第五章~四日目
(旅行四日目)
「ねえ、あなた、起きて」
まだ薄暗い中、昨日と同様清は和子に揺すり起こされて目を覚ますと、そこには三日振りに八十六歳の元の姿に戻った和子の姿があった。
眠い目をこすり体を起こした清は、自分の顔を触って着ている服を見た。この動作はここ三日で新しく出来た、清が目を覚ました時のくせになっていた。
顔には皺が戻り、手の平で触る肌の感触はたるんでいた。服はいつも旅行の時に持っていくグレーのズボンに白いシャツを着ている。和子が本来の姿、普段の着替えとして用意してくれていたものだろう。
このミステリーツアーでは寝ている間に服を着替えさせてくれるのはある意味便利なのだが、服に若干寝じわがついたままでいることが難点だった。和子も良く見なれたグレーのオーバーブラウスに黒のスカートを履いているが、清より寝相がいいからだろうか。不思議と彼女の服には目立った皺が見えない。
十代の和子も可愛かったし三十代の彼女も綺麗だったが、やはり今目の前にいるのが清には一番落ち着く本来の和子の姿だった。決して可愛いとか美しい姿ではないがこころ和ませるのが現在の和子である。
家は昨日と同じで勝手知ったる自分達の住み家であるし、昨日の朝にもここで姿が変わってしまったという経験を済ませてある清達は、素早く置き手紙で、
― 北海道に帰ります、ありがとう、マナブ、ケイより、
とだけ書いて、昨夜に飲んだお酒によって爆睡している翔太と美咲を起こさないよう、こっそりと裏口から出て早足で駅に向かった。昨日と同じく、清達の匂いを嗅ぎつけたケンが表で吠えていたが、なんとか二人は誰にも見つからずに家を出ることができた。
まだ暗い夜明け前、まだ気温も低くわずかに吹く風が冷たく感じる。昨日の朝のように最寄り駅に向かって身の回りの荷物を持って二人は歩いていたが、清の体は重かった。
急に七十代の病気持ちの体に戻ったせいだろうか、胃にも痛みが戻ってきていたが、和子に心配させてはいけないと清は黙っておいた。二人はゆっくりと、そして静かに一歩一歩踏みしめるように駅へと向かう。
街灯が照らしてくれている道すがら、和子は昨晩の翔太達の言葉が頭に浮かんだせいか、急にため息をついた。
「翔太や美咲があんな風に思っていたなんて知らなかったわ。あなた。ごめんなさいね、病気のこと黙っていて。私が一番臆病だったのかも知れないわ」
とぼとぼと歩く和子に、清はわざと大きな声をだした。
「いいよ、その事は。逆の立場だったら俺も和子と同じことをしたかもしれない。和子に余命後半年だなんだと俺の口からとてもじゃないが言えないと思うからな。だからもういいよ。ただ、帰ったら恵子達と話し合って俺にちゃんと告知するように言ってくれ。いやこの旅行中にお前から告知したって話にしとけばいい。そうすれば翔太達も少しは肩の荷が下りるだろう」
「そうね。翔太は特に優しい子だから。辛かったのね、黙っていることが。申し訳ないことをしたわ」
まだ落ち込んで肩を落とす和子に、清は腕を抱きよせて今度は囁くように小さな声で伝えた。
「俺はな。今嬉しいんだよ。死を悲しむ、という気持ちを自分の大切な子供や孫に見せられることが判って嬉しいんだ。人の死を心から悲しむ気持ちがあれば、人の命を軽んじることは無いだろう。ましてあの子達は今後、自らの命を絶つようなことはしないと思うんだ。あの子達は戦争を知らない世代だから人の死、というものは身近な人達からしか感じられなくなっていて、死というものから遠ざかっている世代だと思うんだ。死や病気、老いというものはどうしても人が生きていくうえで避けられないものだし、そこから目をそらして人は生きてはいけない。だから人の死というものが残された人に悲しい思いをさせるものだ、という事を心から感じ取ることが大切だと俺は思う。人はそうやって命を大切にできると思うんだ。そんな死を見せられることができると思えるだけで、俺は死に甲斐があるってもんだ」
和子は清の言葉に何度も何度も、そうね、そうだよね、と呟きながら大きく頷いていた。
美咲は戸惑っていた。翔太とは物心ついた頃から一緒にいて、本当に兄妹のように育ってきたのだ。いや、今思えばそれ以上の関係だったのかもしれない。
