父が履いたのは【ショートショート】

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父が履いたのは

男、三十六歳、

ついに結婚する事になった。


友人達からの結婚報告も絶え始めた三十三歳の時分、


「もうこのまま独身でもいいか」


と発想転換の中に安寧を求めていた。

日本の法律が結婚をしろと定めているでもなし、

結婚をしなければ腕一本を切り落とされるでもなし。

ならば今享受している日々で十分幸せだと思ていたのだが、

その年に生涯の伴侶との出会いが待っていた。


出張で北海道に向かう道中で電車が気紛れに遅延し、

連鎖的に起こった惨事は予定飛行機への乗り遅れ。

ようやく着いた空港のカウンターで、

効果の有無も判らない遅延証明を見せつつ説明をした。

悪いのは自分ではない、電車が遅れやがって。

怒り混じりの説明をしていると周りの人間まで恨めしく見えた。

悠々とキャリーバッグを引いている女性も、

素早く手続きを済ませて搭乗口へ向かう男性も、

本当なら俺もお前達見たいな優雅な空の旅を送る筈だったと、

こちらにないものを手に入れている者達が憎く見えた。


電光掲示板の発着予定が移り行く様が焦りを駆り立てる。

最終的にはどうにかなるだろうが、

いつ、どうにかなるのだろうか。

この状況から少しでも早く抜け出したいと思っている最中に、

私と同じ境遇の人間がもう一人やってきた。

それが洋子だった。


「あの、もう一人いいですか…」


会社への電話片手に受付と話をしていると、

洋子がそう申し訳なさそうに声をかけて来たのが全ての始まり。

聞けば洋子も電車の遅延に巻き込まれたという。


「どうかもう一人分席を確保できないかな」


同じ不遇が同情を生み、

俺はどうにか洋子も一緒に飛ばしてやりたくなった。


「あ、今予約空きましたよ」

「本当ですか!」

「やったぁ!」


次の便に幸運にも空いた二つの席。

その二つは夫婦かカップルがキャンセルしたのか隣合わせだった。

運命と呼ぶのか因果と言うのか。

洋子と二人、「良かった良かった」と飛行機に乗り込んで、

席に着きシートベルトを腰に回した所でどっと疲れが出た。


「もう駄目かと思いました。本当に有難う御座います」


と言った洋子もスーツ姿。

聞けば同じく出張だと言う。


「いえ、俺は特に何もしてません、

 予約が運良く空いただけですよ」


旅は道連れ世は情け。

二人して疲れた顔だったが笑みが漏れた。


二人して同じ北海道への出張、冬だった。

こんな寒いのに北海道ですかとお互いに労をねぎらい、

やっぱり蟹くらいは食べて帰りたいですよねと思いを巡らし、


「そうだ、もし良かったらご一緒に蟹食べに行きませんか?」


と冗談で俺が言ったら、


「良いですね行きましょう。

 予定どうなってます?」


と目をぱっちり開いた洋子の顔がこちらを向いた。

北海道と言えばカニ。

一人で喰うのも少し物悲しい。

どうせなら誰かと笑いながら突きたい。

そんな短絡的な思考経路がポロっと口から出たのは無意識、

それに快諾の返事が来たので、そりゃあ驚いた。


実際に運良く二人のスケジュールが合ったので、

二人で会う都合を取り付けた。


洋子は声のデカい喋り方をする。それが俺の琴線に触れた。

蟹を食べている時も、


「ごめんね、アタシの声五月蠅くない?

