第1話 弱きは肉へ、強きは食らう

これは夢だ。


なぜなら俺は今日まで、高校に通わなくなりアルバイトとカードゲームだけをして暮らしていた、ただのフリーターだったからだ。


これは夢だ。


目の前で、かつてのクラスメートが目を見開いて息絶えているのも、だから嘘だ。


これは夢だ。


この先ずっとフリーターでも、カードゲームでずっと遊んでいられれば、それでよかった。




っていうか、そのはずなんだ。

だっておかしいじゃないか。

俺はこの世田谷で、ただ生き辛そうな顔をしながら生きていただけなんだ。

ただ少し、人よりもカードゲームで遊ぶのが好きなだけの、ただの17歳だ。

普通の話だ。日常がそこにあるだけのはずなんだ。



なのに世界は、一瞬でその有り様を変えてしまった。

きっかけもなく、ただ、残酷に。



_______________


街が、真っ赤に燃えていた。



見える世界全部が、火柱に包まれている。

向かいのコンビニも、同業他社のカラオケも、有名チェーンの居酒屋も、音漏れの酷いパチンコ店も。


道にある黒く焼け焦げたものが人型に見えた気がして、俺は慌てて顔を背けた。


「__________!!……________!!」

客の一人が叫び声をあげた。

その声をきっかけに、俺が避難誘導してきた客が出口に雪崩れ込んだ。

「ちょっ…………」

あまりの人の勢いに、俺は前のめりに倒れこむ。

「くそっ……なんだよ…………」

俺が悪態をついて顔を上げると、非常階段の方からもドタドタと複数の足音が降りていくのが聞こえた。


「なにあれ!!なんなのあれ!!_____!!______」

「喋ってないで、いいから走れ!!!!見ただろ!!」

客のそんな言葉が耳に入ってくる。あまりの血相の変わりように、俺は次に何をすべきかわからなくなった。


「……!」

俺は無我夢中でインカムのコールボタンを押し、バイトリーダーに連絡を取る。

「リーダー、リーダー!聞こえますか!」

『水野くんか、もう逃げられたか!!』

「まだです、リーダーは!!」

『君も早く逃げなさい!駅前はもう危ない、逃げ道がなくなってる!公園の方へ向かいなさい!』

「え!?ちょっ……、先に逃げたのかよ……!」


俺は抱えていたパーカーに急いで腕を通して両手を自由にすると、再びインカムのボタンを押す。

「白瀬さん、どこにいますか!!もう逃げられましたか!!」

俺はインカムで、バイトの先輩である白瀬暖花しらせののかに繋ごうとした。

『おお、そうだ!水野くん、白瀬ちゃんのことは頼むよ……!』

「!?一緒じゃないんですか!?」

『すまないが、自力で逃げ__________ング』

「リーダー、?」


バイトリーダーからのインカムが不自然な途切れ方をした。

少し待っても答えはない。


「ちょっ……おい!!」

俺がどれだけ声を荒げて呼んでも、もうバイトリーダーから答えが返ってくることはなかった。

「くそっ」

リーダーはともかく、白瀬からも返事がない。先ほどの非常階段側の客とともに逃げていればいいのだが、俺が見た限りではあの中にはいなかった。

「クソ!!白瀬さん、店内ですか!店内にいますか!!」

やはり、返事はなかった。


俺は外へと飛び出す。

視界に入るものすべてが赤い。

さっき目に入った黒く燃える塊が目に入るのが怖くて、通りの方は見られなかった。


俺は一心に非常階段を駆け上ることしかできなかった。


「白瀬さん!!いますか!!」

逃げ延びていればそれがベストだ。

俺の杞憂であったら、どんなにいいか。

ただなんらかの理由で、逃げ遅れているのならば、

ここで確認せずに見捨てて逃げるほど、俺は人間を捨てたつもりはない。


足をひたすらに前へ出し、階段を駆け上がる。

すると、二階の踊り場に来たところで俺は見た。

「なんだよ、これ……」

炎の赤とは違う、赤黒いものが非常階段の柵にへばりつき、周りには絵筆を弾いて飛ばしたような跡を残して、赤い液体が踊り場の床に広がっていた。


どう見ても、血だった。


客同士で押し合った時に転んで怪我をしたのだ、と即座に推測し即座に否定する。あまりにもおびただしい量の血だった。