小学校に上がるまでは二人で一緒にお風呂にも入っていた。お互い自分の好きな子のことを言い合って相談したこともある。中学の時などお互い恋人を連れて四人でデートをしたこともあるのだ。
初体験の話なども正直に話しあったことがある。異性を知ったのは翔太の方が早かった。翔太は昔から女性に人気がある。優しくて、でも頼りがいがある翔太は中学二年の時、一つ年上の女の人に告白されて付き合い始め、その人を自分の部屋に呼んだのだ。中学に入ってから恵子が働きに出ていたので夕方遅くまで美咲達の家には誰もいなかったから、翔太はよく彼女を家に呼んでいた。
そんな翔太を美咲は軽蔑した時期もあった。それでも美咲が中学三年生の時に自分が思いを寄せていた男の子に告白されて付き合うようになり、彼の家で経験を済ませてからは、美咲と翔太の関係もまた変わる。二人は自分達の友達にさえ言えないような恋人との性の話などの恥ずかしい話を相談しあったりするようなった。
美咲はあくまで頼りがいのある、そして一番の自分の理解者である兄、として翔太を見てきた。おそらく翔太も美咲のことを大切な妹として想ってくれていたはずだ。そんな二人がお互いを意識し始めたきっかけは、父の誠がうつ病にかかってしまってからだ。
誠が会社に行けなくなり、入院までしてしまった頃、一度誠が美咲に
「お父さんがいつまでもこんな状況だったらお母さんにも翔太にも迷惑がかかる。そうしたらお父さんはお母さんと別れるかもしれない。その時は美咲もお母さんと翔太と離れなければならなくなる。その時は覚悟しておいてくれ。すまない。こんな情けないお父さんでごめんな」
そう泣かれてしまった時はあまりの衝撃に頭の中が真っ白になった。そんな事を美咲は考えたことがなかった。恵子と、そして翔太と離れ離れになるなど想像すらできなかった。
それでも美咲はしばらくして誠の言葉の意味をあらためて考えた時、真っ先に思ったのは翔太と離れたくないという強い思いだった。母である恵子との別れもそうだが、それ以上に翔太と一緒にいられなくなると考えただけで美咲は涙があふれて止まらなかった。そんな自分に美咲は驚いたのだ。
悩んだ挙句、翔太に相談することにした。
「お父さんが自分の病気を苦にして、お母さんと翔太にも迷惑がかかるから離婚するかもしれないって言ってる。そうしたら私はお父さんと一緒にこの家を出ることになって、翔太とも離れることになる」
目に涙を浮かべながら翔太に告げると、胸を張って美咲の頭を撫でながら言ってくれた。
「オヤジとオフクロが別れようが別れまいが俺達には関係ない。いざとなったら俺が美咲を養ってやる。学校なんて今すぐ辞めて働いたっていい。だからそんなバカなことは心配しなくていい」
それからだ。美咲がなんとなく付き合っていた彼氏と別れたのも、翔太を異性として意識し始めたのも。偶然なのか、翔太も同じ頃に付き合っていた彼女と別れた。そしてそれから言い寄ってくる女性を翔太はことごとく振ってきた。今まで翔太は別れても次々と恋人になりたいと告白してくる女性が後を絶たず、彼女がいない時期がほとんどなかったにもかかわらず、だ。
美咲が翔太を意識し始めると、翔太もどことなく美咲を意識し始めているような気がした。それでもなんとなく二人が一緒に暮らしている間は一線を超えてはいけないと美咲は自分に言い聞かせてきた。
それでも美咲は今日の朝、眠っている翔太にキスをしてしまった。
マナブとケイという北海道から来たカップルが隣の祖父母の家で泊まっていき、朝目覚めると二人は姿を消していた。
その事を教えようと翔太を起こそうとした美咲だったが、酔っ払ったまま良く寝ている大好きな彼の寝顔をじっと見ていると、無意識の行動に出てしまったのだ。気づいたら翔太の顔に美咲の唇は吸い寄せられるように近づき、ちょっと汗ばんだ頬に触れてしまった。
我に返った美咲は、慌てて祖父母の家を出て自分の家に戻り部屋のベッドに潜り込んだ。大変なことをしてしまったと胸は張り裂けそうに鼓動が激しく、息をするのも苦しいほどだったが、徐々に息を整えていくうちに柔らかい翔太の頬の感触が蘇ってくると美咲はとても幸せな気分に浸ることができた。