 いつもお前の声はでかいって言われるんですよ!アハハ!」


と笑う洋子の笑顔にハートをぶち抜かれた。

いいよいいよ、もっと笑いなよ。

よく笑う女が俺は大好きなんだ。

酒が余程回っていたのか、その時口が、


「声の大きい子が好きなんだ」


と言おうとしたところ、なんでか、


「好きなんだ」


という言葉しか口から出て来ず、

え?と口を開いて驚く洋子に確認するように、


「好き、好きなんだよ」


と言ったらしい。

酒が記憶の保管を怠らせたが、多分本当の事なんだろう。

なにせ何遍もこの話を洋子から聞かされた。


その出会いから更に三年。

愛を育み互いに生涯の伴侶となるには十分な時間を過ごした。


これまで結婚式に呼ばれる事は多々あった。

参列した結婚式も数えればニ十は下らない。

嗚呼、こんなに他人の結婚式を見て来たんだ、

もう自分の結婚式の予習をしているようなもんだなコリャ。

そんな事を思ったりしたものだがそうは問屋が卸さなかった。


実際に結婚式の準備を進めていくと、

これまでに俺を呼んでくれた友人達の苦労がよく判る。


結婚式の準備で相当疲れる日々を乗り切り、

どうにか当日がやって来た。

参列予定の友人達から「今から行くよ!」と次々に連絡がくる。

それを見て緊張と疲れで弱っていた顔に自然と笑顔が戻った。


そしていよいよ俺の番になった。

なにがって、黒のタキシードに腕を通す順番だ。

今まで俺の友人達が何人も俺を追い越していったが、

いよいよ俺にもその順番が回って来た。


結婚式に出るには相応しい服装がある。

今その全てに身体の表面を任せ、鏡の前に立っている。

すると、結婚の大先輩が一人やってきた。

俺の親父だ。


「どうだ、馬子にも衣裳か?」


とおちゃらけてみせると、


「いや、良く似合っている。」


と言い、

立派になったな、と素直に褒めてくれる。

そんな事を親父から言われたのは初めてじゃないか。

もしかしたら忘れた遠い昔にあったのかもしれないが、

社会人として働き始めて随分と『仕事の記憶』が増えたもので、

もう、そんないつかの記憶なんてどこに閉まったかも覚えていない。


そんな事を思っているともう一人、大先輩がやってきた。

雅也オジサンだ、親父の兄貴で滋賀にお住まい。

遠路遥々祝いに来て頂き有難い。


「おう、幸一君、この度はおめでとう御座います」

「いえいえこちらこそ、わざわざ関西から来て頂いて」

「いえいえ呼んでくれて有難う、よう似合っとるね、立派や」


立派立派と年配の血族に言われ、少しずつ緊張が解けていく。

そんな感覚が体の中から染み渡る最中、

親父と雅也オジサンも挨拶をする。


「この度はおめでとう御座います」


と雅也オジサンが親父に頭を下げ、


「これは、どうも有難う御座います」


と親父が返す。

そのようなやりとりはこの二人の間で見た事が無い。

まるで呪文を唱えているようなやり取りだった。

そんな挨拶の後、雅也オジサンの視線が少しおかしい。


「…おい、和也、それ」


和也とは俺の親父である。

その足元をじっと見つめたまま雅也オジサンが口を尖らせた。


「靴。」


靴がどうかしたのか。

オジサンの言葉に従って親父の靴を見てみると、

それは随分と年季の入った革靴だった。

悪く言えばボロボロであった。

相当履き潰した靴に見える。

それを見た雅也オジサンの苦言が飛んだ。


「冠婚葬祭っていうのはな、

 こうやって挨拶して頭下げるやろ。

 そうすると自然と相手の足元を見るもんや。

 だから足っていうのは飛び切り綺麗にしとくもんやで」


オジサンが暗に、


「なんでそんなボロ靴を履いてきたんや、

 お前の息子の結婚式やろがボケ。」


と言ってるのが俺にも判った。


親父の事は知っている。俺は親父の息子だ。

親父は物持ちが良い。悪く言えばケチ臭い。

どんなに古くなった物でもぶっ壊れるまで使い続ける。


でも親父、これ、俺の結婚式だぜ。

新郎の親として来てるんだろ。

もうちょっとマシな靴を履いてくれよ。


親父が履いている革靴は歴戦の傭兵の如き皺が無数に入っていた。

皺の深い所は表の皮が剥き出しになり、白い綿の様なものがみる。


「まぁ、これしかなかった」


親父がオジサンに返した言葉はそれだけだった。

いやでも親父、新しい靴を買いに行く時間はあったでしょうに。

そう言いかけた言葉を喉元寸前で飲み込んだ。

何せ今日はめでたい結婚の日取り。

わざわざ親族と険悪になる言葉は言いたくない。


そして結婚式が始まり、愛を誓い、

ライスシャワーと祝いの言葉をかけられた。

しかしキスする時も牧師に宣誓する時も、

親父のボロボロの靴が頭の隅にひっかかる。


しかし着々と時間は進み、次に控えるのは披露宴。


いや待て、披露宴だと。これはまずい。

披露宴と言ったら親が各テーブルをお酒を持って歩き回るのでは。

そして御来場の皆々様と挨拶を交わすのでは。

とすると挨拶で頭を下げた拍子に、

あのボロボロの靴を全員が見る事になるのでは?


