屋上
奥田手前
第1話
私は今年、還暦を迎えた。私の齢を百九歳だと言う人もいるけれど、それは私と先代を混同しているからだ。あくまで私は六十歳。人間なら定年退職する年だが、建築物としてはようやく中堅といったところだ。
私には、何十人かの大人と何百人かの子どもが毎日来る。大人はそれぞれ子どもたちが座っている部屋に入っていって、偉そうに何かを話し出す。私はその話に聞き耳を立てるのだけど、ためになる人もそうでない人もいる。物理はさっぱりわからないが、国語なんかは結構好きだ。
私、という一人称は私によく似合っている。私には雌雄の区別がないのでちょうどいい。それに気品や風格のようなものも演出してくれる。四十年くらい前に覚えたことだ。
あの頃、教師と生徒は敵対していた。生徒と生徒も敵対していた。暴力が私の中を吹き荒れた時代が確かにあった。
私は大人の象徴だった。
ある子どもがバットで私を殴り、飛び散った皮膚片が他の子どもに突き刺さったことがあった。痛かった。私は二度、切り裂かれたのだ。彼は私の次に何人かの大人を殴り、四人がかりで取り押さえられた。
私は彼が一度も子どもを殴ったことがないのを知っていた。その子が怪我をした女の子に謝ろうとして、怖がった女の子に逃げられるのを見た。彼に殴られた大人はみんな、子どもを殴っていた。その子は他の子どもに危害を加えるからと退学させられた。女の子は喜んでいた。数日後、女の子は大人に殴られた。
私の右の脇腹に、下品な絵と下品な言葉を書き殴った連中がいた。私は犯人を見たが捕まることはなかった。美化委員の子どもたちがトイレ掃除用のブラシで私を擦り、塗料とともに私の肌は擦り切れていった。言うなればトイレは私の大腸であり、外壁は顔だ。私は屈辱に耐えていた。
私の左の脇腹に、ある子どもがスプレーを吹きかけた。その絵は抽象的でテーマも良し悪しもわからなかったけど、アートだということだけは感じ取ることができた。その子どもは美術部ではなかったけれど、彼が私をカンバスに選んでくれたことが嬉しかった。
翌日、彼は校長室に呼び出されて絵を消すように言われた。彼が描いたものだとわかったのは、彼がサインを残していったからだった。自分の描いたものをアートだと思っているからこそ、彼は逃げも隠れもしなかった。
彼は午前中、ずっと泣きながら塗料を落としていた。大人に渡されたトイレ掃除のブラシではなく、美術室から持ち出したタワシで。私の顔を汚れたブラシで擦ることに抵抗を覚えたわけではなく、アートをアートとして終わらせるために必要な工程だったのだと思う。彼が一粒涙を零すたび、どこかの蛇口からも水が一滴滴り落ちた。
本当に酷い時代だった。
それに比べて、最近は随分と綺麗になった。
どの子どもも大人の言うことを真面目に聞く。何か反発するものがあっても、それを直接大人にぶつけたりはしない。
若さゆえの際限ないエネルギーがあちこちで暴発する日々は去った。特異な才能も陰湿な感情も見当たらなくなった。
しかし、消滅したわけではないのだ。教育の弊害として圧迫されていったエネルギーは、凝縮して子どもたちの深いところに沈んでいる。他の子と同じように笑うその子が異端の欠片を垣間見せるとき、私は思い出す。心の奥底に仕舞われているだけで、この子たちはいつの時代も桁外れの出力を有している。行き場のないそれらは内側に蓄積されていき、いつの日か必ず爆発する。そのとき初めて、大人はエネルギーの存在とその正負を知るのだ。
おや、首元がくすぐったい。その辺りに意識をやると、一組の男女が屋上の扉の前にいた。
私がもっと好きな場所は屋上だ。数々のドラマが頭上で生まれてきたものだが、最近になって屋上は閉鎖され、私の人間観察は随分と味気ないものになってしまった。私はそれが残念でならない。
「ちょっと待っとけよ。昨日バッチリ予習してきたからさ」どうやら、私の首を刺激しているのは二本の針金だった。鍵穴に針金が出たり入ったりする度に、私はもどかしい思いをする。もう少し右、行き過ぎた、左手の針金はそのままでいい。
一生懸命な男の子を、女の子は穏やかな笑顔で眺めていた。
「鍵、盗んでくれば良かったのに」鍵は職員室で管理されているのだが、掃除などで生徒が頻繁に持ち出すので盗むのはそう難しくはない。
「ロマンってもんがあるだろ」女の子は首を傾げたが、私も同じ気持ちだった。針金でピッキングをすることにロマンを見出す感性は理解できない。
五分ほどして、私はえも言われぬ快感に襲われた。鍵が破られたのだ。
しばらく閉まったままだったからか立て付けが悪く、男の子は二、三度私を蹴った。長年放置されて感覚が鈍っていることもあって、私はそれ程痛みを感じなかった。蹴られ慣れていることも大きい。大人に怒られただとか、屈辱的なからかいを受けただとか、理不尽な理由で私はよく蹴られるのだ。それに大人もたまには私を蹴るし。弟である体育館は四六時中内臓で暴れられるのだから、それに比べれば大したことはない。
男の子の不遜な行いに対するなけなしの怒りは、屋上が解放された喜びで掻き消えた。
