第2話 取捨

 目覚めた瞬間から、尋常ではない倦怠感と頭痛とともに、そこが自分の部屋ではないことがわかる程度には意識があった。

 どうやら俺は、俺が働いていたカラオケルームの一室に仰向けで寝かされていたらしい。カラオケ用の大型モニターの電源は三台とも落とされている。部屋の内装と広さでわかる、ここはパーティーなど大人数での利用に使われる21号室だ。


 完全には冴えきっていない脳裏で、ぼんやりと思い出す。


 熱を帯び不規則に吹く風。赤黒い体躯をした異形。死んだ人間の表情。腹を貫かれる衝撃。死を覚悟した後の感情。そして、蒼白い光とともに姿を見せた青年。

 意識が戻ってなお、死の間際に見えた走馬燈が思考を埋め尽くしている。


 俺は今、生きているのか?


 俺はまず、ここが天国なのか地獄なのかを確かめるべく起き上がった。

 「……うお」

 俺は、裂かれたはずの二の腕、そして深く貫かれたはずの腹に傷跡が全くないことに気づいた。

 「これは……」

 死んだんだな……たぶん。

 どれくらいの時間がたったのかはわからないが、あのレベルの傷が跡も残らず治るなどあり得ない。それくらいは、大きな怪我など殆どしたことのない俺でもわかった。

 俺はふやけた顔で立ち上がると防音扉を押して外に出た。

 「うわあっ!」

 すると、目の前に水を張った平皿を持った白瀬が立っていた。

 「水野さん……!起きたんですね!」

 「あ、ああ………………」

 白瀬がいる……?のは、現実か妄想かを判断する材料にはならない。

 「よかった……!本当に、よかった……」

 白瀬は心底ほっとした様子で胸をなで下ろしている。

 「……俺は、生きてるのか?」

 俺は白瀬を見てはじめて、改めて頭が混乱するのを感じた。

 「生きてますよ!!生き延びられたんです、あの化け物から。水野さん、魔法使えたんですね!」

 そう白瀬は言った。

 化け物。魔法。確かに、そうなのかもしれない。

 俺の記憶通りのことが起き、俺たちが生延びているこの状況を説明するとしたら、白瀬が魔法と思うのも無理はないかもしれない。

 「えっと…………火事が起きて……避難することになって」

 俺は白瀬に、どれが夢幻でどれが本物かを確かめるべく聞く。

 「はい。私はお客さんを誘導してて、気付くのが遅れて怪物に襲われました。そこに、水野さんが来てくれて」

 「ああ。覚えてる。その後のことなんだが」

 俺は核心に触れる。

 「俺の持ってたカードから、あー……変わった格好の女の子が出てきて、あの怪物を倒した……で合ってるか?」

 「そうです。怪物を倒した瞬間に水野さんが意識を失っちゃったんですけど。ケガの手当とか、建物の消火とか全部ひとりで、あの魔法使いの人がやってくれました」

 「そうなのか。…………」

 俺の持っていたカードから、『聖法師団の修導師』が現れ、俺たちを救った。端的に説明すれば、そういうことなのだろう。

 「でもその魔法使いさん、全部済んだらすぐ消えちゃったんです」

 「…………」

 白瀬曰く一通り安全が確保できた後、「彼女」は、まるで3D映像の電源が切れたかのようにいなくなったという。

 「そこからは、丸一日水野さんが眠ってたので、私どうすることも出来なくて…………」

 白瀬はそう途方に暮れたように言った。

 ということは、俺が視たことは全て事実。現実。この身に起きた、本当のこと…………ということだ。

 「…………ありがとう。状況は分かった。から、これからどうするか考えようか……」

 こういうとき、どう過ごしていくのが正解なんだろうか。外にはまだ、こちらの生命を脅かす生物がいるのか。食糧はあるのか。水は。ガスは。電気は。

 「そうですね……。私は、家族の安否を確かめたいです。携帯が繋がらなくて」

 白瀬が不安そうにそう言った。ああ、そうか。確かに家族の安否を確認しないことには


 「…………花穏」


 俺は一瞬で顔から血の気が引くのを感じた。

 「え?」

 「妹を、探さないと」

 状況が整理された瞬間、俺は妹の存在を思い出した。

 俺には花穏という妹がいる。花穏はまだ中学生だ。そしてなにより、花穏は目が人よりも不自由だった。今逃げ延びられているとしても、ここから先状況が変わった場合に逃げ延びられないかもしれない。

