02
薄い雨の中、名前も知らない羽虫がたむろする街灯を縫い合わせていくように夜を歩く。もうすぐ春も終わるというのに、この雨のせいで風が冷たい。パーカーのポケットに両手を突っ込み、握ったり開いたりを繰り返すたび、関節はきしんだ。
ようやく幹線道路沿いのコンビニエンスストアに辿り着き、フードを下ろす。店内の暖房に安堵しながら、両手いっぱいにいつも通りの商品を手際よくピックアップしていく。腹さえ満たせればそれでいい、という投げやりな態度をそのまま反映したような内容の食べ物たちは、十代の少女らしいチョイスだと言えばそうだし、成長期である身にはあまりにも不適切であるとも言えるだろう。
レジにはいつものアルバイトの男が立っていた。三十代後半から四十代半ば、ボストン型の黒眼鏡に少し長めの前髪が被さり彼の視界を塞いでいる。片耳に黒いフープピアスがついていて、神経質そうな指先で私の支払った札を面倒くさそうに数え、商品を詰めていった。
「ありがとーございましたー」
間延びした、覇気のない声もいつも通りだった。金額を聞き取るためだけに外した右耳のイヤホンを嵌め直しながら店を出る。いつの間にか雨は上がっていた。
家に着いたのは三時半を少し過ぎたころで、両親も犬も喚き疲れて眠っているのだろう、どの部屋にも灯りは点いていなかった。できるだけ音を立てないよう、気を配りながら階段を上り、慎重にドアを開閉して部屋に電気を灯す。
マスカットゼリーを惰性で食べながら、私はPCを眺めていた。気に入りのアーティストの公式サイトを順番に巡り、新着情報を確認するがどれも特段動きはない。コンビニエンスストアへ向かうときから付けていたイヤホンからは、絶えず音楽が流れ続けていた。
空になったゼリーのカップとプラスチックスプーンを部屋の隅のゴミ箱へぞんざいに抛る。両者は空中で離れ離れになり、スプーンは見当違いのところへ、ゼリーカップはガン、と一度壁にぶつかって、そのまましばらく床の上で揺れていた。
翌日。階下の賑やかさで目を覚ます。
携帯電話で確認すれば、時間は午後一時を回ったところだった。父はもう何年も働いていないし、母も普段ならばこの時間は荒れ果てたリビングでぼうっと座っているだけのはずだ。あまりの家庭崩壊ぶりにいよいよ通報でもされて警察が乗り込んできたのだろうか? ベッドを出、恐る恐る階段を下りていくと、
「あら、おはよう!」
「おはよう。随分と遅いなあ。また夜更かしかー?」
母と父がどろどろと額から汗を流しながら、協力してリビングを片づけていた。テーブルはキッチンカウンターにぴったりとくっ付けられ、左右に一脚ずつ、あるべき場所に椅子が置かれている。壁掛けの時計はいつの間に買ってきたのか、新品になっていて、埃一つないまま正確に時を刻んでいた。固定電話は小棚の上に行儀よく置かれ、薄手のガーゼでできたハンカチが埃除けとしてかけられている。飼い犬の姿は見えなかったが、きっとどこかで日向ぼっこでもしているのだろう。
呆気にとられている私を後目に、両親は手際よく部屋を片す。どうしたの、とも、何のつもりで、とも訊く気にはなれなかった。ただの気まぐれかもしれない彼らのこの行いは、しかし、この家庭が健全なそれに戻る大きな一歩に違いなかったからだ。
「……私も、片づけ、やる。どこ手伝えばいい?」
私の言葉を受け、母は嬉しそうに笑って、
「いいわよお、片づけは私たちでやるから! あなたは……そうね、お風呂でも入っちゃいなさい。さっきピカピカに洗って、沸かしておいたから」
たまには湯船にも浸からないとなあ! と、父が言葉を付け足し、いつ取ってきたのか、バスタオルを手渡してくれる。私は大きく頷き、風呂場へと向かった。
家庭がおかしくなってからはシャワーばかりだったから、浴槽に入るなんて数年ぶりのことだ。いつ買ったのかも覚えていないほど古い、買い置きの薔薇の入浴剤の重ったるい香りに包まれながら鼻歌を歌う。
浴室内に反響する自身の歌声はあまりにも拙く、
「あー……音痴、治らないかなあ」
私は笑いながら少し泣いた。
小一時間後、濡れた髪をバスタオルで乱暴に拭きながらリビングへ戻る。両親は随分と手際よく片づけたらしく、壁や床がやけに傷ついている以外は至極真っ当な、平均的な家の居間へと姿を変えていた。一体いつ買ってきていたのか、新品のテレビの配線を行う父は床に座りながら説明書を睨み云々と唸っているし、母はキッチンで夕食の仕込み中らしく、昆布出汁のやわらかい香りが部屋中に漂っている。この家は、やっと元に戻ろうとしていた。
「お湯加減、大丈夫だった? 喉乾いたでしょう。お茶飲みなさい」
気を利かせた母が、私にグラスを手渡してくれる。「ありがとう」と伝えながらそれを受け取り、一気に飲み干すと強い苦みを感じた。どうやら冷蔵庫の中身まではまだ整理できていないらしい。思わず「にっがい!」と言ってしまうが、両親は機嫌を損ねる様子もなくただけらけらと笑っていた。
ソファーに座り、母が扱う包丁の音を聞きながらレコーダーと格闘する父の背を眺める。
こんなにも落ち着いた気持ちになるなんて、父の勤める会社が倒産してからただの一度もなかった。もしかすると、ようやく父の就職先が決まったのかもしれない。とすれば、私たちは普通の家族に戻れるのだ。
今日は金曜だ、土日は家族で出かけるのもいいだろう。梅雨も近い穏やかな晩春、重くなってきた目蓋に逆らうこともなく、ゆっくりと目を閉じる。濡れたままの髪が頬に触れ、つうっと顎先までを濡らした。
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