に着くまで隠し通せる自信がなかった。


 新井は、横田がまだ中堅と呼ばれていた時期の教え子だ。卒業するとき先生になりたいと言ってくれる子は結構多く、新井もその中の一人だった。横田が特別好かれていたというわけではなく、ある程度人間的に整っていれば、そう言ってくれる子に必ず出会うものだ。

 しかしながら小学生の頃の夢なんて変わってしまう方が普通だし、実際に教師になった人間はそう多くない。中でも小学校の教師をしているのは新井だけで、横田にとって新井は特別な教え子だった。二年前に新井がこの学校に来て以来、新井は横田の弟子のような位置づけになった。呑み会をするときには必ず誘うし、何度も二人でシメのラーメンを食べた仲だ。

「詳しい説明もなしに朝礼に行ってもらってすみませんでした。それで、新井先生の件ですが...」

話しかけてきたのは教頭だった。

「新井はなんで休んでるんですか。ワシに言えない理由なら無理には聞きませんけど」

 教頭は驚いた顔をした。

「新井先生から何か聞いてないんですか」

「ええ、何も。しばらくってことは、風邪とかじゃないんですよね」

「私も、横田先生が事情を知ってるんじゃないかとあてにしてたんですが...。落ち着いて聞いてくださいね」

 長期入院しなければいけない病気か、あるいは...。ある意味病気より恐ろしい可能性も存在する。

 教頭は声を潜めて言った。

「新井先生が昨日、退職願を提出されました」

「えっ⁈」

 横田は驚愕した。新井は昨日まで普通に勤務していたのだ。そんな素振りは一切なかった。しかしそれは、一瞬頭をよぎったことでもあった。

「横田先生には相談してると思ったんですけどね」

 新井が自分に何も言わずに決断したことはショックでもあり、新井らしいとも思った。悩んでいたとしても気取らせず、自分でなんとかしようとするのが新井だ。辞めるという決断自体は、まったく新井らしくないが。

「新井は昨日、辞める理由を言わなかったんですか」

「何回も、自分が悪い、とばかり言ってました。それから、横田先生に謝っておいてほしいとも」

「新井はもう、ワシとは会わないつもりなんでしょうか」

教頭は苦々しく俯いた。

「そう決めているように見えました」


 とりあえず、退職願は教頭がキープすることになった。

 ドラマみたいに退職願を保留しておいて、帰ってきた先生に澄まし顔で返すのが夢だったんですよ、と教頭は力なく笑っていた。

横田はずっと考えていた。どうして新井は辞めようと決めたのか。他の教員とのトラブルか、保護者とのトラブルか、子どもたちとのトラブルか。精神の病か、それとも家族に何かあったのか。

 電話にもラインにも、当然のように反応がない。

 二時間目は四年二組の授業。そこに手がかりがあるのかもしれない。横田にとってそれは、最後の望みだった。

少し息を吐いて教室に踏み込む。何十年かの教員生活で、初めて味わう種類の緊張だった。

 果たして、そこに手がかりはあった。

 黒板は小学四年生が知り得る限りの、考え得る限りの汚い言葉で埋め尽くされていた。その言葉は全て横田に向けられたもので、これもまた横田の経験したことのない事態だった。


 子どもたちのことは好きだが、舐められては教育は成り立たない。

 体罰を肯定する気はないが、子どもたちの間違いを正すために恐怖が必要なときはある。暴力以外にも、手段はいくらでもある。

 新井も同じ目にあったのかと思うと怒りが無尽蔵に沸いた。

 その怒りを、横田は全力で教卓にぶつけた。自分でも驚くほど大きな音が鳴る。効果は抜群で、教室は一気に恐怖で染まった。

「誰だ、これを書いたのは」

敢えて押し殺した声で聞く。誰も何も言わない。

「誰だ!」

 急に上がったボリュームに、子どもたちの体が反応する。

「中野、どういうことだ」

 こういうときに学級委員を名指しするのは間違っているのかもしれないが、そんなことをいちいち考える余裕はなかった。

「新井先生にもこうしてきたのか」

「違います!」

中野が叫ぶ。反射的にというのがふさわしい気がした。

「違わないだろう。そうか、お前らのせいか」

 横田は一人一人の顔を順に睨んだ。全員無差別に殴りたかった。教師としての理性がまだ残り、衝動を行動に移せない自分が腹立たしかった。


 職員室に戻った横田は、他の四年を受け持つ先生たちと話し込んでいた。

「それでどうなったんですか」

「気の弱い女子が何人か出てきて黒板消して、授業したよ。本当にふざけた奴らだ。新井が何か、あいつらのことを相談したりしてなかったか」

 各々に顔を見合わせる。どうやら誰も心当たりはないようだった。

「主犯格は誰なんでしょうか」

「それがよくわからん。悪口を書いたのは何十人もいると思う。字の書き方で大体わかるけど、男子だけじゃなくて女子も書いてたみたいだから」

何かが起きているのは確実だが、その異様さには計り知れないものがあった。

「先生イジメってあるらしいですね。新井先生は真面目だから、一人で抱え込んでしまったのかもしれないし。でも、新井先生は優しいし、こういうことになってしまうのはまだわかるんですけど...」

「はあ⁈」

何を言っているんだとみんなに睨まれて、西野が慌てて弁解する。

「違うんです! 新井先生が攻撃されて当然だって言ってるわけじゃないんです。たとえ新井先生にそういうことをする生徒がいたとしても、同じことを横田先生にもするのかな、って疑問に思ったんです」

 その場にいた全員が熱くなっていたが、意表を突かれて黙り込む。新井と同期で若手の西野の発言は、冷や水というよりびっくり水だった。

 横田は反抗したい子どもたちの捌け口になるような人間ではなかった。むしろ横田への反抗心が他の先生に向いてしまうことの方が多い。

 そもそも、今まで四年二組の子どもたちから敵意を感じたことなどない。

「どうしてだろう。ワシ以外の先生は、四年二組からは何もされてないんだよな」

みんなが首肯する。

「担任とかが標的になってるってことですかね。理由はわかりませんが」

現時点ではそう考える以外になかった。

 横田は得体の知れない違和感に身震いした。


 次に横田が四年二組に行ったのは給食の時間だった。また落書きがあるかと身構えたが、黒板は四時間目の授業で書かれたらしい面積の公式のままだった。

 子どもたちが態度を改めたのかと思ったが、喜ぶのはまだ早かった。とにかく、横田と目を合わせようとしない。男子に話しかけても無視される。女子も曖昧で短い返事しかしない。日直が先生の給食を教卓に用意することになっているが、誰も横田の給食を配膳しようとしない。日直の名前は消されていた。

 給食の時間はやけにうるさかった。声量が大きいというより、無理して話しているように見えた。普段は大人しい子も無理やりテンションを上げて相槌を打っている。

 落書きの時よりも明らかにやり口が陰湿になった。横田が嫌な思いをするような、しかし怒れないような手段をとっている。

 間違いなく子どもたちはそこに横田がいないふうに振る舞っていた。子どもたちの演技はわざとらしく、横田を意識しているのは明白で、むしろそこに横田がいるという事実を肯定していた。横田はその様子に、腹立たしさより痛々しさを覚えた。