お昼近くになって、ボサボサ頭のまままだ寝むそうに家に戻ってきた翔太は
「なんだよ、美咲! マナブとケイちゃんが手紙を置いて出て行っていないと思ったらお前まで居なくなってるし、布団はたたまずにそのままにしてるわ、飲み食いした後片付けもしないで一人帰ってるわっておかしいだろ。まだ片付け残ってるから爺ちゃん達が帰って来るまでお前、片付けをしといてくれよな」
昨日のお酒が残っているらしく、頭を痛そうに抱えて文句を言っている。これから翔太の顔をまともに見られないと心配していた美咲は、そんな彼を見て思わず吹き出していた。
「何が可笑しい?」
不機嫌そうに、そして不思議そうに美咲を見つめる翔太に
「何でもない。ごめんね。私、ジィジ達の家に戻って後片付けしてくる」
そう答えた。しばらくはこんな関係が続くのだろう。それでもいい、と美咲は思っていた。
ツアーの集合時間は午後の二時。場所は最初に集まった新宿のバスターミナルだ。
「これからどうする?」
「どうしましょうか」
これからの行き先も定まらないまま、清達は最寄りの駅前にある二十四時間営業で開いていた牛丼屋の朝定食を食べ終え、同じく開いているファーストフード店に移動し、コーヒーを注文して時間を潰していた。
荷物は一旦駅のコインロッカーに預けて身軽にはなっているが、色々なことがあったこのツアーで二人とも少し疲れてしまった感がある。それにこれからどこかに行くにしても集合時間までのことを考えると、それほど遠くに行くこともできない。
それに今日は土曜日だ。集合場所の新宿に近い都心は大勢の人でごったがえして騒がしく、元の体に戻った清達には体力的に辛いものがある。
「神社にでも行ってみるか」
清がポツリと言った。和子は何のことか判らず聞き返してくる。
「え? 神社? どこの?」
店の窓から少しずつ明るくなり始めた空に浮かぶ白い綿雲を眺めながら、少し顔を赤らめて答えた。
「あそこだよ、ほら、あの」
清が口にした神社の名前を聞いて、和子は微笑んで頷いた。
「いいわね。あそこなら静かで緑も多くて気持ちがいいし、今日なんか散策するのにはもてこいかもね」
今日も空には晴れ間が広がり、天気もよさそうで気温も高く暑い一日になりそうだ。清達は店を出て、郊外の神社に向かう電車に乗った。そこには五十年前に清と和子が結婚式を挙げた神社があるのだ。
駅からほど近いところにあるその神社は、厄除けまたは縁結びでも有名だ。広い敷地に樹齢千年ともいわれる銀杏の大木もあって多くの緑が生い茂っており、武蔵野の森にふさわしく様々な鳥が生息していている。
風薫る五月の爽やかな朝、木々の隙間から射す日差しを避け、参道に並ぶ杉の木の影の中を清と和子はゆっくりと歩いていた。ひんやりとした清々しい空気が境内を流れている。石畳の脇にある砂利道を二人が一歩一歩踏みしめる度に、ザッ、ザッと心地よい音が静かで神聖な空間に響く。昨日までの慌ただしい時間が嘘のように、ゆったりと流れる時を清達は楽しんでいた。
「やっぱり歳かな。こういう静かで穏やかな方が落ち着くよ」
和子も清に賛同しながら答える。
「しょうがないわよ。昨日までの三日間が特別なんですから。でもそれだけじゃないと思うわ」
「それだけじゃないって?」
「ここは私達にとって特別な場所ですもの」
和子はそう言って門をくぐったところで目の前にそびえ立つ拝殿を見上げた。
この神社は清と和子が幼い時代を過ごした遊び場でもあり、戦時中の空襲から逃れるための避難場所でもある思い出深いところなのだ。神社があったせいなのか幸いにしてこの地域は空襲などからも逃れられ、長い間、古き良き街並みが残っていた場所でもあった。
とは言ってももうあれから七十年以上経ったこのあたりも今はすっかり新しい街に変わっている。今住んでいる場所に家を建てる前までは、清達もこのあたりで長く暮らしていたのだ。人生の半分以上はこの土地で生きてきたのである。それでも清達がこの神社に訪れるのは約二十年振りのことだった。
「そうよ。思い続けて七年。やっと清さんと一緒になれたんですもの」