「……」

俺は息をのんだ。

何が起こっているのか、知りたくもなかった。


あの柵にこびりついている物が、よくスーパーで見るバラ肉によく似ているあれが、もしなのだとしたら、だとしたら。


この大規模な火事が、前触れもなく起きたこの火事が、日常では考えられない理由で起きたのだとしたら。



俺の想像を超えた何かが働いているとしか、思えなかった。



「……」

上に何があるか、確かめなければ。

そこに白瀬が残されているのなら、助けなければ。

走った。

三階分の階段は、あまりにも短く、それでいて長く感じた。

俺の顔から上が、踊り場の高さより上に出る。


「………………………………」

そこに白瀬は確かにいた。


「…………!白瀬さん、大丈夫ですか!」

おかしなことに、床に倒れ伏し、身体を庇っている。

俺は、最後の一段を蹴飛ばした。

「………………」




なんだ、これは。

なにがどうなれば、こんなことになる。

さっきまで、いつもと代わり映えのしない生活の、その一部だったじゃないか、




非常階段を登り切ったそこは、空まで赤く染まりきった情景と、燃えさかるビルの臨場感が嫌に美しく見えた。

「…………冗談だろ」

視界の真ん中に、ひときわおかしなことが起きていることを、俺はもう認めるしかなかった。



いや、おかしなものが、



「……………………なん、で……」

安全柵の上に立ち、翼を小刻みに振るわせ、その黒く沈んだ二つの瞳で眼下の白瀬を睨め付けている、その生き物。

赤黒く、爬虫類のような皮膚をし、体の表面を隆々とした筋肉の筋が走っている。そして、大きく尖った、鉤爪と嘴が、何かで濡れててらてらと光っていた。


そして、その鉤爪に貫かれている、血だらけの人間。


首がとれかけていた。今もなお、その切り口からしとしとと血が流れだしている。下半身がなくなっている。

学生だろう、千切れたワイシャツが鮮血で染まっている。

ちょうど腹のあたりが、真っ黒に焼け焦げている。

だらりと重力に従って踊り場に垂れているものが、まるで巨大なウインナーソーセージのように見えたが、そう見えるのはあれがそもそも人間の内臓だからだろうか。

その怪物に貫かれている人間の顔が目に入ってしまった。


「……おい、……。………嘘だろ」

それは紛れもなく、俺が高校を辞めたきっかけになり、辞めてなお俺をオモチャにしようとバイト先まで冷やかしに来た虐めグループのリーダーだった男だった。


死んだ人間の、死んで間もない、

いや、

違う、

殺されて間もない人間の顔を見るのは初めてだったが、あんなにも純粋な驚きに満ちた表情をするものかと、俺は怖くなった。

血で赤く染まった皮膚に対して、瞳孔の開ききった目が余りにも真っ白で、不気味で、鮮烈だった。


抵抗の余地を一切与えずに俺を叩きのめしていた男が、呆気なく命を奪われていた。


死体に釘付けだった視線を、俺はその怪物になんとか移す。


俺は、その怪物がなにか、知っていた。

子供の頃、図鑑を眺めるのが好きだった俺は、初めて行った動物園でホワイトタイガーを見て、「図鑑で見たことあるのと一緒だ!」とひどく興奮したものだ。

そのときの感情と、似ている。




なぜなら、

繰り返すが、

俺は目の前の怪物を、知っていたから。

ったから。




「ホロウグラウス・ヴァンデッド………………」




その異形は、俺の遊んでいるカードゲーム『アルスマグナ』に登場するキャラクターの姿をしていたのだ。

(攻撃力も体力もさして強くないけど、相手のユニットを無条件で破壊するアビリティが強かったな……それまで不遇だった炎属性にとって、革命的なデッキだった……)

あまりにも現実離れした光景に、余計なことを思い出す。余計なことばかり、思い出す。

当時、『ホロウグラウス』というデッキに対して徹底していた対策法や、温存すべき手札、通してはいけない攻撃とか。

相手が強かったぶん、着実に勝ちを重ねられていた当時は嬉しかったっけ。


俺の思考は、完全にのぼせきっていた。

「あ、……」

その異形の足下で倒れ込んでいた白瀬が、こちらを見てひとつ呻いた。

 