親父、青山だ。Go to 青山。

今直ぐ新品の革靴を買って来い。

いや、買ってきて下さい。

そんなスラム街のような革靴をこれ以上晒さないでくれ。


俺は余程親父に詰め寄ってそう言いたかったが、

引いては止せて、寄せては引いてやってくる友人達の波に揉まれ、

遠くから親父の行動を見守るしかできなかった。

するとどうだろう、ちゃんと各テーブルを回ってくれるのだ。

あ、あ、皆そんな、挨拶なんてしなくていいよ、

親父の靴ボロボロだからさ、頭下げたら見えちゃうって。

勘弁してくれ。


自分の結婚式だと言うのに親父の足元の心配とは。

そんな事を思いながら勧められる酒をガブガブ飲み、

生理的循環が正常に働いてる証拠に膀胱に限界が来た。

俺の体のアルコールろ過速度はザルもびっくりするほど早い。

今まで新郎がトイレに立つ結婚式は見た事がなかったから、

お色直しが来るまで足を絞ってやり過ごした。


そしてお色直しで会場を出ると足早にトイレに向かった。

おしっこが漏れる。このタキシードは借りものだぞ。やばい。

間一髪の所で放流すると、隣にお義父さんが用を足していた。


「あ、どうも」

「これはこれは」


と笑いながら安堵をする。

では、お先にとお義父さんが便器を離れると、

そう言えば謝る事があるなと思い、呼び止めた。


「すいません、なんかケチ臭い親父で、

 履いてる靴が相当ボロボロで、すいません」


しどろもどろにそう謝ると、お義父さんが驚いた顔をした。


「あれ?」

「え?」

「だって、親父さんの履いてる靴は、あれだろ?」

「あれ?」

「君が送ったものだろ」


なんのことだか、わからない。

おしっこがまだチョロチョロと流れている。


「君のお母さんとうちのが話してるのを聞いたよ。

 今日親父さんが履いてきたのは君が昔、

 父の日に送った靴だろ?」


やっとおしっこが止まった。

それと共に過去の記憶がグルングルンと逆巻き始める。


「すいませんと謝っていたが、良いお父さんじゃないか。

 これからも親孝行、いっぱいしないとね。」

「ど、どうも」


と言ってお義父さんは出て行ったが、

こっちの頭の中は乱れていた。


俺が親父に送った靴。

父の日に?そりゃ何年前の話だ。

記憶をかき分けながら支度室に入ると、母さんが立っていた。


「あれ、アンタどこ行ってたの?」

「母さん。」

「心配だから見に来たわよ、

 アンタ酒弱いのにあんなに飲まされて。」

「トイレ行ってた」

「トイレ?あはは、ちゃんと出してきた?」

「ああ、もうめっちゃ出た出た。」


では、上着を。

そうスタッフの人に言われて袖を抜く。


「なぁ母さん。」

「ん?」

「今日親父が履いてるボロボロの靴って」

「ああ、あれね。

 もういい加減に別のを買ったらって言ったんだけどねぇ」

「俺が父の日に買ったやつなの?」

「そうよー、もう何年使ってるのかしらねアレ。」


もう、何年前の事だろうか。

ネクタイも送った、旅行券もトラヤの羊羹も送った。

父の日のプレゼントのネタが切れ、

もう何を送ろうかと悩んだ時に選んだのが革靴だった。

わざわざ地元に戻って照れる父を引っ張り靴屋に行ったのだ。

多分もう7、8年は前の事になる。


「アンタが父さんに買ったあの靴ねぇ、

 会社に行く時もずっと履いてね、もう見た通り、ボンロボロ。

 アタシは何度も新しいの買ったら?って言ったんだけどね。

 それでもあの人、いや、まだこれを履くんだって。

 終いには今日まで履いてきちゃうでしょぉ?