「どうしてそんなことに...」

 教頭はため息をついた。

「ワシにだけ反抗するっていうのは、やっぱり何か理由があるんだと思います。やってることはイジメと一緒ですけど、意地とか執念みたいなものを感じました」

「単に反抗しているわけではないと?」

「はい」

 横田には、曖昧な確信があった。

「ワシが、新井にも同じことをしたと断定したとき、中野がすぐさま否定したんです。あのときは頭に血が昇ってて自己擁護だと決め付けていたんですが、あの大人しい中野が叫んだのがどうも引っかかるというか。その辺に何か、ヒントがあるのかも知れません」

「新井先生に少しでも、お話を伺えたらいいんですが...」

 教頭はまたため息をついた。普段からため息の多い教頭だが、今日ほど頻繁で深刻なのは初めてだ。

 相変わらず、横田のスマホにも連絡はない。

「終礼で、二組の子たちにもう一度話を聞いてみます」

 横田はここが正念場だ、と気合を入れた。

 本当のゴールはまだ見えない。


 二組の教室に入って、横田はまず混乱した。いつも通りに教室の前方の扉から入ったのに、なぜか子どもたちの後頭部が見えたからだ。

 理由は簡単で、子どもたちがみんな後ろを向いていたからだった。机を反転させ、頑なにこっちを見まいとしている。真正面といえばいいのか真後ろと言えばいいのか、とにかく教室の後方に意識を集中させ、そのせいかやけに姿勢がいい。教室の後ろにも黒板があることが、横田の混乱に一役買っていた。

「お前らこっち向け。こっちが正面だろ、教卓あるんだし」

横田は言いながら、なんて間が抜けた台詞だろうと自嘲した。

 子どもたちは当然のように振り向かない。

「中野!」

中野の肩が跳ねた。全身が震えているがこっちを見たりはしない。本当に損な役回りだ。

「島津!」

島津は二組の男子の中心だ。小四とは思えない胆力で、一切動じる気配がない。島津が動揺すれば、その動揺は全体に伝染していただろうが、さすがと言ったところだろうか。

 実のところ、打つ手はもうほとんどなかった。最終兵器にしては心許ないが、もう一度同じ言葉を。

「お前たちは! ワシにしたのと同じように! 新井にも! 陰湿なイジメを! したんだな!」

 明らかに、子どもたちの体が硬直した。それが横田に対する恐怖から来るのか、何か他の感情のせいなのか、横田にはわからなかった。

 長い沈黙が流れた。他の教室では終礼が終わり、ガタガタと椅子を引いた音がして、直後に元気の良い挨拶が聞こえる。一斉に子どもたちが教室を飛び出して、まだ終礼が終わってない二組を覗いては、その異様な空気に気圧され足早に去っていく。

 根負けしたのは横田だった。教室の後ろ、生徒の正面に歩いていく。

「なあ、何でお前らはワシらに反抗するんだ」

 そう言って生徒たちの方に向き直り、横田は予想だにしない光景を目の当たりにした。横田は自分の鈍感さを呪った。

 中野も島津も、他の男子も女子も、みんなが泣いていた。それを気取らせない小学四年生の根性に、横田は勝った負けたでいえば負けたのだ。

「話してくれないか。何か事情があるんだろう」

「新井先生がいいですっ...!」

 絞り出すように言ったのは、中野だった。

「ふざけんなよっ! 絶対に喋らないって決めただろっ!」

島津が立ち上がり、中野を怒鳴りつける。

「仕方ないじゃない! 横田先生は悪くないんだから!」

中野が机を叩いて怒鳴り返す。こんな中野は初めて見た。それは子どもたちも同じようで、島津が圧倒されている。

「新井先生に帰ってきてほしいんです...! でも、どうしたら戻ってきてくれるかわからなくて、代わりに来た横田先生がいなくなっちゃえばいいんだって話になって...だからみんなで力を合わせて、横田先生をイジメようって決めて...みんな平等に黒板に悪口書いたりとかして...でも給食のときに横田先生が来ちゃったから、次はもっとヒドイ事しなきゃって...」

 中野の話は飛躍していて、小学生に特有の考え方だった。

 すんなり中野が言ったことを理解できなかったのは、横田がそこまで好かれていないという事実を脳が直視できなかったからかもしれない。

 どうやら、横田が思っていた以上に新井と横田の間には格差があるらしかった。新井に戻ってきてもらうために、子どもたちは横田をイジメることをためらわなかった。中野が言った通り、横田は何も悪くないにもかかわらずだ。今は落ち込んでいる場合ではないのだが。

「でも、新井先生は体調崩しただけだって言ったよな。ワシをイジメたって新井先生はよくならないだろ」

「違います...新井先生は辞めるんです...」

「どうして」

 それを、と言いかけて、慌てて口をつぐむ。危うく中野の話を肯定するところだった。新井の退職願が受理されたわけではないし、そういう状況に新井があるということを子どもたちに伝えるわけにはいかない。

「どうしてそう思うんだ」

「昨日、お母さんに言われたんです。ようやく新井先生が辞めるって言ってくれたって」

 横田は、ノーガードで殴られたような衝撃に見舞われた。

「始業式の日からずっと、お母さんは新井先生のこと若いからダメだって言ってて。わたしはそんなことないよっていうのに全然聞いてくれなくて。何回も、お母さんが電話に向かって叫んでるのを見ました。昨日お母さんが、電話を切ってもう安心だよって笑ったんです。お母さんの笑顔が怖くて、わたしも一緒に笑っちゃったから...」

「じゃあ、お前らは新井先生に何もしてないのか」

「だからそう言ってるじゃないですか!」

子どもたちが一斉に横田を睨む。しかし、あの状況で子どもたちを疑うのは当然の流れではないか。教師なら子どもを信じろと言われても困る。横田は実際に子どもたちにイジメられた被害者なのだから。新井のために黒板に描かれた悪口はある意味真剣に考えられたわけで、横田の精神をピンポイントで抉っていた。

「みんなにその話をしたら、同じようなことがあった子がたくさんいたからどうしようってなって...」

 親が教師と戦うときに、徒党を組むのはよくあることだ。親が正しいときも、間違っているときもある。下手な教師に当たって子どもたちが不利益を被ることももちろんある。結局、親にも教師にもまともじゃない人間はいて、割を食うのはいつもまともな人間だ。まともじゃない同士で潰しあってくれればいいのだが。

 少なくとも、新井はまともな教師だった。

「よくわかった」

 よくわかったが故に、横田は困り果てていた。自分が攻撃されたことはひとまずどうでもいいのだ。だが、教育者としてこの子たちをほめるべきか怒るべきかは実に難しい問題だった。新井を助けようとしたことと、その手段として自分をイジメようとしたことが天秤の両極で揺れている。

「ワシをイジメなくてもよかったんじゃないか。ワシとか他の先生に話せばよかったのに」

「でも、そのときはそれしか思いつかなくて」

 子どもはたまにとんでもないことを考える。わかっているつもりだったし、新井に偉そうに語ったこともある。けれど所詮、大人が制御し切れる範疇にはないのだとようやく横田は悟った。

 そして、大人もとんでもないことをする。他の教員が気づかなかったということは、どこで番号を知ったかしらないが個人の電話にかけているのだろう。その狡猾さと周到さを隠し、子どもたちにはイジメはダメだと嘯いていると思うと戦慄する。

