第7話 薪能(たきぎのう)
薪能(たきぎのう)
久々の長い休みが取れた綾佳がまず訪れたのは、叔母の所だった。
「薫ちゃんにはすっかりお世話になっちゃってます。」
「えー、それはこっちのセリフじゃないの!薫が何時も押しかけていって迷惑していない?」
「うんん、全然、寂しい独身女に取っては夢の様な時間よ。このまま、私の旦那にしたい位だもの。薫ちゃんて何処であんな料理が上手なわけ?」
「私が反面教師をしてるからかな。手抜き母で手抜きの主婦でね。つい外食が多くなってしまって、どうせ外食するなら美味しい所がいいでしょ。あの子ったら、その店で食べて美味しいものがあると、再現して見たくなるみたいで、いつの間にか料理のレパートリーが増えてるって訳かな。」
「ふーんなるほどね。・・・それにしても、いつ来ても、気持ち良いね此所は。」
「そうね、あの人がさんざ探してやっと見つけた所だものね。もう一つ、伊豆に良い所が有ったんだけど、流石に通勤するとなると遠いかなって事で此所にしたのよ。」
眼下の海岸は広い公園と成っていて、幾つかの込み入った入り江が小さな島の様な景観を形作り、南仏の様な雰囲気を作り上げていた。二人は、広めに作られたベランダのウッドデッキで紅茶を楽しんでいた。
「薫ちゃんはお出かけ中?」
「彼女と小旅行に出てるわ。」
「彼女って、あの変な女の子って言う娘?」
「ええ、少しは話聞いてる?」
「うん、そのうち紹介するとか言ってたけど、まだ見たことないわ。それで、二人で旅行に出てるの?」
「ええ、あちらの親公認だし、資金源もあちら持ちなのよ。今日当たりは、奈良かな。薪能(たきぎのう)を見てるはずよ。」
「薪能、あの奈良公園の屋外舞台で舞う催しものでしょう。」
「ええ、そうらしいわ、本番は夜みたいだけどね。あの子の彼女、由香ちゃんて言うんだけど、その子の思いつきみたい。」
「薫ちゃんがその子に振り回されてるの。」
「外見的にはそんな風に見えるけど、薫は薫で何か考えがあってそうされているみたいなんだ。」
「ふーん・・・こんだ合ったらその辺の所、詳しく聞かせてもらおう!」綾佳は一人納得している様子で言った。
薫が由香の着物姿を見るのは始めてだった。淡いピンクの地に桜の花びらを思わせる小さな文様が雪の様に舞っていた。京都の店で誂えた由香のその和服と、それとは対照的に渋い紺色を基調とした男物の和服が用意されていた。薫は和服を着るのは初めてであったが、ふと、昔の写真の中に父の和服姿があった様に思え、父の思い出の断片が蘇えっていた。
新緑の芝の一角に小高く作られた能舞台は、四隅に置かれた薪の深紅の炎で照らされ、屋外の芝地を幻想的な劇場へと変えていた。二人は能の舞が始まる少し前に、この舞台の周辺を散策しながら、静けさとも雑踏とも付かないピーンと張り詰めた一瞬の静寂を味わっていた。
「薫、私は昔此所に来たことが有るんだ。」
「え・・・、昔て何時だよ。」
「良く分からないが、その時の思い出が残っているんだ。ここのベンチとか芝の能舞台とかに。」
薫は、また由香の取り留めの無い話かと思ったが、彼女の話の中には決まって裏付けとなる事実があった。薫が知る限りでは、由香が奈良に来たのは今回が初めての筈で、修学旅行も持病のために行ってない。だから本当にここを歩いた者意外には、知り得ない景色や感覚、それに今目の前にある物体を差し示す事は出来ない筈であった。
「そこにベンチが在るはずだ。」そう言って指さした木立の中に、ぽつりと緑色のフレームに支えられた、ベンチが在った。二人が木立の隙間から、薪の明かりを見ながらそのベンチに座ると、暮れかけて来た周囲の闇の中にとけ込むかの様に、由香が話し始めた。
「この土地で暮らしていた、ある女性の思いだ、三十代位の。彼女は末期ガンの体と知り、思いを寄せていた男性に別れを告げるための旅の途中に、この場所に来ている。」
まだ古風な趣を見せていたJR奈良駅で、
多恵は岳を待っていた。岳の突然の来訪に少し戸惑いは有ったが、良い機会かもしれないと思い逢うことした多恵だが、心の中は揺れていた。こんな関係を続けても、結局岳が苦しむだけで、自分にはどうする事も出来ない。今日は、ハッキリと事情を話しこの関係を終わらせよう。家を出るまでの多恵の決意であったが、岳の顔を見た途端、その気持ちが揺らいで行くのが自分自身でも解っていた。岳は何時もの様な優しい笑顔で改札を出てきた。ただ山小屋での出会いとは違い、垢抜けた服装で、古都の香りに溶け込んでいるかとさえ思える様な落ち着きを持っていた。
「突然で御免ね。」
「うん良いのよ・・・」
二人は短い挨拶の後、駅から公園の方に歩き始めていた。岳と歩く時は何時もこんな感じ、と多恵は高原での散策を思い起こしながら、自分の歩調に故意に合わせてくれている岳の好意に、その時初めて気が付いた。そうか、そうだったのね、あの雪割り草の花畑も、哲人の顔の様な岩へ沈む夕日も。そんな思いが頭の中をかすめる度に、多恵の心は岳への思いで満ちて行った。ただそばに居てくれるだけでいい、でもやはりそれは無理な事なのか。公園の閑静な木立の中、薪能の舞台の近くのベンチに腰を降ろした二人は、静かな口調で話し始めた。多恵は淡々と、自分の病気とそう長くは無い残りの人生について、諭す様に岳に話した。岳は黙って多恵の話を聞いていたが暫くして、話し終えた多恵に
「知ってるよ。薫さんから聞いてるから。その事に関連して随分と薫さんからアドバイス、と言うより説教に近いかな、を聞かされたから。」薫は、二人の共通の知人で、あるNPOに所属し海外を拠点に医療活動をしている女医だったが、共に気の置けない旅仲間でも有った。
「僕はそれでも、君のそばに居たい。」岳のきっぱりとした言葉に多恵は少し驚いたが
「私、何にもしてあげられ無いかもしれないよ。それでもいいの。」岳は黙ってうなずいた。それから一ヶ月程経ってから、二人は国立の終末医療施設を備えた大きな病院の近くで、居間の窓越しに湖が見えるこぢんまりとした洋館へ越した。そこは、ただそばに居たいとの二人の思いを受け入れるかの様に、ゆったりとした時間が流れている場所だった。
由香の話は、本当にありそうな内容を夢の中で聞かされているような感じだった。このベンチに座った、居たかもしれない二人のドラマが強く感じられていた。
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