03

 次に目を覚ましたとき、世界は真暗闇だった。

 ほんの少しの午睡のつもりだったが、すっかり夜になってしまったのかもしれない。凝り固まった身体を伸ばそうとし、そこで私は自身が後ろ手に縛られていることに気づく。無理やりにでも手首を広げようと試みるが、食い込んだロープがこすれ強い痛みを感じる。大声で叫ぼうとしても、口もテープで塞がれているらしく低く唸ることしかできない。視界の暗さはアイマスクか何かで目を塞がれているからだろう。身体に伝わる振動で車に乗せられていることまでわかった。必死の思いで身体をひねり、拘束を解こうとする。

 自分の身に何が起きているのか、その一切がわからない。

 私は自分の家で眠っていただけなのに。

 私はいま何をされている? 私はこれからどこに連れていかれるというのだ。


 繰り返し、身悶えながら唸っていると急に視界が開ける。乱暴に外されたアイマスクの向こう側で、

「あのさあ、うるさい」

 若い男が一人、私のことを仏頂面で睨んでいた。

 何とか状況を把握しようと、上下左右に眼球を動かし、辺りを見る。おそらくはワンボックスカーの中、車内には私と、目の前の男、それに運転手の男。運転手は小太りで、黒いシャツを着、長めの髪をポマードで丁寧に撫でつけていた。私の隣に座る若い男は、ボリボリと頭を掻きむしりながら、

「細かい事情はあとで説明するけど、まあとにかく今理解しておいてほしいのは、暴れても無駄だってこと。もう元の家には帰れないし、普通の生活も無理。悪いんだけど、車降りるまでに大体のことは諦めておいてくれない?」

 面倒くさそうにそう言った。

 私には彼の言葉の意味が何一つわからない。

 わかるのは、自身が何らかの事件に巻き込まれているであろうこと、それはおそらく誘拐であること、そしてこれから酷い目に遭わされるのであろうこと。そのくらいだった。

 恐怖と混乱が入り交じり、ぼろぼろと大粒の涙が両頬を伝っていく。幅広のテープで口を固定されたまましゃくりあげていると次第に呼吸が苦しくなってきて、ぼんやりと滲んでいく視界の中、窓越しに見える道路の街灯は走馬灯のようだった。




「おーい、起きろ。歩くぞー」

 強く肩を揺すられ、自身が再び眠っていたことを自覚する。いつの間にか手足の拘束は解かれ、車のドアも開け放たれていた。相変わらず口にはテープが貼られているが、身体は自由に動かせるらしい。

「ああ、そうだった。ここで敢えて逃げ出そうとしても俺は別にいいんだけど、やめといたほうがいいとだけは伝えておく。あなたのためにね。逃げ切るなんてどうせ無理だしさ、死にたくないなら大人しくしててよ」

 何の拘束もない今ならば逃げられるかもしれない。私の薄っすらとした希望は彼の言葉であっさりと無に還る。男の顔つきから察するに、趣味の悪い冗談として笑って受け取る余地などどこにもなかった。

 男が私の腕を強く掴み、引きずるようにして車から降ろす。ふらつきながら地面に立つと強い磯の香りがした。

「ここ、××県。で、なおかつ海。埠頭ね」

 運転手は車を降りなかった。若い男が「じゃ。お疲れ様でしたー」と運転手へ告げドアを閉めると、彼は何も言わずに車を発進させ、そのまま深い夜へ消えていった。

「よし。じゃあついてきて。五分くらい歩くから」

 男がポケットに両手を突っ込み、躊躇なく暗闇を進んでいく。私は自ら口のテープを剥がし、それを手の中で持て余しながら男の後ろを恐る恐る歩いた。自身に何が起きているのか、いまだ私にはわからないままだった。男は明確な目的地へ向け、迷うことなく、組み上げられたコンテナの透き間を縫っていく。闇夜に紛れて何とか逃げ出せないだろうかと繰り返し考え、そのたび先ほどの男の冷め切った表情が思い出されて足がすくんだ。そうしているうち、私たちはある錆びれたプレハブ小屋の前に到着し、