 横田は、子どもたちの行動は間違ってないのかもしれないと思い始めていた。子どもたちは横田に、なにか熱いものを思い出させてくれたからだ。

 横田は大人として、これからなにをするべきか考えた。

 結論はすぐに出た。大人として、とんでもないことをするのだ。

「ワシをイジメる作戦は誰が立てたんだ」

「みんなで考えました」

 何だこの会話は。この場面だけを切り取ったら笑えるのかもしれない。人生は俯瞰で見れば喜劇だ。

「誰かをイジメることは、今回みたいな理由があったってダメだ。ワシはみんなに嫌われてると思って傷付いたんだから」

 わかりきった説教を、子どもたちは真面目に聞いていた。

「こういうときは、謝るんじゃないのか」

 子どもたちが、声をそろえて謝る。

 なんてつまらないことを言っているんだと、横田は自分を眺めた。けれどそれも、教師の務めであるからには避けられない。教えるだけなら塾の講師にでもなればいい。教え、育てたいと思ったからこそ、三十余年前の横田は教員の道を志したのだ。

 定年を意識する歳になった横田は、子どもたちの目には退屈な存在に映っていたかもしれない。これからそのイメージを打ち砕くと思うと、不謹慎にも横田は笑いが止まらなかった。

「じゃあな、これからもう一回、作戦会議をしよう」

 子どもたちはポカンとしている。今日は子どもたちに驚かされっぱなしだったが、横田は一矢を報いた気分になった。

「新井先生を助けるために、どうやったら親を説得できるか考えよう。ワシにしたみたいに、無視したり壁に油性ペンで悪口を書いてもいい。みんなの親が集団になって新井先生を辞めさせようとしてるなら、こっちも集団になって戦うのも面白い」

 子どもの反乱を扇動するなんて、きっと前例はないだろう。正気でできることじゃない。でも、教え子を救うために正気を失えないほど、横田は正気を失ってはいなかった。

「みんなならできるよ、だって、ワシに反抗できたんだから。みんなのお父さんお母さんは、ワシほど怖くはないだろ」

島津だけが横に首を振っている。

「ウチの親は先生の何倍も怖い。でも、二人とも新井先生のことは好きだから大丈夫」

「オレんちも」「ウチもだよ」口々に言う生徒は、黙っている生徒より随分と多かった。

 新井のことをちゃんとわかってくれる親だっている。騒いでいるのは数人だけで、本当は新井のことを認めている親の方が多いのだ。

 中野と島津を中心に、作戦が練られていく。

 この子たちは親に育ててもらっている。親ほど計算もできないし、知識もないだろう。それでもこの子たちのうちの何人かは、きっと親より賢い。

 横田は作戦会議に介入する気はなかったが、責任を取る覚悟はできていた。どうせもうじき退職だ。いつの間にか失った気になっていた若さを、子どもたちが思い出させてくれた。

「それから、新井先生に言いたいことがあったら、ワシが伝えるから教えてくれ」

 新井の家は知っている。泥酔した新井を何回も送っていったことがあるからだ。アパートのドアの前で寝袋に入って夜を明かしてやろう。他の住民に通報されたら車中泊に切り替える。確か新井の家の近くにはコンビニがあったから食料はそこで調達しよう。幸い明日は土曜日だし、今日から二晩くらい粘れば大丈夫だ。家事ができない新井は、カップ麺が尽きて出てくるだろう。

 とにかく、今は冷静になってはいけない。冷静になって、こんな馬鹿げたことができるはずがない。

「じゃあ、みんなで手紙を書こうよ」

発案した子どもが自分の自由帳を差し出し、一人ずつメッセージを書いていく。

 横田は確信した。

 この子たちは将来、絶対に誰かをイジメたりしないだろう。

 

 



 

 


 

 








  年々職員室から教室までの距離が伸びている気がする。階段を上り切って息を整えている自分に気づき、横田は自分が情けなくなった。

 歳をとっていいことなど一つもない。子どもたちには好かれなくなるし、気苦労は増えるばかりだ。最近鏡を見ても白髪やシワが気にならなくなったのは、おそらく老眼のせいだろう。

 横田が四年二組の教室に入ると、子どもたちに緊張が走った。子どもたちに怖がられている自覚はあるし、いつも通りといえばいつも通りなのだが。

「朝礼するから、とりあえず座って」

 大人しく従いながらも、子どもたちは不安そうだった。涙目になっている子までいる。

「中野、学級委員だろ。号令かけて」

「横田先生、新井先生は?」

 怯えているのか、中野が言いにくそうにクラスメイトの疑問を代弁する。 

 横田はなるべく優しい声を心がけて言った。

「その話は後でするから」

 それを聞いて、子どもたちは深刻な顔をしてヒソヒソ話し始める。横田は、子どもたちが自分の前で静かにしないのを久しぶりに見た。

 号令のときも点呼のときも、話し声は止まなかった。普段は静かにさせるところだが、今日ばっかりはそういう気にはならなかった。新井のことを心配しているのだから仕方がない。

 点呼が終わると同時に、子どもたちが一斉に静かになった。横田が事の次第を説明する番だからだろう。

「体調を崩された新井先生の代わりに、ワシがしばらくこのクラスを見ることになった」

また、子どもたちがざわつく。

「みんなが心配なのはよくわかる。まあ、新井先生の体調が戻るまで、普段から授業してるワシが朝礼とか給食に来るってだけだ。なんか困ったことがあったら、当分はワシに言ってください」

 クラス全員が暗い顔をしている。休むだけでそこまで残念がられるのを見るとジェラシーを感じる。横田が休んでも喜ぶ子どもがほとんどだろう。

 若くて人気がある新井と張り合う気は微塵もないが、露骨に落ち込まれると、鬼教師として名高い横田だって少し傷つく。横田は落ち込んだ自分を職員室に着くまで隠し通せる自信がなかった。


 新井は、横田がまだ中堅と呼ばれていた時期の教え子だ。卒業するとき先生になりたいと言ってくれる子は結構多く、新井もその中の一人だった。横田が特別好かれていたというわけではなく、ある程度人間的に整っていれば、そう言ってくれる子に必ず出会うものだ。

 しかしながら小学生の頃の夢なんて変わってしまう方が普通だし、実際に教師になった人間はそう多くない。中でも小学校の教師をしているのは新井だけで、横田にとって新井は特別な教え子だった。二年前に新井がこの学校に来て以来、新井は横田の弟子のような位置づけになった。呑み会をするときには必ず誘うし、何度も二人でシメのラーメンを食べた仲だ。

「詳しい説明もなしに朝礼に行ってもらってすみませんでした。それで、新井先生の件ですが...」

話しかけてきたのは教頭だった。

「新井はなんで休んでるんですか。ワシに言えない理由なら無理には聞きませんけど」

 教頭は驚いた顔をした。

「新井先生から何か聞いてないんですか」

「ええ、何も。しばらくってことは、風邪とかじゃないんですよね」

「私も、横田先生が事情を知ってるんじゃないかとあてにしてたんですが...。落ち着いて聞いてくださいね」

 長期入院しなければいけない病気か、あるいは...。ある意味病気より恐ろしい可能性も存在する。

 教頭は声を潜めて言った。

「新井先生が昨日、退職願を提出されました」

「えっ⁈」

 横田は驚愕した。新井は昨日まで普通に勤務していたのだ。そんな素振りは一切なかった。しかしそれは、一瞬頭をよぎったことでもあった。

「横田先生には相談してると思ったんですけどね」

 新井が自分に何も言わずに決断したことはショックでもあり、新井らしいとも思った。悩んでいたとしても気取らせず、自分でなんとかしようとするのが新井だ。辞めるという決断自体は、まったく新井らしくないが。