「わあ......」圧倒的な光景を前に、二人は言葉を失った。二十年前と何も変わらない光景だった。いつもは校庭から見る夕日を二十メートルほど高いところから見ているだけなのに。それは私もその根源を知らない、屋上が持つ不思議な力だった。屋外で掃除がされているわけでもないから、決して綺麗な場所とは言えない。だとしてもそこは聖域だった。
月と同じサイズになった太陽が空を金色に染めている。
もちろん、私はこの美しい景色を何度も見てきた。しかし、金色を目に映して感動する二人がいればこそ、真の美しさが生まれるのだ。特別な場所で愛し合う二人が同じ時を過ごすとき、初めて完成する世界がある。そういう意味で、私はこの夕日を久しぶりに見た。
「連れ出してくれてありがとう。ここに来れて、本当によかったと思ってる」
「俺も」
繋がれた手と手の間から、汗と制汗剤の混じった青春特有の匂いがする。
「大好きだから」
「私も」
重ねるだけのキスは初めての味がした。
二人は景色が褪せ始める前に屋上を後にした。夕日が完璧に輝く時間はそう長くはない。最高の瞬間だけを二人は持ち帰った。
屋上の鍵を開けたまま二人は去った。また来るつもりだろうか。そう思うと嬉しくて仕方がなかった。
七時になり、下校完了時間を知らせるチャイムを鳴らした。最近推し進められている改革とやらの影響で、このタイミングで帰る大人がずいぶんと増えた。
職員玄関からぞろぞろと人が出ていくなか、私は昇降口の扉が勢いよく開け放たれたのに気づいた。少し下校が遅れる生徒もいるから、施錠されて自動警備に入るまでにあと数十分ある。
その女の子には見覚えがあった。クラスの学級委員を務めていて、みんなに好かれているよく笑う子だ。確か部活動でも表彰されていた。なにか文化系の大会で全国に行き、活躍を称えるのぼりが吊るされていたはずだ。
彼女は息を切らしていた。忘れ物に気づいて慌てて走ってきたのだろう。よくあることだ。
彼女はスリッパも履かず、階段を駆け上って行った。先生に見つかれば怒られてしまうかもしれないよ、急いで。
彼女は自分のクラスがある二階を素通りして上を目指した。悪寒が走った。
意識を集中してよく見ると、彼女の顔は濡れていて鬼気迫るものがあった。私は彼女の笑顔以外の表情を初めて見た。
彼女の手に握られたスマホが振動している。校内ではスマホの電源は切っておくことになっているが、真面目なはずの彼女はそんなことはどうでもいいようだった。
彼女は立ち止まり、震え続けるスマホを踊り場に叩きつけた。ガラスが割れて四方に離散する。そのうちのいくつかが彼女の体を傷つけたが、彼女はもはや痛みを知らなかった。
スマホが黙り込み、解き放たれたように彼女はまた走り出す。向かう先はわかりきっていた。
職員室にはまだ大人が残っている。私はなんとかサインを送ろうとするが、最近取り替えられたばかりのLEDの電灯はわずかに明滅するだけだ。誰も気づかない。
私はもうどこにいるかもわからない恋人たちに呼びかける。
お願いだ、戻ってきてくれ。赤外線のセンサーが導入される前は、夜の屋上も青春が生まれる場所だったんだ。今夜は月が綺麗だし、ここはこの街で一番星がよく見えるんだ。今夜はセンサーを切ってあげるから、だから早く。
彼女は駆け上った勢いを殺さず、扉に体当たりした。鍵がかかっていると思ったのだろうが、あっけなく扉は開いて彼女はつんのめった。けれども転ぶには至らず、むしろ堅いはずの扉がいとも簡単に開いて彼女は勢いをさらに増した。
左足で地面を蹴って体を浮かび上がらせ、右足でフェンスを踏み抜く。一連の動作に迷いはなく、飛び降りと言うには軽やかすぎる跳躍だった。
彼女が落ちる先には、花壇も木も芝もなかった。ただのコンクリートだった。
どうして学校を花壇で囲わなかった。転落防止用のネットでも張っておけばよかったじゃないか。
非現実的な後悔が渦巻く間に、彼女は着地した。校舎からかなり離れたところに、頭から。
学校の全てが私の一部であり、あらゆる場所に私の感覚器官が張り巡らされている。つまり、私は耳元で骨が砕ける音を聞いた。皮膚の上で内臓が弾けるのを感じた。こぼれ出した腹わたの生臭さを嗅ぎ取った。彼女が潰れる瞬間を、ゼロ距離で目撃した。
私が彼女を殺した。
誰もそうは思わないだろう。でも、そうなのだ。
彼女は私に頭を打ちつけて死んだ。その感触は、なにをどうしようとも忘れられはしないだろう。私は凶器に仕立て上げられたのだ。
その硬さと高さを利用され、人の命を奪う片棒を担がされた。私に非はないと、私を慰めてくれる者はない。私は人の命を奪った罪悪感から逃れられない。
五臓六腑から血が噴き出し、漏れ出た脳漿と混ざり合う。生温い混合物が私の上に広がり、彼女の温度が私に移り始めた。
誰か早くきてくれ。今ならまだ間に合うかもしれないじゃないか。脳を頭蓋骨の中に詰めなおせ。眼球を元のくぼみに戻してやれ。私には手がないんだ、早く。
まだ、そんなことを思いたがる私がいた。
屋上 奥田手前 @akashikato
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