04

 男に促されるまま契約書に目を落とし、一文一文、時間をかけ丁寧に読んでいく。やたら小難しく書いてあるそれは先ほど男が話した通りあまりにも理不尽で、私とっては旨味など何一つもなかった。

「もしも、ここで私が判を捺さないと言ったら……私はどうなるんですか?」

 そっと顔を上げた私が訊ねると、男は、

「……どうなると思う?」

 と訊き返してくる。男の目は笑っていない。瞬間、ゆっくりと血を抜かれていくかのような、得体の知れない恐怖を感じ、慌ててもう一度契約書に目を落とす。そこに書いてあるものは、どこをどう読んでもこの男やその周囲にいる人間たちがまともではない証拠としか受け取れなかった。


 両親は、私のことをいくらで売ったのだろう。私は今後この男の下で××××万円を稼ぎ切るまで、彼らの道具として利用され続けるのだという。もし仮に私がそれほどの大金を稼ぎ切ったとして、はたして私は本当に自由を約束されるのだろうか? いや、そもそも学も経験もない私に、どうすればそれほどの金が稼げるというのか。

「私はこれから何をするんですか? ××××万円なんて、普通のやり方じゃ到底……」

「あー、いいのいいの、そういうことは追々話すから。ともかく今のあなたはこの書類を熟読して、自分の未来を憂いながら判を捺せばいいってこと」


 最終ページまでたどり着いたところで、男が再び抽斗を開け、

「ここと、ここ」

 私へ朱肉を差し出しながら捺すべき箇所を指示する。今ここで判を捺してしまったら、きっと私はもう本当に「普通」の世界には戻れないのだろう。両親は自らの意志で、自らの戸籍と私を売り飛ばし、今後は赤の他人に成り変わって生きていくのだと彼は言う。

 ふと、思う。

 そもそもこの男が私に語ったことは、事実なのだろうか?


 これは何か、盛大な笑い話なのではないか? 私は彼らに騙されているだけで、全てはあまりにも不出来な冗談でしかなく、もうじき両親が笑いながらこの部屋に入ってきて「どう、面白かった?」などと訊ねながら私を家に連れ帰ってくれるのではないか。自分たちの戸籍を売る? 十七年も育ててきた娘を売り飛ばし、他人に成り変わって生きていく? そんな馬鹿げた話、あるわけがない。これは全部冗談で、大嘘で、作り話で、私は皆に騙されているだけじゃないのか?

「あの、もうやめませんか?」

「ん? なに、やめるってのは?」

「これってどうせ、テレビ番組の収録とかそういうのですよね? 申し訳ないけれど全然面白くないですよ? 冴えない一般人をターゲットにっていう謳い文句の企画なんでしょうけれど、でもちょっと嘘が過ぎるっていうか……戸籍を売るとか子どもを売るとか、あまりにも非現実的だし、そもそも私車の中で縛られていましたよね? そういうのって、番組として成り立つんですか? 倫理的にかなり問題ありますよね? こんなものを放送したらインターネットで炎上するだろうし……そもそも私、そういう、テレビとか興味ないので。出たいとも思っていないですし、だから勝手に巻き込まれても困るんです。両親がいいって言ったのかもしれないけれど、私は嫌なので。あの、カメラはどこですか?」

 きょろきょろと周囲を見回してみるがレンズらしきものは見つけられず、よほど巧妙に隠されているのだろうと思わず感心してしまう。

「どうせ父と母も別室で見ているんでしょう? もうやだな、やめてよー。いきなりリビングを片づけ出したと思ったらこんなこと……あ、もしかしてこのあと家に戻って家族に感想をインタビューとかですか? 本当に勘弁してください、私今のところ全然面白いと思えていないんですから」

 やけに饒舌な自分がいた。早く答え合わせをしてほしい。一体両親はいつこの部屋に入ってくるのだろう。へらへらと詫びながら現れて、騙せなかったと悔しがればいい、うまくいかなかったと落ち込めばいいのだ。

「へえー……、思ったより粘るね」

 男が感心したように言う。それから、

「あるいは、本物の馬鹿なのかな?」

 いきなり私の頭頂部を鷲掴みにしたと思いきや、そのままゆっくりと力を加えていった。髪の毛が彼の指に絡まって引っ張られ、強い痛みが生じる。


「あのさあ、状況。考えてみよっか? あなたはここまでどうやってきたんだっけ? 家からはどうやって出た? それは何時頃だった? どうやって車に乗った? どんな姿で車に乗せられていたんだったっけ? さっき言った通りここは××県だけど、じゃあ具体的に××県のどの辺りだろうね? そもそもあなたはどうしてこんなところにいるんだと思う? あなたの記憶では、ただ家にいただけなのに」

 男が私の頭を左右に揺さぶり、

「これも、企画のうちの一つなのかなあ?」

 彼の手が私の側頭部をゆっくりと滑り落ちていく。頬を過ぎ、顎に触れ、首筋をなぞる。喉の中央に回された男の親指には全く力が入っていない。

「細くてしなやかな、女の子らしい首だねー。自慢に思っていいよ。でも、折り甲斐はないかな」

 男の両眼から目が逸らせない。逸らした瞬間、勢いよく首を握り締められる気がしてならなかった。浅い呼吸を繰り返しながら、男の感情が整うことだけを強く祈る。私には何も言えず、何もできなかった。

 この男は、ここで私の首を絞め、折ることに何の抵抗もない。


「あの、はんこ、判子を……」

 必死に言葉を紡ぐ。男の目を捉えたまま、判を捺す意思を伝える。これからどうなってしまうのかを憂うよりも先に、今、生き延びるための選択が必要だった。

「あ、やっとわかってくれた? よかった、よかった! 俺ねえ、買ったのに使えないってのが一番嫌なのよ。むかつくじゃんね、そういうの。大丈夫、大丈夫。俺は他の奴らと違って教育に重きを置いているから。人に依ってはすぐ働かせ始める奴もいるんだけどさ、長い目で見れば、ちゃーんと指導して、ノウハウを叩きこんでからのほうが稼げるんだよな。一過性の利益に目が眩んだらそこでおしまい」

 再び男が朱肉を差し出す。私が人差し指をそこに翳せば、

「あ、違う違う、親指」

 すぐさま指摘が入る。言われるがまま親指を押し当て、震える手で男が示す箇所へ捺し、ゆっくりと指を離す。男はそこに写った真っ赤な指紋を満足そうに眺めながら、

「はい! おめでとう、契約成立です。これからお仕事、一緒に頑張っていきましょう!」

 私の頭をやわく掻き混ぜるように撫でた。

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