「新井は昨日、辞める理由を言わなかったんですか」

「何回も、自分が悪い、とばかり言ってました。それから、横田先生に謝っておいてほしいとも」

「新井はもう、ワシとは会わないつもりなんでしょうか」

教頭は苦々しく俯いた。

「そう決めているように見えました」


 とりあえず、退職願は教頭がキープすることになった。

 ドラマみたいに退職願を保留しておいて、帰ってきた先生に澄まし顔で返すのが夢だったんですよ、と教頭は力なく笑っていた。

横田はずっと考えていた。どうして新井は辞めようと決めたのか。他の教員とのトラブルか、保護者とのトラブルか、子どもたちとのトラブルか。精神の病か、それとも家族に何かあったのか。

 電話にもラインにも、当然のように反応がない。

 二時間目は四年二組の授業。そこに手がかりがあるのかもしれない。横田にとってそれは、最後の望みだった。

少し息を吐いて教室に踏み込む。何十年かの教員生活で、初めて味わう種類の緊張だった。

 果たして、そこに手がかりはあった。

 黒板は小学四年生が知り得る限りの、考え得る限りの汚い言葉で埋め尽くされていた。その言葉は全て横田に向けられたもので、これもまた横田の経験したことのない事態だった。


 子どもたちのことは好きだが、舐められては教育は成り立たない。

 体罰を肯定する気はないが、子どもたちの間違いを正すために恐怖が必要なときはある。暴力以外にも、手段はいくらでもある。

 新井も同じ目にあったのかと思うと怒りが無尽蔵に沸いた。

 その怒りを、横田は全力で教卓にぶつけた。自分でも驚くほど大きな音が鳴る。効果は抜群で、教室は一気に恐怖で染まった。

「誰だ、これを書いたのは」

敢えて押し殺した声で聞く。誰も何も言わない。

「誰だ!」

 急に上がったボリュームに、子どもたちの体が反応する。

「中野、どういうことだ」

 こういうときに学級委員を名指しするのは間違っているのかもしれないが、そんなことをいちいち考える余裕はなかった。

「新井先生にもこうしてきたのか」

「違います!」

中野が叫ぶ。反射的にというのがふさわしい気がした。

「違わないだろう。そうか、お前らのせいか」

 横田は一人一人の顔を順に睨んだ。全員無差別に殴りたかった。教師としての理性がまだ残り、衝動を行動に移せない自分が腹立たしかった。


 職員室に戻った横田は、他の四年を受け持つ先生たちと話し込んでいた。

「それでどうなったんですか」

「気の弱い女子が何人か出てきて黒板消して、授業したよ。本当にふざけた奴らだ。新井が何か、あいつらのことを相談したりしてなかったか」

 各々に顔を見合わせる。どうやら誰も心当たりはないようだった。

「主犯格は誰なんでしょうか」

「それがよくわからん。悪口を書いたのは何十人もいると思う。字の書き方で大体わかるけど、男子だけじゃなくて女子も書いてたみたいだから」

何かが起きているのは確実だが、その異様さには計り知れないものがあった。

「先生イジメってあるらしいですね。新井先生は真面目だから、一人で抱え込んでしまったのかもしれないし。でも、新井先生は優しいし、こういうことになってしまうのはまだわかるんですけど...」

「はあ⁈」

何を言っているんだとみんなに睨まれて、西野が慌てて弁解する。

「違うんです! 新井先生が攻撃されて当然だって言ってるわけじゃないんです。たとえ新井先生にそういうことをする生徒がいたとしても、同じことを横田先生にもするのかな、って疑問に思ったんです」

 その場にいた全員が熱くなっていたが、意表を突かれて黙り込む。新井と同期で若手の西野の発言は、冷や水というよりびっくり水だった。

 横田は反抗したい子どもたちの捌け口になるような人間ではなかった。むしろ横田への反抗心が他の先生に向いてしまうことの方が多い。

 そもそも、今まで四年二組の子どもたちから敵意を感じたことなどない。

「どうしてだろう。ワシ以外の先生は、四年二組からは何もされてないんだよな」

みんなが首肯する。

「担任とかが標的になってるってことですかね。理由はわかりませんが」

現時点ではそう考える以外になかった。

 横田は得体の知れない違和感に身震いした。


 次に横田が四年二組に行ったのは給食の時間だった。また落書きがあるかと身構えたが、黒板は四時間目の授業で書かれたらしい面積の公式のままだった。

 子どもたちが態度を改めたのかと思ったが、喜ぶのはまだ早かった。とにかく、横田と目を合わせようとしない。男子に話しかけても無視される。女子も曖昧で短い返事しかしない。日直が先生の給食を教卓に用意することになっているが、誰も横田の給食を配膳しようとしない。日直の名前は消されていた。

 給食の時間はやけにうるさかった。声量が大きいというより、無理して話しているように見えた。普段は大人しい子も無理やりテンションを上げて相槌を打っている。

 落書きの時よりも明らかにやり口が陰湿になった。横田が嫌な思いをするような、しかし怒れないような手段をとっている。

 間違いなく子どもたちはそこに横田がいないふうに振る舞っていた。子どもたちの演技はわざとらしく、横田を意識しているのは明白で、むしろそこに横田がいるという事実を肯定していた。横田はその様子に、腹立たしさより痛々しさを覚えた。


「どうしてそんなことに...」

 教頭はため息をついた。

「ワシにだけ反抗するっていうのは、やっぱり何か理由があるんだと思います。やってることはイジメと一緒ですけど、意地とか執念みたいなものを感じました」

「単に反抗しているわけではないと?」

「はい」

 横田には、曖昧な確信があった。

「ワシが、新井にも同じことをしたと断定したとき、中野がすぐさま否定したんです。あのときは頭に血が昇ってて自己擁護だと決め付けていたんですが、あの大人しい中野が叫んだのがどうも引っかかるというか。その辺に何か、ヒントがあるのかも知れません」

「新井先生に少しでも、お話を伺えたらいいんですが...」

 教頭はまたため息をついた。普段からため息の多い教頭だが、今日ほど頻繁で深刻なのは初めてだ。

 相変わらず、横田のスマホにも連絡はない。

「終礼で、二組の子たちにもう一度話を聞いてみます」

 横田はここが正念場だ、と気合を入れた。

 本当のゴールはまだ見えない。


 二組の教室に入って、横田はまず混乱した。いつも通りに教室の前方の扉から入ったのに、なぜか子どもたちの後頭部が見えたからだ。

 理由は簡単で、子どもたちがみんな後ろを向いていたからだった。机を反転させ、頑なにこっちを見まいとしている。真正面といえばいいのか真後ろと言えばいいのか、とにかく教室の後方に意識を集中させ、そのせいかやけに姿勢がいい。教室の後ろにも黒板があることが、横田の混乱に一役買っていた。