「…………水野さん……!」



名前を呼ばれた瞬間、一気に頭がクリアになった。

俺がはっと我に返ったのと、その怪物がうなり鉤爪を振り上げるのはほぼ同時だった。


「やめろ!!」


俺は咄嗟に、身に着けていたインカムを剥ぎ取るとそれに投げつけた。

フォン、という音をたて飛んだそれは、まっすぐにその鱗のような皮膚へ飛んだ。

注意をそらすことくらいはできたようで、振り上げられていた鉤爪がそれを払うように横に薙がれた。

「……!」

怪物が、こちらを見た。

目が合う。

そのあまりの凄みに、俺は一瞬で足がふらつくような感覚に襲われた。


現実なのか?これは。本当に。


いたずらにしてはあまりに出来過ぎている。

誰かが起こした作為的な事件なのだとしたら、悪趣味が過ぎる。


なんにせよ、人の命を少なくともひとつは奪っている生き物の、その「狩り」の標的になったことだけはなんとか理解した。


理解しても、それはあまりにも、現実味を帯びない。

直後、ブルルルルルルルル!!というそれの雄叫びが、俺の鼓膜を貫いた。

「………………っ!」

あたり一帯に響き渡る叫声が、俺の足下の金属製の階段から俺の脳天までを激しく振動させる。


動物が動物を殺そうとする殺意を、俺は明確に感じた。

それが本能なのだとしたら、逃げよう、と俺が思ったのもきっと本能だと思う。

だが、俺の本能は恐怖を伝えるだけで、明確なその後の行動を取れない。

考えることもままならない。完全に思考は麻痺していた。


そして、獲物を見つけた捕食者が、標的を待つ理由もない。

バケモノは一度翼を大きく開くと、足下の白瀬を無視して俺に飛びかかってきた。


「…………あ」


俺は咄嗟に避けることもできず、抱えていた鞄で身を庇うことしかできなかった。

すさまじい風圧と風切り音とともに、手にしていた鞄ごと俺は二の腕を深く切り裂かれた。

そのまま、俺は床を激しく転がる。

「いっ……おあ…………」

薙がれた切っ先から、線を描いて血が飛び散る。

二の腕を、動脈を横切るように斜めに裂かれていた。

俺の傷口から飛び散った血液は、綺麗に俺が吹っ飛んだ軌跡にしたがって弧を描いて跡を残していた。


そして、俺が身体をひねり見上げると、目の前にバケモノの嘴があった。

「は…………」

それは肩口を大きく上下させ荒く息をついており、その嘴から漏れた呼気のクラクラするほどの激臭に、俺は意識を暗転させかけた。

束の間、目の前で再び放たれた怒声に、俺は現実を直視せざるを得なくなる。



ブルルルルルルルルル!!!

ブルルルルルルルルルルルルルルルルル!!!



「…………お前、……」

そんな声だったんだな。知らなかったよ。


だって俺はお前のことを、イラストと能力しか知らないのだから。


俺は、朦朧とした意識でそんなつまらないことを考えることしかできなかった。



そして、死ぬんだと思った。



わけもわからず理不尽な仕打ちを受けるのは久しぶりだったが、自分らしい最期だなと思わない訳ではなかった。

思考が現実逃避を始める。

けしていい人生ではなかったが、好き放題暮らしてきた天罰にも思えた。



いや、死ぬなら。

この状況が現実味を帯びる前に、せめて。

とは違う、というところを誇りたい。



死ぬ意味を持ちたい、なんて中学生の言うような戯言を、思ってしまった。


「…………俺に構わず、逃げろ!」

俺は遠くで倒れ伏す白瀬に向かって叫んだ。

今なら奴は俺に意識を向けている。逃げるなら今しかない。

白瀬はそれを聞いて、一瞬逡巡した表情を見せたが、ふらつきながらも足を引き摺って店の中へ消えていく。

よかった、と思った。

俺みたいなどうしようもない人間には、囮になって誰かひとりの逃げる時間を作れただけで僥倖だ。

俺がなまじ白瀬にとって感じのいい人間だったら、逃げるのをためらわせてしまったかもしれない。はじめて自分のコミュニーケーション能力の低さ、感じの悪さを褒めてあげたいと思った。