 世田谷中が火災に包まれた時、時刻は16時過ぎだった。花穏は部活で中学にいたはずだ。両親が一緒にいるとは考えられない。


 俺が行かないと。


 俺はふらつく思考を無理矢理奮い立たせ、カラオケの機械の上に丁寧に畳んであったパーカーを羽織った。鞄は壊れている。持って行ける物は限られる。俺はズボンのポケットにスマホを、パーカーのポケットにデッキを入れた。

 「待ってください、まだ起きたばっかりですし……傷の状態も分からないですし!」

 「いや、行かなきゃ…………あ」

 俺はそこまで言いかけて、ここで俺がひとりで飛び出したら白瀬を一人ここに残していくことになってしまうということに気付いた。家族が心配なのは、俺よりもそうかもしれない。

 にも関わらず、白瀬は俺が目覚めるまで待っていたというのか。

 「………………」

 俺はどうすべきか考えた。妹を探しに行かなければならないが、白瀬をないがしろにできるわけがない。


 「………わかった。じゃあ、白瀬の家族から探そう」


 「え、でも」

 「俺が起きるまで看病させて足止めさせたのもあるし、そもそも一人でこの状況で行かせられない」

 「…………」

 白瀬は少し逡巡している様子だったが、すぐに俺の顔を見て言う。

 「…………身体は、大丈夫なんですか」

 俺はその言葉に、身体を軽く振ったりジャンプしてみせた。

 「全然平気だ」

 「じゃあ、…………すみません。お言葉に甘えさせてください。起きたばっかりで申し訳ないですけど」

 「いや、俺のせいで時間も経っちまってるし。家族は、ご両親だけか」

 「………とりあえず」

 「場所の目星は」


 「両親、二人とも中学の教師なので。松成中学校です」


 「……待て、松成中?駅向こうの?」

 「?そう、ですけど」

 俺は心の中でその巡り合わせに苦く笑った。

 「松成は、俺の妹が通ってる中学だ。目的地は……一緒だ」

 「本当ですか?それなら…」

 「行こう。なるべく離れないで着いてきてくれ」


 俺と白瀬の頭には、ここで助けを待つという選択肢はなかった。


 俺の言葉に、白瀬は無言で頷く。

 白瀬が手早く手荷物を纏めるのを待って、俺は窓から外の様子を伺う。怪物がうろついている様子はない。

 しかし、いかんせん世田谷の駅前のビル群だ。死角も多い。

 「…………怪物がいるかもしれない。見つからないように物陰を___」

 俺は意を決して、店舗のドアの施錠を外して外へ出た。

 「ッ!?」

 「!!」

 店を出た直後だった。全身が黒一色で覆われ、鋭利な刃物を携えた人型のモンスターがこちらを見ていた。

 「……!!っく!店の中に戻れ!」

 俺は急いでデッキケースの留め金を外し、急いでデッキの中身を確認する。

 (あんなモンスターは知らない……「アルスマグナ」をリリース当初からやっているのに、知らないカードがあったとは…)

 俺はどんな能力を持つ敵でもある程度柔軟に戦えそうなキャラクターカードをピックアップして、地面に叩きつけようとした。確か、『聖法師団の修導師』を召喚したときは、こうやって…

 「…出てくれよ……!召喚アサルト……!!」


 「ま、まて!水野!!」


 すると、そのナイフ男から、聞き覚えのある声が聞こえてきた。

 俺はカードを右手に持った状態のまま固まる。


 「……櫛名、か?」


 階段の下で待ち構えていたのは、アルスマグナのモンスターではなかった。

 