「お前らこっち向け。こっちが正面だろ、教卓あるんだし」

横田は言いながら、なんて間が抜けた台詞だろうと自嘲した。

 子どもたちは当然のように振り向かない。

「中野!」

中野の肩が跳ねた。全身が震えているがこっちを見たりはしない。本当に損な役回りだ。

「島津!」

島津は二組の男子の中心だ。小四とは思えない胆力で、一切動じる気配がない。島津が動揺すれば、その動揺は全体に伝染していただろうが、さすがと言ったところだろうか。

 実のところ、打つ手はもうほとんどなかった。最終兵器にしては心許ないが、もう一度同じ言葉を。

「お前たちは! ワシにしたのと同じように! 新井にも! 陰湿なイジメを! したんだな!」

 明らかに、子どもたちの体が硬直した。それが横田に対する恐怖から来るのか、何か他の感情のせいなのか、横田にはわからなかった。

 長い沈黙が流れた。他の教室では終礼が終わり、ガタガタと椅子を引いた音がして、直後に元気の良い挨拶が聞こえる。一斉に子どもたちが教室を飛び出して、まだ終礼が終わってない二組を覗いては、その異様な空気に気圧され足早に去っていく。

 根負けしたのは横田だった。教室の後ろ、生徒の正面に歩いていく。

「なあ、何でお前らはワシらに反抗するんだ」

 そう言って生徒たちの方に向き直り、横田は予想だにしない光景を目の当たりにした。横田は自分の鈍感さを呪った。

 中野も島津も、他の男子も女子も、みんなが泣いていた。それを気取らせない小学四年生の根性に、横田は勝った負けたでいえば負けたのだ。

「話してくれないか。何か事情があるんだろう」

「新井先生がいいですっ...!」

 絞り出すように言ったのは、中野だった。

「ふざけんなよっ! 絶対に喋らないって決めただろっ!」

島津が立ち上がり、中野を怒鳴りつける。

「仕方ないじゃない! 横田先生は悪くないんだから!」

中野が机を叩いて怒鳴り返す。こんな中野は初めて見た。それは子どもたちも同じようで、島津が圧倒されている。

「新井先生に帰ってきてほしいんです...! でも、どうしたら戻ってきてくれるかわからなくて、代わりに来た横田先生がいなくなっちゃえばいいんだって話になって...だからみんなで力を合わせて、横田先生をイジメようって決めて...みんな平等に黒板に悪口書いたりとかして...でも給食のときに横田先生が来ちゃったから、次はもっとヒドイ事しなきゃって...」

 中野の話は飛躍していて、小学生に特有の考え方だった。

 すんなり中野が言ったことを理解できなかったのは、横田がそこまで好かれていないという事実を脳が直視できなかったからかもしれない。

 どうやら、横田が思っていた以上に新井と横田の間には格差があるらしかった。新井に戻ってきてもらうために、子どもたちは横田をイジメることをためらわなかった。中野が言った通り、横田は何も悪くないにもかかわらずだ。今は落ち込んでいる場合ではないのだが。

「でも、新井先生は体調崩しただけだって言ったよな。ワシをイジメたって新井先生はよくならないだろ」

「違います...新井先生は辞めるんです...」

「どうして」

 それを、と言いかけて、慌てて口をつぐむ。危うく中野の話を肯定するところだった。新井の退職願が受理されたわけではないし、そういう状況に新井があるということを子どもたちに伝えるわけにはいかない。

「どうしてそう思うんだ」

「昨日、お母さんに言われたんです。ようやく新井先生が辞めるって言ってくれたって」

 横田は、ノーガードで殴られたような衝撃に見舞われた。

「始業式の日からずっと、お母さんは新井先生のこと若いからダメだって言ってて。わたしはそんなことないよっていうのに全然聞いてくれなくて。何回も、お母さんが電話に向かって叫んでるのを見ました。昨日お母さんが、電話を切ってもう安心だよって笑ったんです。お母さんの笑顔が怖くて、わたしも一緒に笑っちゃったから...」

「じゃあ、お前らは新井先生に何もしてないのか」

「だからそう言ってるじゃないですか!」

子どもたちが一斉に横田を睨む。しかし、あの状況で子どもたちを疑うのは当然の流れではないか。教師なら子どもを信じろと言われても困る。横田は実際に子どもたちにイジメられた被害者なのだから。新井のために黒板に描かれた悪口はある意味真剣に考えられたわけで、横田の精神をピンポイントで抉っていた。

「みんなにその話をしたら、同じようなことがあった子がたくさんいたからどうしようってなって...」

 親が教師と戦うときに、徒党を組むのはよくあることだ。親が正しいときも、間違っているときもある。下手な教師に当たって子どもたちが不利益を被ることももちろんある。結局、親にも教師にもまともじゃない人間はいて、割を食うのはいつもまともな人間だ。まともじゃない同士で潰しあってくれればいいのだが。

 少なくとも、新井はまともな教師だった。

「よくわかった」

 よくわかったが故に、横田は困り果てていた。自分が攻撃されたことはひとまずどうでもいいのだ。だが、教育者としてこの子たちをほめるべきか怒るべきかは実に難しい問題だった。新井を助けようとしたことと、その手段として自分をイジメようとしたことが天秤の両極で揺れている。

「ワシをイジメなくてもよかったんじゃないか。ワシとか他の先生に話せばよかったのに」

「でも、そのときはそれしか思いつかなくて」

 子どもはたまにとんでもないことを考える。わかっているつもりだったし、新井に偉そうに語ったこともある。けれど所詮、大人が制御し切れる範疇にはないのだとようやく横田は悟った。

 そして、大人もとんでもないことをする。他の教員が気づかなかったということは、どこで番号を知ったかしらないが個人の電話にかけているのだろう。その狡猾さと周到さを隠し、子どもたちにはイジメはダメだと嘯いていると思うと戦慄する。

 横田は、子どもたちの行動は間違ってないのかもしれないと思い始めていた。子どもたちは横田に、なにか熱いものを思い出させてくれたからだ。

 横田は大人として、これからなにをするべきか考えた。

 結論はすぐに出た。大人として、とんでもないことをするのだ。

「ワシをイジメる作戦は誰が立てたんだ」

「みんなで考えました」

 何だこの会話は。この場面だけを切り取ったら笑えるのかもしれない。人生は俯瞰で見れば喜劇だ。

「誰かをイジメることは、今回みたいな理由があったってダメだ。ワシはみんなに嫌われてると思って傷付いたんだから」

 わかりきった説教を、子どもたちは真面目に聞いていた。

「こういうときは、謝るんじゃないのか」

 子どもたちが、声をそろえて謝る。

 なんてつまらないことを言っているんだと、横田は自分を眺めた。けれどそれも、教師の務めであるからには避けられない。教えるだけなら塾の講師にでもなればいい。教え、育てたいと思ったからこそ、三十余年前の横田は教員の道を志したのだ。

 定年を意識する歳になった横田は、子どもたちの目には退屈な存在に映っていたかもしれない。これからそのイメージを打ち砕くと思うと、不謹慎にも横田は笑いが止まらなかった。

「じゃあな、これからもう一回、作戦会議をしよう」

 子どもたちはポカンとしている。今日は子どもたちに驚かされっぱなしだったが、横田は一矢を報いた気分になった。

「新井先生を助けるために、どうやったら親を説得できるか考えよう。ワシにしたみたいに、無視したり壁に油性ペンで悪口を書いてもいい。みんなの親が集団になって新井先生を辞めさせようとしてるなら、こっちも集団になって戦うのも面白い」