「はい、ここね」

 男はポケットから鍵を取り出すと手早く開錠し、がらがらとドアを開けた。

「ただーいま」

 男が慣れた様子で壁のスイッチに触れ、真っ暗な部屋に灯りが満ちる。一気に白んだ室内には事務机が向かい合わせに二つ、窓際にはロッカーと背の低いスチールラック、その中には大量の紙の束が几帳面に並べられていた。部屋の隅には扉があり、ご丁寧に“TOILET”の札まで吊ってある。

 男は「あー、疲れたわー」と言いながら室内を斜めに進み、小さなシンクで手を洗い、口をゆすいだ。私が何も言えないまま入り口で立ち尽くしていると、男はこちらへと振り返り、

「悪いんだけどさ、戸、閉めてくれない? 長く開けていると、灯りに誘われて虫が入ってきちまうから」

 男の言葉をしっかりと聞き取り、しかし私は『戸を閉める』という簡単な動作さえできないほどに混乱していた。胸の前で硬く両手を握り、ただただ男の動きに注視する。

「おい、聞こえてる? 戸、閉めてくださーい。おーい」

 繰り返しそう放つ男は、右手で私の背後のドアを指さし、私にそれを閉めさせようとする。それでも私は石のように固まったまま動けなかった。互いに無言のまま数秒、いよいよしびれを切らした男はシンクからこちらへ歩いてきて、

「扉っていうのは、開けたらその都度閉めるものです。覚えましたか? 躾がなっていないねえ。これはいただけない」

 大きな音を立て、強引に私の背後にあるドアを閉めた。

「開けた扉は必ず閉める、閉めたらすぐ用心のために鍵もかける。ま、今後はそういう感じで。よろしくー」

 あとさあ、そこに突っ立ってられても邪魔なんだよね。そう言って男は私の背を強く押す。思わずふらついた私に構う様子もなく、そのまま彼は一方の机の前まで私を押しやり、

「はい。じゃ、座って」

 ようやくそこで手を離した。怯えつつ、言われるがままに私が事務椅子に座ると、男は満足そうに、

「そう。それでいい、それが正解。一応やればできんのね」

 そう言いながらもう片方の机の方へ移動し、自らも腰かけた。年季の入った事務机だったが、余程丁寧に使われてきたのであろう、目立った汚れや傷はない。机の上には何も置かれておらず、よく見れば部屋も頻繁に掃除しているようでどこを見ても埃一つなく、見事なものだった。

 私がこそこそと辺りを見渡している間に、男は抽斗から何枚かの用紙を取り出していた。とんとんと簡単に揃えてからそれを私へ差し出し、

「これ、契約書。熟読して、納得できたらここに母印ね。ていうかこれ読める? 読めたとして意味わかる? まあ当たり前だけどすげー怯えちゃってるしさ、ちょい心配なんだよねー。これ、めちゃくちゃ大事な契約書だからさあ、流し読み程度じゃあ困るんだわ」

「あの……契約書? 私、何か契約させられるんですか……?」

 男の両眼を見つめながら私がそう訊ねると、彼は「待っていました」とでも言わんばかりに下卑た笑顔を浮かべ、

「そう、俺とあなたは契約書するの。これはねえ、あなたにはこれから、俺の管理する“商品”としてバリバリ働いて金を稼いでもらいます、その間文句は絶対に言いませんっていう、あなたにとってはひどく理不尽な契約を交わすための書類。えー、あなたは……ああ、ここね。ここちゃんと読んで。あなたは××××万円を稼ぎ切るまで、俺の“商品”としてのみ活動することを許されます。残念だけど人権とかそういうのは一切保証されません、悪しからず……あとは、そうだなあ、ああ、ここ。あなたの戸籍はすでに他者に譲渡されているため、今までの名前等は今後一切使用できません。ここはかなり重要だねー。名前をはじめとして、あなたが今までの人生で溜めてきた経験値を一つ残らず失っちゃうってことだから。で、これから自分の名前はどうする? なんか付けたい名前とかないの。俺の経験上だと好きなアイドルとか、本やらアニメやらのキャラクターからもじる人が多いかなー。案外みんな適当なんだよね」

 男は書類の上で指を滑らせながら、その内容を掻い摘んで話している。悪ふざけのような言葉ばかりが並ぶその文書は、しかし的確に私を怯えさせ、そしてそれ以上に激しく私を混乱させた。