 彼は櫛名楓賀くしなふうが。同じアルスマグナプレイヤーで、俺を蔑まない数少ない人間だ。俺とは違い、浪人して大学を目指している。今年で三浪目になると聞くが、勉強をしている気配は一切ない。六年付き合っている彼女の大学と近いから、という理由だけでわざわざ自宅から遠い予備校を選んでいる。多分今年も志望校には受からないだろう。


 「よう。無事だとはな」

 「…………そんな格好で薄暗いとこに立ってたら驚くだろうが」

 「悪かったって。お前、駅前のカラオケでバイトしてるって言ってたろ。この辺かな、と思って辺り見回したら出てくるんだもんよ」

 櫛名はカードを咄嗟に取り出した俺を見て思うことがあったのか口を開いた。


 「お前も、んだな」


 「出た、っていうと……」

 「カード。アルスマグナだよ」

 この口ぶりから察するに、櫛名も「出た」のだろう。

 「……話しが早いな。出たよ」

 「まさか、親に泣かれ続けてきた趣味に身を助けられる日がくるとはな……」

 俺と櫛名は少しそう話すと、嫌でも神妙な面持ちになった。

 「……聞くべきかどうか……」

 「なんだよ、言えよ」

 「……いいのか、こんなとこに来て」

 俺の質問の意図は「ほかに行くべきとこがあるんじゃねえのか」という意味だったが。

 「……その質問は、無粋」

 「……ごめん」

 櫛名は空気が重たくならないようにか、嫌に明るい口調で言った。

 「無事な人はどれくらいいるんだ」

 「今ここには俺と、さっきの女子高生。だけ。彼女はアルスマグナをやってない。カラオケバイトの同僚」

 俺は白瀬を呼ぶと、二人を引きあわせた。

 「櫛名楓賀だ。俺と同じで、アルスマグナ……魔法が使える。たぶん」

 「紹介に預かった櫛名だ。ま、適当に呼んでくれ」

 「白瀬暖花です。よろしくお願いします!」

 俺は知り合い同士が繋がることに不思議な感慨を感じながら、その様子を見守った。知り合いと呼べる知り合いがここ最近ではいなかったから、というのもある。

櫛名は心配していなかったが、白瀬がいつもと変わらない笑顔で櫛名を受け入れたことに少し安堵した。

 「んで、お前らどこに行こうとしてたの」

 「俺の妹と、白瀬のご両親を探しに中学まで」

 「そういうことか。なら、急いでたのも納得だな。俺も行くよ」

 「え、でも」

 「どうせお前を探しに来たんだし、助け合ってかねえと生きてけねえよ。二人より三人の方が視野を広く持てるだろ」

 「……それもそうか……いや、ていうか確かにそうだな。ありがとう」

 櫛名のそんな申し出に、俺は甘えることにした。




 _________________




 朝から何も食べていないという櫛名と俺は、カラオケの厨房にあったナッツ類を中心に食べ歩きながら状況を整理する。


 櫛名合流後、櫛名も怪物に襲われたときの一回しかユニットの召喚に成功していないとのことだったので二人で召喚を試した。だが、カードからは何も現れなかった。身を守る手段は現状櫛名のちっぽけなナイフのみ、ということになる。


 とにかく細心の注意を払い、いざとなれば狭い道へ逃げ込めるようなルートで妹と白瀬の両親のいるという中学へ向かう。かく言う俺も、松成高校を中退しているのだが。

 元松成学園の生徒である故に、道と松成中の構造がある程度分かる俺を先頭、戦力として換算できるだろう櫛名を後尾につけ、白瀬を挟む形で慎重に歩く。だがその警戒とは裏腹に、駅を超えて学園前の通りまで何事も無くやってくることができた。


 「あれが、松成大学だ……」


 大学前の通りから、慎重に中をうかがう。


 「うわ……」

 「これは、な……」


 まず眼に入ってきたのは、校門の隣に配置されている用務員室だ。

 ガラスの窓は壊され、後ろの壁にべったりと黒く放射状に飛沫が飛んでいる。あれが血なのは、状況から考えて自明だろう。そして、図書館前に生えていた立派なマツの木だが、こちらは根本から真っ二つに折れていた。