 子どもの反乱を扇動するなんて、きっと前例はないだろう。正気でできることじゃない。でも、教え子を救うために正気を失えないほど、横田は正気を失ってはいなかった。

「みんなならできるよ、だって、ワシに反抗できたんだから。みんなのお父さんお母さんは、ワシほど怖くはないだろ」

島津だけが横に首を振っている。

「ウチの親は先生の何倍も怖い。でも、二人とも新井先生のことは好きだから大丈夫」

「オレんちも」「ウチもだよ」口々に言う生徒は、黙っている生徒より随分と多かった。

 新井のことをちゃんとわかってくれる親だっている。騒いでいるのは数人だけで、本当は新井のことを認めている親の方が多いのだ。

 中野と島津を中心に、作戦が練られていく。

 この子たちは親に育ててもらっている。親ほど計算もできないし、知識もないだろう。それでもこの子たちのうちの何人かは、きっと親より賢い。

 横田は作戦会議に介入する気はなかったが、責任を取る覚悟はできていた。どうせもうじき退職だ。いつの間にか失った気になっていた若さを、子どもたちが思い出させてくれた。

「それから、新井先生に言いたいことがあったら、ワシが伝えるから教えてくれ」

 新井の家は知っている。泥酔した新井を何回も送っていったことがあるからだ。アパートのドアの前で寝袋に入って夜を明かしてやろう。他の住民に通報されたら車中泊に切り替える。確か新井の家の近くにはコンビニがあったから食料はそこで調達しよう。幸い明日は土曜日だし、今日から二晩くらい粘れば大丈夫だ。家事ができない新井は、カップ麺が尽きて出てくるだろう。

 とにかく、今は冷静になってはいけない。冷静になって、こんな馬鹿げたことができるはずがない。

「じゃあ、みんなで手紙を書こうよ」

発案した子どもが自分の自由帳を差し出し、一人ずつメッセージを書いていく。

 横田は確信した。

 この子たちは将来、絶対に誰かをイジメたりしないだろう。

 

 



 

 


 

 








 




 


 年々職員室から教室までの距離が伸びている気がする。階段を上り切って息を整えている自分に気づき、横田は自分が情けなくなった。

 歳をとっていいことなど一つもない。子どもたちには好かれなくなるし、気苦労は増えるばかりだ。最近鏡を見ても白髪やシワが気にならなくなったのは、おそらく老眼のせいだろう。

 横田が四年二組の教室に入ると、子どもたちに緊張が走った。子どもたちに怖がられている自覚はあるし、いつも通りといえばいつも通りなのだが。

「朝礼するから、とりあえず座って」

 大人しく従いながらも、子どもたちは不安そうだった。涙目になっている子までいる。

「中野、学級委員だろ。号令かけて」

「横田先生、新井先生は?」

 怯えているのか、中野が言いにくそうにクラスメイトの疑問を代弁する。 

 横田はなるべく優しい声を心がけて言った。

「その話は後でするから」

 それを聞いて、子どもたちは深刻な顔をしてヒソヒソ話し始める。横田は、子どもたちが自分の前で静かにしないのを久しぶりに見た。

 号令のときも点呼のときも、話し声は止まなかった。普段は静かにさせるところだが、今日ばっかりはそういう気にはならなかった。新井のことを心配しているのだから仕方がない。

 点呼が終わると同時に、子どもたちが一斉に静かになった。横田が事の次第を説明する番だからだろう。

「体調を崩された新井先生の代わりに、ワシがしばらくこのクラスを見ることになった」

また、子どもたちがざわつく。

「みんなが心配なのはよくわかる。まあ、新井先生の体調が戻るまで、普段から授業してるワシが朝礼とか給食に来るってだけだ。なんか困ったことがあったら、当分はワシに言ってください」

 クラス全員が暗い顔をしている。休むだけでそこまで残念がられるのを見るとジェラシーを感じる。横田が休んでも喜ぶ子どもがほとんどだろう。

 若くて人気がある新井と張り合う気は微塵もないが、露骨に落ち込まれると、鬼教師として名高い横田だって少し傷つく。横田は落ち込んだ自分を職員室に着くまで隠し通せる自信がなかった。


 新井は、横田がまだ中堅と呼ばれていた時期の教え子だ。卒業するとき先生になりたいと言ってくれる子は結構多く、新井もその中の一人だった。横田が特別好かれていたというわけではなく、ある程度人間的に整っていれば、そう言ってくれる子に必ず出会うものだ。

 しかしながら小学生の頃の夢なんて変わってしまう方が普通だし、実際に教師になった人間はそう多くない。中でも小学校の教師をしているのは新井だけで、横田にとって新井は特別な教え子だった。二年前に新井がこの学校に来て以来、新井は横田の弟子のような位置づけになった。呑み会をするときには必ず誘うし、何度も二人でシメのラーメンを食べた仲だ。

「詳しい説明もなしに朝礼に行ってもらってすみませんでした。それで、新井先生の件ですが...」

話しかけてきたのは教頭だった。

「新井はなんで休んでるんですか。ワシに言えない理由なら無理には聞きませんけど」

 教頭は驚いた顔をした。

「新井先生から何か聞いてないんですか」

「ええ、何も。しばらくってことは、風邪とかじゃないんですよね」

「私も、横田先生が事情を知ってるんじゃないかとあてにしてたんですが...。落ち着いて聞いてくださいね」

 長期入院しなければいけない病気か、あるいは...。ある意味病気より恐ろしい可能性も存在する。

 教頭は声を潜めて言った。

「新井先生が昨日、退職願を提出されました」

「えっ⁈」

 横田は驚愕した。新井は昨日まで普通に勤務していたのだ。そんな素振りは一切なかった。しかしそれは、一瞬頭をよぎったことでもあった。

「横田先生には相談してると思ったんですけどね」

 新井が自分に何も言わずに決断したことはショックでもあり、新井らしいとも思った。悩んでいたとしても気取らせず、自分でなんとかしようとするのが新井だ。辞めるという決断自体は、まったく新井らしくないが。

「新井は昨日、辞める理由を言わなかったんですか」

「何回も、自分が悪い、とばかり言ってました。それから、横田先生に謝っておいてほしいとも」

「新井はもう、ワシとは会わないつもりなんでしょうか」

教頭は苦々しく俯いた。

「そう決めているように見えました」


 とりあえず、退職願は教頭がキープすることになった。

 ドラマみたいに退職願を保留しておいて、帰ってきた先生に澄まし顔で返すのが夢だったんですよ、と教頭は力なく笑っていた。

横田はずっと考えていた。どうして新井は辞めようと決めたのか。他の教員とのトラブルか、保護者とのトラブルか、子どもたちとのトラブルか。精神の病か、それとも家族に何かあったのか。

 電話にもラインにも、当然のように反応がない。

 二時間目は四年二組の授業。そこに手がかりがあるのかもしれない。横田にとってそれは、最後の望みだった。

少し息を吐いて教室に踏み込む。何十年かの教員生活で、初めて味わう種類の緊張だった。

 果たして、そこに手がかりはあった。

 黒板は小学四年生が知り得る限りの、考え得る限りの汚い言葉で埋め尽くされていた。その言葉は全て横田に向けられたもので、これもまた横田の経験したことのない事態だった。


