両親に戸籍ごと売られた腹いせに犯罪者と結託して金持ち相手に詐欺することにした

桂 叶野

01

 真っ暗な部屋の中、型遅れのノートPCの画面だけが煌々と光を放っていた。

 片手でキーボードを操作し、耳が潰れる寸前まで音量を上げる。抱え込んだ膝に顎を乗せ、ずれたヘッドホンの位置を正し、俯き加減で目を閉じれば諦めたように歌う彼の声が私の世界に満ちた。

 私が一切を遮断しても「在ったこと」は「無かったこと」にならない。

 今夜も階下のリビングでは父親が怒鳴り、母親が泣き喚き、飼い犬は気が触れたように吠え続けているようだった。何かが割れ、何かが破れ、何かが激しくぶつかる音が繰り返し響き、止む気配もない。

 この家は、まるで世界の終わりみたいだ。

 私にとって、耳の奥で鳴る音楽だけが救いで、それだけが唯一のシェルターだった。



 父の勤める食品会社が消費期限の偽装で倒産したのはもう四年も前の話だ。

 地元で一等優秀な高校を出、世間的に評判のいい大学をきっちり四年で卒業し、名の知れた会社でほどほどの成績を収め続け、二十代中盤で大学時代の同級生と結婚し、妻と一人娘を心から愛し、そして愛され、上司からも部下からも厚い信頼を持たれていた父は、“失業”という初めての挫折であっさりと心身を病んだ。

 再就職が難航し、眠れない夜を繰り返しながら日々やつれていく父は、

「なあ、これは本当に食べられる物なのか? 期限切れじゃないのか?」

 いつしか母が出す食事を疑ってかかるようになった。


 父は、割引シールの貼られた食品を「腐っている」と吐き捨て、母がスーパーマーケットから買ってきた新鮮な食材すら当日に使い切らなければ翌日にはひとつ残らず生ゴミとして躊躇なく捨てた。

 初めこそ母も「これは今日買ってきたものだけで作ったから、大丈夫だよ。腐っていないよ。安全だよ」と必要以上に不安がる父をなだめながら、なんとか父に温かな食事を摂ってもらおうと努めていたが、次第に彼女も疲れきっていき、数か月後にはキッチンに立つこと自体を諦めてしまった。

 食べない父、諦めた母。

 彼らといびつな生活を共にしているうち、ふと私は“適切な食事”という概念を失っていることに気づいた。今の私は週に一、二度、母の財布から盗み取った数千円を握り締め、コンビニエンスストアへ向かい、固形の栄養調整食品や常温でも日持ちしそうなゼリー、チョコレート菓子、ペットボトル飲料などを買えるだけ買い込む。それらを自室のベッドサイドテーブルに並べ、腹が鳴ったら口へ放っていく。数日後、食べられるものがなくなったらこっそりとリビングへ降り、冷蔵庫を覗き、何もないことを確認しては無造作に置かれている母の財布から金をくすね、再びコンビニへと向かう。

 財布から金を盗んでも、まともな会話を拒み、目を合わせようとせずとも、夜に起き朝に眠っても、数日おきにシャワーを浴び、洗濯物を廊下に放り投げていても、父も母も、私には何も言わなかった――いや、今の二人は互いを罵り合うことだけに夢中で、必死で、精一杯で、私のことなど気にもかけていないようだった。


 父が就職を諦めると同時、いよいよ私たちの家はわかりやすく貧困に喘ぎ始めたけれど、国から与えられるはした金と、不定期に入金される祖父からの援助のおかげで誰も死にはしなかった。

 数ヶ月前、父が母に「ふしだら」「恥を知れ」「お前は俺の何なんだ、お前は俺を何だと思っているんだ」などと叫んでいた。もしかすると母は他所に男の人を作ったのかもしれないし、あるいはまとまった金を作るため、自らを売りに出したのかもしれない。

 しかし、この頃の父は現実と虚構の区別がついていない様子でもあり、全て彼の妄想であるという可能性も捨てきれない。実際に母も父へ向かって「あんたは頭がおかしい、あんたは狂っている」と繰り返し喚いていた。

 もはや私には彼らの話のうち、どれが真実なのかはわからない。

 私にわかることは、もう彼ら二人の世界に「私」が存在しないことだけだ。

 二人から名前を呼ばれたのはどれくらい前の話だろう。

 最近、自分の名前を忘れそうになる。

 忘れてしまってもいいかな、と少し思う。




 目が覚め、枕元のスマートフォンを灯して時間を確認する。深夜二時半。両親の罵声は聞こえなくなっていた。

 部屋を出、階段を下り、蝶番が歪み四六時中開けっ放しになっているリビングのドアをくぐる。受話器の外れた固定電話は本体ごとだらしなく宙吊りになっていて、ツー、と微かな音を響かせながらエラーを伝え続けていた。ダイニングテーブルは横たわり、三脚ある椅子はそれぞれ見当外れの場所に抛られ、フローリングの床に落下し表面のガラスに亀裂の入った壁掛け時計は九時四十三分を指したまま、どの針も動かない。ああ、犬は怪我をしなかっただろうか。部屋にスリッパを避難させておいてよかった。今更溜め息も出ず、そのままリビングと地続きのキッチンへ入る。

 今日も冷蔵庫にまともな食べ物などはなく、いつ開封したのかもわからない二リットルの麦茶をコップに注ぐ。案の定渋く、おかしなえぐみばかりが目立つそれを無理やり飲み干してから、シンクに寄りかかってぼうっと荒れ果てた室内を見る。

 本当に、ここは世界の終わりのようだ。


 履き古したコンバースに爪先を通す。深い闇に覆われた外は霧雨で、顔が濡れないようパーカーのフードを目深に被った。瞬間、イヤホンが抜け落ちそうになって、私は慌ててそれを耳に押し込める。音も立てずに降る雨に吐き気を催しながら往く夜道よりも、車の走行音すら聞こえないほどの轟音に身を浸すほうが、私にとっては“安全”だった。

 型の古いスマートフォンを操作し、いつものように全アーティストをシャッフル再生する。途端に耳元からは『どうかあの娘を救って』と、まるで私の心中を見透かしたかのような歌詞が紡がれ始め、私は自身の惨めさを鼻で嗤うしかなかった。

 歌詞の続きを共に小さく口ずさみながら、夜が創り出す暗闇へ一本の折り線を描くように歩を進める。こんな世界の終わりから、私を救ってくれるのは一体誰なのだろう。まさか、そんな人が存在するわけもない。いや、でももしかしたら、あるいは。しかし、それでも、結局は、きっと、どうせ――

 両極端の感情が、私の濁った頭を二色に染めている。グラデーションのような、スペクトラムのような、幼稚で夢見がちな思考を煽るように、耳元では大音量の音楽が流れて続けていた。

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