 「………………」


 何かしらパワータイプのユニットがいた、もしくはまだいる、と考えるべきだろう。『ホロウグラウス』の炎のように、明確に敵がいるという兆候があればいいのだが、そういった現象に加え物音なども全くない。火事があった形跡もないことから、別のデッキテーマのモンスターが現れたことは分かった。しかし、恐ろしいほどに静まりかえっている世田谷の街からは、何がそれをもたらしたのかまでは分からない。 


 「……行くしかないわな」


 櫛名が、俺と白瀬を軽く押す。

 松成大はあまり学生数自体は多い大学ではないが、付属の学校機関が幼稚園から存在するため内部の人間の数は多い。花穏と白瀬の両親が生きているとすれば、その中等部だ。

 「ただ、ひとつ問題がある」

 「なんだ」

 「中等部に行くには、大学の中庭と大講堂への道を通らなきゃいけないんだが。中庭は広く開けているし、大講堂へは横幅の広い一本道だ。死角があまりない」

 どんなに身体を小さくして進んでも、視覚が優れている敵だった場合に見つかる可能性がある。そこだけこれまで以上の警戒が必要となるだろう。いざとなれば屋内に逃げ込めるよう、壁伝いに歩くことも必要かもしれない。

 「…………なるほどな」

 「ここさえ抜けてしまえば木が結構生えてて死角になるところが多い。慎重に行こう」


 ひとつ息をついて、俺たちはぴったりとくっついて校門を抜けた。


 「人も、いねえな。流石に……」

 限りなく控えた声で櫛名が言う。

右手に大学棟を見、左手に大学食堂を見て歩いて行く。食堂は電気が落ちていて中の様子はよく見えないが、人が居ないことを除けば変わったことは特にない。

 食堂を抜けると、右手にテニスコートを残しさらに開けた広場となる。テニスコートは金網で仕切られているだけなので、限りなく死角がない。最も危険地帯と言えるだろう。


 俺は振り返り人差し指を口に当てると、姿勢を出来うる限り低くした。


 「…………」

 音は立てないように、早足で進む。櫛名が元々黒い服装で、俺と白瀬はバイトの黒の制服だったので、これがどう功を奏すか。少しでもカモフラージュになってくれ…………と願いながら、俺は先頭で五感を研ぎ澄ます。

 (見えた)

 大講堂の横にある、細い石の階段。あそこを下って大学体育館の脇を抜ければ、中学棟だ。そこからは、人が一人すれ違えるかどうかの細い道。ほぼ死角となる。ここにさえたどり着いてしまえば、多少安全ではある、か。


 「!、!?」


 突如、後ろから口を押さえられた。俺はできうる限り動揺を身動きに出さず、ゆっくりと振り向いた。

 「………………」

 見ると、俺から手を離した白瀬が大講堂の左側を指さしていた。俺と櫛名は釣られるようにそちらを見る。



 「!…………。……」



 見れば、『ホロウグラウス・ヴァンデット』の2倍ほどの体躯をした白い生き物が、地下へ下る階段に逆さにしがみついていた。


 その口元が赤く汚れている。


 「っ………………」

 俺も櫛名も瞬時に気づいただろう。あれは、『フライングスクリーム』というデッキに入っているモンスターユニットだ。

 あの特徴的な大きい耳に加え、頭の上からカタツムリのような触覚が生えているのを見るに、中級ユニットの『フライングスクリーム・エアライズ』だろう。1年前、最上位を独占していた強力なデッキに対して有利に戦えるという理由で、一部のプレイヤーがサブウェポンとして持っていたデッキだ。


 『フライングスクリーム』には、設定があった。


 おぼろげな記憶にあるフレーバーテキストによると、


 『巨大なコウモリのような体格で、普段は一切の音を立てない。羽や眼が退化したのは、その発達した聴覚以外が狩りに不必要になったからだ』


 という説明があった。

 聴覚の発達、引き替えに視覚の退化。



 つまり気をつけるべきは、音。



 音だけを気をつける。

 音、だけでいい。はずだ。



 「……」

 