 子どもたちのことは好きだが、舐められては教育は成り立たない。

 体罰を肯定する気はないが、子どもたちの間違いを正すために恐怖が必要なときはある。暴力以外にも、手段はいくらでもある。

 新井も同じ目にあったのかと思うと怒りが無尽蔵に沸いた。

 その怒りを、横田は全力で教卓にぶつけた。自分でも驚くほど大きな音が鳴る。効果は抜群で、教室は一気に恐怖で染まった。

「誰だ、これを書いたのは」

敢えて押し殺した声で聞く。誰も何も言わない。

「誰だ!」

 急に上がったボリュームに、子どもたちの体が反応する。

「中野、どういうことだ」

 こういうときに学級委員を名指しするのは間違っているのかもしれないが、そんなことをいちいち考える余裕はなかった。

「新井先生にもこうしてきたのか」

「違います!」

中野が叫ぶ。反射的にというのがふさわしい気がした。

「違わないだろう。そうか、お前らのせいか」

 横田は一人一人の顔を順に睨んだ。全員無差別に殴りたかった。教師としての理性がまだ残り、衝動を行動に移せない自分が腹立たしかった。


 職員室に戻った横田は、他の四年を受け持つ先生たちと話し込んでいた。

「それでどうなったんですか」

「気の弱い女子が何人か出てきて黒板消して、授業したよ。本当にふざけた奴らだ。新井が何か、あいつらのことを相談したりしてなかったか」

 各々に顔を見合わせる。どうやら誰も心当たりはないようだった。

「主犯格は誰なんでしょうか」

「それがよくわからん。悪口を書いたのは何十人もいると思う。字の書き方で大体わかるけど、男子だけじゃなくて女子も書いてたみたいだから」

何かが起きているのは確実だが、その異様さには計り知れないものがあった。

「先生イジメってあるらしいですね。新井先生は真面目だから、一人で抱え込んでしまったのかもしれないし。でも、新井先生は優しいし、こういうことになってしまうのはまだわかるんですけど...」

「はあ⁈」

何を言っているんだとみんなに睨まれて、西野が慌てて弁解する。

「違うんです! 新井先生が攻撃されて当然だって言ってるわけじゃないんです。たとえ新井先生にそういうことをする生徒がいたとしても、同じことを横田先生にもするのかな、って疑問に思ったんです」

 その場にいた全員が熱くなっていたが、意表を突かれて黙り込む。新井と同期で若手の西野の発言は、冷や水というよりびっくり水だった。

 横田は反抗したい子どもたちの捌け口になるような人間ではなかった。むしろ横田への反抗心が他の先生に向いてしまうことの方が多い。

 そもそも、今まで四年二組の子どもたちから敵意を感じたことなどない。

「どうしてだろう。ワシ以外の先生は、四年二組からは何もされてないんだよな」

みんなが首肯する。

「担任とかが標的になってるってことですかね。理由はわかりませんが」

現時点ではそう考える以外になかった。

 横田は得体の知れない違和感に身震いした。


 次に横田が四年二組に行ったのは給食の時間だった。また落書きがあるかと身構えたが、黒板は四時間目の授業で書かれたらしい面積の公式のままだった。

 子どもたちが態度を改めたのかと思ったが、喜ぶのはまだ早かった。とにかく、横田と目を合わせようとしない。男子に話しかけても無視される。女子も曖昧で短い返事しかしない。日直が先生の給食を教卓に用意することになっているが、誰も横田の給食を配膳しようとしない。日直の名前は消されていた。

 給食の時間はやけにうるさかった。声量が大きいというより、無理して話しているように見えた。普段は大人しい子も無理やりテンションを上げて相槌を打っている。

 落書きの時よりも明らかにやり口が陰湿になった。横田が嫌な思いをするような、しかし怒れないような手段をとっている。

 間違いなく子どもたちはそこに横田がいないふうに振る舞っていた。子どもたちの演技はわざとらしく、横田を意識しているのは明白で、むしろそこに横田がいるという事実を肯定していた。横田はその様子に、腹立たしさより痛々しさを覚えた。


「どうしてそんなことに...」

 教頭はため息をついた。

「ワシにだけ反抗するっていうのは、やっぱり何か理由があるんだと思います。やってることはイジメと一緒ですけど、意地とか執念みたいなものを感じました」

「単に反抗しているわけではないと?」

「はい」

 横田には、曖昧な確信があった。

「ワシが、新井にも同じことをしたと断定したとき、中野がすぐさま否定したんです。あのときは頭に血が昇ってて自己擁護だと決め付けていたんですが、あの大人しい中野が叫んだのがどうも引っかかるというか。その辺に何か、ヒントがあるのかも知れません」

「新井先生に少しでも、お話を伺えたらいいんですが...」

 教頭はまたため息をついた。普段からため息の多い教頭だが、今日ほど頻繁で深刻なのは初めてだ。

 相変わらず、横田のスマホにも連絡はない。

「終礼で、二組の子たちにもう一度話を聞いてみます」

 横田はここが正念場だ、と気合を入れた。

 本当のゴールはまだ見えない。


 二組の教室に入って、横田はまず混乱した。いつも通りに教室の前方の扉から入ったのに、なぜか子どもたちの後頭部が見えたからだ。

 理由は簡単で、子どもたちがみんな後ろを向いていたからだった。机を反転させ、頑なにこっちを見まいとしている。真正面といえばいいのか真後ろと言えばいいのか、とにかく教室の後方に意識を集中させ、そのせいかやけに姿勢がいい。教室の後ろにも黒板があることが、横田の混乱に一役買っていた。

「お前らこっち向け。こっちが正面だろ、教卓あるんだし」

横田は言いながら、なんて間が抜けた台詞だろうと自嘲した。

 子どもたちは当然のように振り向かない。

「中野!」

中野の肩が跳ねた。全身が震えているがこっちを見たりはしない。本当に損な役回りだ。

「島津!」

島津は二組の男子の中心だ。小四とは思えない胆力で、一切動じる気配がない。島津が動揺すれば、その動揺は全体に伝染していただろうが、さすがと言ったところだろうか。

 実のところ、打つ手はもうほとんどなかった。最終兵器にしては心許ないが、もう一度同じ言葉を。

「お前たちは! ワシにしたのと同じように! 新井にも! 陰湿なイジメを! したんだな!」

 明らかに、子どもたちの体が硬直した。それが横田に対する恐怖から来るのか、何か他の感情のせいなのか、横田にはわからなかった。

 長い沈黙が流れた。他の教室では終礼が終わり、ガタガタと椅子を引いた音がして、直後に元気の良い挨拶が聞こえる。一斉に子どもたちが教室を飛び出して、まだ終礼が終わってない二組を覗いては、その異様な空気に気圧され足早に去っていく。

 根負けしたのは横田だった。教室の後ろ、生徒の正面に歩いていく。

「なあ、何でお前らはワシらに反抗するんだ」

 そう言って生徒たちの方に向き直り、横田は予想だにしない光景を目の当たりにした。横田は自分の鈍感さを呪った。

 中野も島津も、他の男子も女子も、みんなが泣いていた。それを気取らせない小学四年生の根性に、横田は勝った負けたでいえば負けたのだ。

「話してくれないか。何か事情があるんだろう」

「新井先生がいいですっ...!」

 絞り出すように言ったのは、中野だった。

「ふざけんなよっ! 絶対に喋らないって決めただろっ!」

島津が立ち上がり、中野を怒鳴りつける。

「仕方ないじゃない! 横田先生は悪くないんだから!」

中野が机を叩いて怒鳴り返す。こんな中野は初めて見た。それは子どもたちも同じようで、島津が圧倒されている。

「新井先生に帰ってきてほしいんです...! でも、どうしたら戻ってきてくれるかわからなくて、代わりに来た横田先生がいなくなっちゃえばいいんだって話になって...だからみんなで力を合わせて、横田先生をイジメようって決めて...みんな平等に黒板に悪口書いたりとかして...でも給食のときに横田先生が来ちゃったから、次はもっとヒドイ事しなきゃって...」