白瀬を見送った俺は時間を稼ぐべく、恐怖でぐらぐらと揺れる視界に映る怪物を見据えた。

「……来いよ………」

俺は腕を庇いながら後ずさりをした。少しでも、白瀬が逃げる時間を稼げればと思って、その一念のみで俺は気を保った。

それを見た怪物は、獲物を逃がすまいと一度大きく吠え猛った。

そして、その身体をこちらへ走らせた。

俺は目を見開き、衝撃を待った。







「          」







小学生のとき運動会の騎馬戦で、騎手を務めたことがあった。

身体が大きくなかった俺は、敵の騎馬とぶつかる度に感じたことのない衝撃に晒された。


そのときの感覚に似ている。


案外、痛みはそこまでない。

しかしすぐさま、猛烈にこみ上げてくるものが喉元を埋め尽くすのを感じた。

たまらずそれを口から吐き出すと、それはおびただしい量の血だった。当たり前か……と嫌に冷え切った思考で思いつつも、追って訪れたあまりの気分の悪さに俺は横向きに倒れ込むしかなかった。


意識が急速に薄らいでいく。


「アルスマグナ」にネット対戦の環境が整ったとき、夢中になってオンラインに潜り続けた。20時間ほどぶっ続けただろうか……ほぼ負け知らずの俺だったが、細かいミスプレイがかさみ、集中力がなくなったと感じたとき、さすがに寝ることを決めた。そして、本当に落ちていく感覚とともに眠ったものだ。


そのときの感覚に似ている。


こんな風に落ちていくのなら、こうして痛みも続かず死ぬのなら、悪くはない。


まばたきをひとつ、した。


「はははは……ごぶ、……………………は……はは」


そのまま目を閉じてしまうのは、全部終わってしまうような気がして、

それがどうにも寂しくて、

目を開けて空をあおぐ。


そこには、今まさに俺の息の根を止めるべく、鉤爪を振り上げている、よく知ったカードゲームのキャラクターがいた。

かつての敵の姿。幾度となく対戦を重ねた、仇敵きゅうてきのありありとした実体。


きっと、俺はそいつに、もはや懐かしさすら感じたのだと思う。


俺は、消え入るような声で言った。



「何千回何万回と、殺して悪かった………………」



俺はそこでついに、目を閉じてそのときを待った。

「……」



しかし、先ほどのような衝撃は、すぐには訪れなかった。

「?」

不思議に思った俺はもう一度世界を見ようと、瞼を持ち上げた。

そこには、鉤爪を振り上げた格好のまま硬直するモンスターの姿があった。

こちらをじっと見たまま、微動だにしない。

「……どう、いう………………」

俺はこの理解の追いつかなさが、奴の行動の不明瞭さからくるのか、自分の意識の曖昧さから来るのかももうわからなかった。

その数秒が、やけに長く感じた。



しかしその数秒が、どこから起因したのかわからないその数秒が、運命を歪めたのは確かだと思う。



ブルルルルルルルルルルルルルルルルル!!!

怪物は、我に返ったように、先ほどよりいっそう狂乱した様子で叫び声をあげた。

そして再び俺を見据えると、その鉤爪を振り上げる。

刹那。


怪物の頭の部分をなにか長いものが薙いだ。

「……離れて………………!」

見れば、白瀬がフライヤーの廃油を清掃するためのモップを持って立っていた。

先端から、松明のように火柱が上がっている。

「水野さん、しっかり!大丈夫です、救急車も、消防車も、警察も!呼んでおきましたから!」

「………………な……ん」


なぜ、と言いたかった。

なぜ、逃げなかったのか、と俺は驚愕した。

なぜ。俺が身を挺して稼いだ時間を使って、この女は。


「私は大丈夫です!さっきはお腹を蹴られちゃって、動けなくなってただけですから!」

白瀬はそう言い放つと、モップを握り直しバケモノを見据えた。

お前が大丈夫とか、救急車とか警察とか、そういうレベルの話じゃないことは明白だった。

そんな程度の手を打った程度で、この状況を打開できるとでも思っているのか。


ブルルルルル!