 私も言ったのよ、ボロボロな靴なんてやめなさいって。

 でもねぇ、俺はこれを履いて幸一を祝いに行くんだって、

 あの人そう言う所あるでしょ?もうきかなくてねぇ。」


スタッフの方達が、俺の身の回りの世話をしてくれている。

俺は何も言わず、ただされるがまま。

母さんの言葉にも、返事はしなかった。


「アンタ、あの靴の事、覚えてる?」

「いや、買ったのは覚えてるけど……。

 あれがそうだとは判らなかった。」

「父さん、アンタを祝いに来たのよ」


そう言って、母は出ていった。


その後、お色直しからの再入場、

新郎新婦の贈り物の交換、

そして新婦の両親への手紙を読み終え、

いよいよ披露宴も幕切れの時が近づいてきた。

出口に新郎新婦、両家両親が立ち並び、

ウチの親父がマイクを手にした。

俺はじっと俯いて親父が履いている靴を見つめた。


緊張で口が渇いているのか、

喋り出して親父の口が唾で鳴るのが聞こえた。


「本日は皆様、

 お忙しい所をお集まり頂き、真に有難う御座います。

 今、新たな夫婦が新しい家庭を築こうとしています。

 その片方は私の息子です。

 昔は随分と手がかかる坊やでしたが――」


改めて親父の足を見ると、靴が教えてくれる。

じっと見ると判る無数の傷、無数のシワ。

どれだけ履き続けたらこのようになるのか、

どれだけ歩いたらこのようになるのか。


「今、改めて見ると、

 あの頃と比べて随分と見違えたものであります。

 惚れた女を幸せにする位には、男になったと思います。

 父親の贔屓目ではありますが、随分と立派になりました。

 しかし、結婚とは、人生の中でまた異質なものです。

 始めるには色んな苦難も付き纏う事でしょう。

 ここにお集まり下さった皆様、どうかお願いがあります――」


親父、この靴、ずっと履いてたのか。

こんなにボロボロになっても履いてたのかよ。

なんだったら新しいのを買ってくれても良かったのに。

足のサイズ、本当にあってたのか?

履き心地は大丈夫だったのか?

買うだけ買って満足しちゃったから、

あんまり気にした事も無かったよ。


「結婚生活という新しい旅の最中、

 この二人が躓くような事があったら、

 どうか、手を差し伸べてくれてませんか。

 結婚とは二人で誓うものですが、

 結婚生活はたった二人で乗り切れるものではありません。

 多くの隣人の手助けが必要です。

 その点、二人は幸せです、なにせこんなにも多くの友人が――」


親父、靴擦れ、大丈夫だったか。

小さくて履き辛くは無かったか。

何も言ってくれなかったよな。

今までずっと履いててくれたのか。


「どうか新しい夫婦の事を、何卒宜しくお願い致します。」


パチパチと拍手の音が聞こえた。

親父が何を話していたのか、半分も聞き拾えたか疑わしい。

ずっと親父の靴と昔話をしていた俺は渡されたマイクを口に近づけ、

最後のスピーチをしなければならなかった。


「御来場の皆様、本日は……っ―――」


会場中の目が俺を見ている。

テーブルに座る客、スタッフの皆さん。

俺と目が合っていないのは洋子と、洋子のご両親と、俺の親だけ。


「お忙しい中、私達の為に来て頂き――」


もう、視線は前を向いている。

しかし網膜に焼き付いていた。

幾つもの皺が、親父の靴の残像が。

いつもは有難うなんて滅多に言わない父が、

俺の送った靴を何年も履き続け、

今その靴を履いて俺を祝ってくれている。


親父、そんなに大切にしてくれてたなら、

一言そうだと言ってくれよ。


これ覚えてるか、

お前が買ってくれた靴だぞ、

履いてきちゃった、


とかさ。

お陰で今になって、こんなに涙が出てきちゃうだろ。


親父が俺の背中を二回トントンと後ろから叩いた。


「――まことに有難う御座います、

 この度、洋子と夫婦になりました。

 これから私達はお互いの―――」


誰のせいだと思ってる親父、アンタはいつも言葉が少し足らない。


本日ご来場の皆々様、

今日は目出度い日だと言うのに、

私の父親が足元の不作法で大変失礼致しました。

しかし、今日という目出度い日に、

何か一つ、主役の片割れである私の我儘が通ると言うならば、

どうかこの父のボロボロの靴の失礼を許して頂けませんか。

これは何年も前に私が父の日に送ったプレゼントで、

親父は今まで風体も気にせず履き続けてくれたんです。

息子である私からの靴だからと履き続けてくれたんです。

結婚式には家にある最高の靴を履いてくものだと思います。


だから父は今日のこの日にこの靴を選んでくれたのでしょう。


お目汚しかもしれませんが、

どうか私と父、親子の愛情に免じ、何卒御容赦下さい。

本日は私達の為に集まって頂き、誠に有難う御座いました。



有難う親父。

今度また、

一緒に靴を買いに行こう。

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