 俺は櫛名と眼を見交わす。すると、櫛名もひとつ大きく頷いた。

 進もう。

 「……」

 俺はスマホで「些細な音も立てないで」と文を打ち二人に見せて、背筋を伸ばして視界を広くした。『フライングスクリーム』なら、音が立たないのも納得だ。他のデッキテーマのユニットは居ないと割り切り、大講堂の横の細い階段を降りる。


 落ち葉が鬱陶しい。ところによっては、俺は落ち葉を手ですくって脇によける。後ろの二人も息を潜めているのが、気配すらないことから分かる。


 「………………。…………」


 自分が唾を飲み込む音すら大きく聞こえる気がする。


 さっきの『フライングスクリーム・エアライズ』よりもずっと近い位置に、『フライングスクリーム』の下級ユニットがセミのように木にしがみついていた。


 距離にして、10メートル。

 引き返すことも考えたが、こんな環境に花穏と白瀬の両親がとらわれている可能性がある限り、進むしかない。

 音さえ立てなければ、大丈夫なはずだ。階段の死角にそれは居たのだが、慎重に降りてきた俺たちに気づいている様子はない。

 大学体育館の横の道。その距離、25メートル。

 最近になってコンクリートで舗装されたそこを、落ち葉を除けながら進む。徐々に距離が遠ざかっているはずなのに、滴る汗は粘りけがないままだ。

 大学体育館が視認できるところまで来た。

 ここまで一切の音無く来られている。

 大丈夫。

 慢心もない。

 ……



 慢心はなくても、防ぎようの無いこともある。




 「。!」

 足下にばかり気を取られていた俺がそれに気づくのは不可能だった。


 


 左側に立っていた木から、俺たちが近づいてきたのに気づいた小鳥が羽ばたいた。

 瞬間。




 「………………」

 「……………………!!………………!」

 「………………」




 目の前に、俺たちの二倍の身長を持つ白い巨体が一瞬で現れた。その左手の鉤爪の中で、一瞬小鳥がもがいたのを俺は視認した。俺は現実逃避もあっただろう、先程まで目の前の異形がいた場所を振り向いた。何もいない。身じろぎ一つしていなかったアレが、小鳥の羽ばたきひとつでここまでの距離を詰めたというのか。20メートルはあった。直線距離にしても、いくつもの木々がその行く先を阻んでいたはずだ。



 目の前の光景を見て、俺たちがだれも声を上げなかったのは奇跡なのか、あまりにも現実離れした光景に、身体が反応しなかったのか。



 異形は、俺たちと向き合った状態で口をあけた。不気味なほどに無臭な吐息が、顔にかかる。奴は突き刺さった鉤爪を木から音もなく引き抜き、そのままその小鳥を口に含んだ。


 それが咀嚼を終えるまで15秒もなかっただろうが、俺は意識を強く保つのに必死だった。あの距離で鳥の羽ばたきと木々の擦れる音とを聞き分けた生き物が、俺たちの呼吸音、心音を聞き取れない保証はないのだ。


 左手で口を塞ぎ、右手はデッキの入っているポケットに添える。咀嚼を終えても目の前から動く様子のないそれを見たまま、俺たちは動けない。

 早く遠くへ行ってくれ。


 そう願ったまま、3分ほどが経った。



 「…………」

 ポケットを押さえる右手に、手が触れた。振り返ると、小石を持った白瀬が俺を見ていた。

 「……」

 俺の想像が間違っていなければ、白瀬は意図的に音を立てることを考えたのだろう。これを逆方向に投げて音を立てることが出来れば、確かに意識を反らせるかもしれない。


 「……」


 俺は櫛名を見た。投げるのなら、最も距離の遠い櫛名が投げるべきだろう。リスクを受け入れてくれるか、意図を理解してくれるか。

 櫛名はひとつ頷いた。石を受け取り、投げ込むべき場所を思索している。すぐさま櫛名は、体育館の入り口を示した。俺と白瀬はそれを見て、ひとつ頷く。


 (頼むぞ……)