「あ、あの」

「んー? なあに?」

「私は、あの……どうしてここに?」

 私が恐る恐る繰り出した言葉を受け、男はさらにだらしなく、心底嬉しそうに破願した。彼はへらへらと顔全体を緩ませながら頬杖をつき、

「あのねえ、あなたはねえ、売られちゃったの。それも親御さんにね。あなたは商品として、親に売り飛ばされちゃったってこと。聞いてるよ、家族仲、ずーっと悪かったんだってなあ。勤めていた会社が倒産したせいで父親は病んじゃって、母親は狂った父親の面倒を見ているうちに疲れて病んじゃって、娘であるあなたも二人に感化されて、もう何年も引きこもり状態。数か月間には、じいさんからの金銭的な援助も終わってたらしいぞ。あなたの父親、『もう本当に金がないんだ』って繰り返し喋ってたわー。笑うよなあ。で、父親も母親も、ようやくこのままじゃいけないと気づいた。でも今更奮起したところで昔の生活を取り返せるとも思わない。親御さん、二人して似たようなこと言ってたけど、全部一新して人生やり直したくなったんだと。つーことで、二人とも俺らに自分の戸籍を売って、代わりに俺らから他人の戸籍を買ったってわけ。しかし、人間ってのは強欲で薄汚いよなあ、二人とも今までの自分より質の高い戸籍がほしくなったらしくてさ。でも自分らの戸籍を売って得た金だけじゃ足りないってことで、娘の戸籍と、娘そのものを売り飛ばすことにした……と」

 男はまるで幼子におとぎ話を聞かせるかの如く、ひどく穏やかなトーンで、おかしなことをつらつらと宣った。あまりにも現実味がなく、常識はずれな彼の言葉に私は、

「冗談、です……よね?」

 思わずそうこぼしてしまう。すると、男はわざとらしく溜め息を吐き、

「……みーんな、そう言うんだよな。本当の世界の“形”を知らないから。みーんな」

 やおら立ち上がりコツコツと踵を鳴らしながら部屋を歩き始めた。

「みんな揃って信じない。そんな作り話みたいなことがあってたまるかってさ、壊れたスピーカーみたいに泣きながら怒鳴り散らす奴までいるんだぜ? 全部自分らのせいなのにさ……なんでかなあ、どいつもこいつも売り飛ばされるまで自分の醜悪さに気づけない。売られてくるのはいつだって自分の行いに対して無自覚な奴らばっかりだ。女を殴る男、男を利用する女。旦那をATMとしか思わなかった嫁、嫁を飯炊き女としてこき使ってきた旦那。偉そうに口ばっかり達者な老人、年齢だけが売りの無知な若者……本当にいろいろさ。でも、残念だけどこれが現実なんだよね。あなたは、売られたの。あなたはまとまった金と引き換えに、親に売り飛ばされちまったの。そろそろ現実見ようぜ? あなたはもう二度と普通の世界には戻れない。最下層の生き物として、泥水すすって生きてそのうち死ぬ。ご愁傷様だね」

 男が私の肩に手を置く。瞬間、びくりと身を縮めてしまえば男は「わかりやすくていいねえ」と軽く笑い、

「お茶、おいしかった?」

 と付け加えた。

「……お茶?」

「そう、お茶。どうせ飲んだんだろ?」

 丁寧に記憶をたどっていく。車内で目を覚ます前、私は自宅のリビングにいた。両親が部屋を片づけていて、私は二人に促され風呂に入り、たしか上がってから母の差し出したグラス一杯のお茶を飲んだ。そのお茶はやけに苦くて、ソファに座るとほぼ同時、すぐに強い眠気が襲ってきて――

 私がはっとした表情を見せると、男は「ほらね」としたり顔で私を見、嗤う。

「それ、俺の指示なんだよね。『お茶にでも混ぜれば苦味はまあまあ誤魔化せる』。あなたはわかりやすいけれど、親御さんは年不相応なくらい素直な方々だったようで。ああ違う、“元”親御さん、かな?」

 男が私の肩をぽんぽんと叩く。

「ここは、そういう世界だから。さてと……そろそろ本当に諦められそう?」

 男の掌から伝わってくる人間としての重みと現実が全く噛み合わない。

 見上げた男の顔は部屋の灯りで逆光となり、黒く塗り潰されて表情一つ読めなかった。

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