 中野の話は飛躍していて、小学生に特有の考え方だった。

 すんなり中野が言ったことを理解できなかったのは、横田がそこまで好かれていないという事実を脳が直視できなかったからかもしれない。

 どうやら、横田が思っていた以上に新井と横田の間には格差があるらしかった。新井に戻ってきてもらうために、子どもたちは横田をイジメることをためらわなかった。中野が言った通り、横田は何も悪くないにもかかわらずだ。今は落ち込んでいる場合ではないのだが。

「でも、新井先生は体調崩しただけだって言ったよな。ワシをイジメたって新井先生はよくならないだろ」

「違います...新井先生は辞めるんです...」

「どうして」

 それを、と言いかけて、慌てて口をつぐむ。危うく中野の話を肯定するところだった。新井の退職願が受理されたわけではないし、そういう状況に新井があるということを子どもたちに伝えるわけにはいかない。

「どうしてそう思うんだ」

「昨日、お母さんに言われたんです。ようやく新井先生が辞めるって言ってくれたって」

 横田は、ノーガードで殴られたような衝撃に見舞われた。

「始業式の日からずっと、お母さんは新井先生のこと若いからダメだって言ってて。わたしはそんなことないよっていうのに全然聞いてくれなくて。何回も、お母さんが電話に向かって叫んでるのを見ました。昨日お母さんが、電話を切ってもう安心だよって笑ったんです。お母さんの笑顔が怖くて、わたしも一緒に笑っちゃったから...」

「じゃあ、お前らは新井先生に何もしてないのか」

「だからそう言ってるじゃないですか!」

子どもたちが一斉に横田を睨む。しかし、あの状況で子どもたちを疑うのは当然の流れではないか。教師なら子どもを信じろと言われても困る。横田は実際に子どもたちにイジメられた被害者なのだから。新井のために黒板に描かれた悪口はある意味真剣に考えられたわけで、横田の精神をピンポイントで抉っていた。

「みんなにその話をしたら、同じようなことがあった子がたくさんいたからどうしようってなって...」

 親が教師と戦うときに、徒党を組むのはよくあることだ。親が正しいときも、間違っているときもある。下手な教師に当たって子どもたちが不利益を被ることももちろんある。結局、親にも教師にもまともじゃない人間はいて、割を食うのはいつもまともな人間だ。まともじゃない同士で潰しあってくれればいいのだが。

 少なくとも、新井はまともな教師だった。

「よくわかった」

 よくわかったが故に、横田は困り果てていた。自分が攻撃されたことはひとまずどうでもいいのだ。だが、教育者としてこの子たちをほめるべきか怒るべきかは実に難しい問題だった。新井を助けようとしたことと、その手段として自分をイジメようとしたことが天秤の両極で揺れている。

「ワシをイジメなくてもよかったんじゃないか。ワシとか他の先生に話せばよかったのに」

「でも、そのときはそれしか思いつかなくて」

 子どもはたまにとんでもないことを考える。わかっているつもりだったし、新井に偉そうに語ったこともある。けれど所詮、大人が制御し切れる範疇にはないのだとようやく横田は悟った。

 そして、大人もとんでもないことをする。他の教員が気づかなかったということは、どこで番号を知ったかしらないが個人の電話にかけているのだろう。その狡猾さと周到さを隠し、子どもたちにはイジメはダメだと嘯いていると思うと戦慄する。

 横田は、子どもたちの行動は間違ってないのかもしれないと思い始めていた。子どもたちは横田に、なにか熱いものを思い出させてくれたからだ。

 横田は大人として、これからなにをするべきか考えた。

 結論はすぐに出た。大人として、とんでもないことをするのだ。

「ワシをイジメる作戦は誰が立てたんだ」

「みんなで考えました」

 何だこの会話は。この場面だけを切り取ったら笑えるのかもしれない。人生は俯瞰で見れば喜劇だ。

「誰かをイジメることは、今回みたいな理由があったってダメだ。ワシはみんなに嫌われてると思って傷付いたんだから」

 わかりきった説教を、子どもたちは真面目に聞いていた。

「こういうときは、謝るんじゃないのか」

 子どもたちが、声をそろえて謝る。

 なんてつまらないことを言っているんだと、横田は自分を眺めた。けれどそれも、教師の務めであるからには避けられない。教えるだけなら塾の講師にでもなればいい。教え、育てたいと思ったからこそ、三十余年前の横田は教員の道を志したのだ。

 定年を意識する歳になった横田は、子どもたちの目には退屈な存在に映っていたかもしれない。これからそのイメージを打ち砕くと思うと、不謹慎にも横田は笑いが止まらなかった。

「じゃあな、これからもう一回、作戦会議をしよう」

 子どもたちはポカンとしている。今日は子どもたちに驚かされっぱなしだったが、横田は一矢を報いた気分になった。

「新井先生を助けるために、どうやったら親を説得できるか考えよう。ワシにしたみたいに、無視したり壁に油性ペンで悪口を書いてもいい。みんなの親が集団になって新井先生を辞めさせようとしてるなら、こっちも集団になって戦うのも面白い」

 子どもの反乱を扇動するなんて、きっと前例はないだろう。正気でできることじゃない。でも、教え子を救うために正気を失えないほど、横田は正気を失ってはいなかった。

「みんなならできるよ、だって、ワシに反抗できたんだから。みんなのお父さんお母さんは、ワシほど怖くはないだろ」

島津だけが横に首を振っている。

「ウチの親は先生の何倍も怖い。でも、二人とも新井先生のことは好きだから大丈夫」

「オレんちも」「ウチもだよ」口々に言う生徒は、黙っている生徒より随分と多かった。

 新井のことをちゃんとわかってくれる親だっている。騒いでいるのは数人だけで、本当は新井のことを認めている親の方が多いのだ。

 中野と島津を中心に、作戦が練られていく。

 この子たちは親に育ててもらっている。親ほど計算もできないし、知識もないだろう。それでもこの子たちのうちの何人かは、きっと親より賢い。

 横田は作戦会議に介入する気はなかったが、責任を取る覚悟はできていた。どうせもうじき退職だ。いつの間にか失った気になっていた若さを、子どもたちが思い出させてくれた。

「それから、新井先生に言いたいことがあったら、ワシが伝えるから教えてくれ」

 新井の家は知っている。泥酔した新井を何回も送っていったことがあるからだ。アパートのドアの前で寝袋に入って夜を明かしてやろう。他の住民に通報されたら車中泊に切り替える。確か新井の家の近くにはコンビニがあったから食料はそこで調達しよう。幸い明日は土曜日だし、今日から二晩くらい粘れば大丈夫だ。家事ができない新井は、カップ麺が尽きて出てくるだろう。

 とにかく、今は冷静になってはいけない。冷静になって、こんな馬鹿げたことができるはずがない。

「じゃあ、みんなで手紙を書こうよ」

発案した子どもが自分の自由帳を差し出し、一人ずつメッセージを書いていく。

 横田は確信した。

 この子たちは将来、絶対に誰かをイジメたりしないだろう。

 

 



 

 


 

 








 




 





 




 

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先生イジメ 奥田手前 @akashikato

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