 俺は櫛名の手元から目を離し、体育館の方へ目を向けた。なるべく遠くに投げることが必要だ。櫛名の狙いが上手いことを祈る。

 櫛名はノーモーションで、投擲音も風切り音も立てずにその手から石を投げた。


 「!」


 その石は俺の予想より遙かに早く飛んだ。山なりに投げるものだと想定していた、櫛名の意図とは違う軌道を予想していた。


 櫛名の投げた石は、体育館の金扉を目指していたようにみえたが、かすかにずれて体育館の窓ガラスに直撃し、高い破砕音を響かせて粉々にした。

 瞬間移動とも思える速度で割れたガラスの窓枠にはりついた『フライングスクリーム』は、その窓枠をコンクリートごと砕いて中へ入っていく。

 成功だった。これを逃す手はない。俺は一度振り返り指で先を示すと中学棟への道を歩き出した。



 直後だった。



 「…………まさか」

 櫛名がひとつ呟いたのに被さるように、男子生徒と思われる絶叫が響いた。加えて、鈍く聞こえる打撃音。


それらが、次々と連鎖していく。



 「水野さん、これ……」

 間違いない。


 体育館には、身を隠していた避難者がいたのだろう。


 「…………助けに行かなきゃ………………!!」

 白瀬が踵を返した。


 「待て………………!!」

 一瞬でもほっとけば体育館に入っていきそうな白瀬の腕を、俺は強引に掴むしかなかった。

 「水野さん…………!でも、このままじゃ…………!!」

 「お前が行って、俺たち三人が行ったとして、何が出来る!!」

 俺が言い終わるより前に、凄まじい物音に無数の異形が空から体育館へと飛び込んでいく。



 喧噪が、どんどんと大きくなる。



 白瀬はそれを聞いても、俺の目を見ても、腕を引っ張ろうとする。


 俺の頭は嫌に冷静だった。

 俺は白瀬を強引にこちらへ向かせると、肩を揺さぶりながらすごむ。



 「…………白瀬、ご両親は運動部の顧問をされてたか?」



 「!………………」

 白瀬は俯いて答えない。俺の質問の意図を悟ったのだろう。

 「一秒以内に答えてくれ。いち」

 「…………手芸部と軽音学部です」

 白瀬はじわりと目に涙を浮かべながら答えた。

 奇遇だった。花穏も軽音学部だ。よく楽器をキャリーに乗せて部活に行っていた。

 「…………俺たちの目的は」

 世田谷がアルスマグナのモンスターユニットによってめちゃくちゃになったのは、時間にして16時頃。その時間に大学体育館に花穏がいる道理は、ない。運動部の顧問ではない白瀬の両親が居る理由も、ない。


 それを聞いてようやく、白瀬は腕を引くのをやめた。


 「行くぞ」

 俺はそれ以上そこには居られないと、あくまで音を立てないように早足で歩き始めた。

 「水野………………」

 「意図的に召喚スカウトが使えない俺らには何も出来ない」

 櫛名も白瀬も、ここまで言っても、少し俺に付いてきては歩を止める。


 「でも……!これじゃ。俺のせいで…………!」

 「…………。……」

 俺は振り返って櫛名の眼を見るだけにとどめ、すぐに歩き出した。

 体育館の壁に取り付けられた窓ガラスに血飛沫が舞う。

 「…………!」

 「それにもう、…………残らない」

 血を見て俺は少し視界がぐにゃりと曲がった。それでも、体育館の喧噪が、初めより収まり始めたのをはっきりと確認した。

 「………………」

 「……もう、分かるだろ」

 俺は低く呟いて歩を進める。青ざめた白瀬と櫛名も、もう何も言わずに着いてきた。きっと、俺も彼らと同じ顔色だったと思う。

 まもなく、大学体育館は静まりかえり、俺たちは校舎へとたどり着いた。

 


__________


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