怪物は短く吠えると、俺を串刺しにしようとしていた鉤爪の背で白瀬を払った。

「ゃあっ…………!」

白瀬はなすすべもなく、踊り場に転がされる。

凄まじい勢いで張り倒されたのが遠目からでもわかる。身体を強く打ち付けられたのだろう、苦しそうにしている。


だから逃げろと言ったのに。

このまま白瀬が殺されれば、俺も犬死にだ。

彼女を逃がすことで、人を一人逃がす時間を作れたことで、これが俺の人生の意味なのだと、納得しようと思ったのに。


最後の最後まで、この人生になんの意味も持たせられず、俺は無意味に、無力に死ぬ。

最期の最期まで、思い通りに行かない。


あんまりだ、と思った。そして、白瀬のあまりの愚かさを呪った。



「くっ……!」

白瀬は転がされてなお、火の付いたモップを不格好に構えて立ち向かおうとしている。

バカだ。

きっと彼女は、お人好しなんだろう。

だから、来る保証もない助けを呼んで、あげく非力なその足で立って、俺みたいなのを庇いに来た。

でも、お前ごときになにができる。

それにそいつをどうこうしても、俺はもう腹を串刺しにされている。

意識も曖昧だ。

どちらにせよ、もうすぐ死ぬのだ。


バカすぎる。


俺は、じりじりと白瀬ににじり寄っていく怪物と、足を震わせながら逃げようとしない白瀬を交互に見た。


俺はそのあまりの不格好な光景に、おかしささえ覚えた。


俺は、あのモンスターが炎を扱う生き物であることを知っている。

だが、そんなことさえ彼女は知らない。

当たり前だ。

あれはカードゲームのキャラクターであって、現実世界に存在する生物じゃあないのだから。

でも、ここまでこの状況に身を置いて、気づくことも出来たんじゃあないか。

腹の焼け焦げた死体を見なかったのか。身体から火が出るバケモノに、火で対抗しようとは普通ならなくないか?



絶望的すぎて、俺は悲しくなった。

今から俺は、俺を必死で助けようとした女の子が殺されるのを見たあと、死ぬ。



「……ああ」



人が殺されようとするところを見て、

死、を客観視してしまってはじめて、俺は後悔を覚えた。




未練は、ある。




世界中の「アルスマグナ」の強豪プレイヤーたちと、戦ってみたかった。俺の実力が世界でどこまで通用するのか知りたかった。

カードゲーム以外に、人に負けないと思えるものはなかったから。

でも、今、ひとつ増えてしまった。

目の前の人を、助けたかった。

目の前の人一人の、身代わりになりたかった。




もう、かなわない。

「…………あ」

首をもたげていることすらできなくなった俺は、がくんと一気に脱力し下を向いた。

朦朧とする意識の中で、切り裂かれた鞄からはみ出すデッキケースを見た。

落ちた衝撃で留め金が外れたのだろう、カードが何枚か床に散らばっている。




俺がカードゲームを始めたときから試合をともにし続けた、『聖法師団せいほうしだん』というテーマデッキ。




どんなに自分を否定されても、このデッキを眺め、調整し、使っていると心が落ち着いた。

あらゆる負け試合を、持ち前の反撃性能で覆してきた。


その相棒とも言えるデッキが、日の目を見ることなく、俺は死ぬ。


「残念だなあ……。………………」

俺は手を伸ばし、一番手前に落ちていたカードを拾う。

「…………お前かよ……………………」

そのカードは、『聖法師団の修導師しゅうどうし』というキャラクターカードだった。

俺が最も酷使し、信頼してきたカード。言わば「切り札」だ。




そんなカードを、奇しくも最期に一目見ることができた。



「へへ、この状況…………、お前が手札にいてくれたらなんにも、怖くねえじゃん……。お前なら、あんな雑魚、……一瞬で無力化できるもんな……。…………」



いつ、どんなときでも俺を救ってきた。そんなカード。

俺は、数メートル先でもう一度吠えた『ホロウグラウス・ヴァンデッド』を見、そして手の中にあるカードを見る。


「なあ、…………」

俺は半ば意識をホワイトアウトされながら、カードに語りかける。

「よかったらさ…………、……もう一回、いつもみたいに俺を、…………助けてくれないか?」

ぱちりと音を立て、俺はカードを踊り場の床に置いた。

消えかけた意識が、現実と妄想をまぜこぜにし始めたのにも、俺はもう気づかなかった。

ただ俺は、ばかげていると思いながらも、期待したかったのだろう。

裏切られ続けてきた人生で、最も信頼したものに。

突如訪れた不条理に、唯一対抗してくれるかもしれないものに。



この不条理がカードから来るなら、奇跡だって、カードから来てもいいじゃないかと、

俺はそう思った。

そう、期待したのだ。



口から出た言葉は、祈りのようで。






召喚スカウト……『聖法師団の修導師』!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る