このツアーの不思議な一日目の夜、和子が清に言った言葉が頭の中に浮かんだ。
幼い頃から病弱だった和子が少しずつ元気になって外に出るようになったある日、この神社でのお祭りで和子は清と出会い一目惚れをしたのだった。和子が十五の時だ。
そしてその七年後、たまたま親戚の付き合いの関係で清は和子とお見合いをして偶然にも結婚した、という事になっている。清は和子のことはそれまで全く知らなかった、和子に会ったこともほとんど何も覚えていなかったことになっていた。実際はそうではない。清もまた和子に出会って彼女が運命の人だ、と強く感じていたのだ。
「俺はお前とここで会ったことを覚えているよ。七十年以上前のお祭りの日、気分が悪くなって木陰で苦しんでいるお前に助けを呼んだことも」
清が突然口にした、結婚して六十年余り黙っていた初めての告白に、和子は立ち止まり驚愕した顔で清を見ていた。
「あの時のお前を見て、俺はなんて色が白くてかよわくて、そして可愛い子だと思ったことか」
「本当なの? あなた、覚えているの? なぜ? どうして、いま」
興奮して問い詰める和子に、清は照れ笑いをしながら少し怒ったように白状した。
「あの頃は恥ずかしくてそんなこと言えなかったんだからしょうがないだろ」
本当にあの頃の和子は肌の色が白かった。病弱で外に出ることもほとんどなく、長く家の中で過ごしていたから当然だったのかもしれない。そんな和子を見て清は今まで見たことのない女性に心奪われたのだ。
真夏の日差しが強く、陽が高く上るお昼過ぎのことだった。清は七十年余り前のあの日、この神社のお祭りで友人達と大騒ぎをした後、一休みするために人混みから逃れて木陰で涼もうとしていた。
昔のお祭りは荒っぽく、怒鳴り声を上げて走り回る人々や喧嘩をする若いも数多くいた。出店なども今の祭りとは違い、芝居小屋や大道芸人も数多く集まり、賑やかなんてものではない。祭りという非日常のイベントは、数少ない楽しみであり、盛り上がりも半端なものではなく、日頃の憂さを晴らすかのような激しい熱気が漂っていた時代である。
その時清は杉の木の根元に苦しんで横になっている一人の女の子を見かけた。周りには誰もいない。その女の子一人だった。
「どうした?」
駆け寄った清が尋ねると、女の子は胸を抑え苦しそうに喘いでいる。顔色が真っ青だ。女の子は薄目を開けて清の顔を見て何か喋ろうとしていたが、言葉にならないほど激しく息をしていた。
「待ってろ、すぐ人を呼んでくる!」
清は走ってその場から離れ、大急ぎで拝殿の裏にある待合場所に飛び込むと大声で叫んだ。
「医者を呼んでくれ! 早く! 胸を抑えて倒れている女の子がいるんだ!」
そこは祭りの間に何かあった場合に備えて人が集まっている場所だ。
清はこの神社の祭りには何度も参加しているため、何かあればここに来て人を呼べばいいことを知っていた。以前友人が怪我をした時もここに担ぎ込んだことがある。そしてここで待機している医者に手当してもらったのだ。
幸い今回も待合場所に医者が待機していた。清はすぐその人の腕を引っ張り和子の元に連れていった。他にも数人の大人達が後を付いてきた。
その医者は、倒れている女の子を見ると驚いた顔をして
「かずちゃん、和子ちゃんじゃないか! 大丈夫か、おい、私だ、しっかりしろ!」
そう呼びかけて、持っていた救急用の医療道具の入ったバッグの中からなにやら薬と容器を取り出した。そして容器を清に差し出しながら指示した。
「おい水だ、水を用意してくれ! これに汲んで来てくれ」
清は容器を受け取ると、慌てて神社の水汲み場に走り容器に水を入れて戻った。医者にそれを渡すと、倒れた女の子にバックから取り出した薬を口に入れて水を含ませて飲ませた。清が水を汲みに行っている間に誰かが荷車を運んできたようで、大人達がそこに女の子を乗せると病院に引っ張っていった。
後で判ったことだが、その医者は和子が胸の病気でお世話になっているかかりつけの医者だったようだ。そのため彼女はすぐに適切な処置をしてもらったため大事に至らずに済むことができたらしい。
和子はその日、体調が良くなったからと友人と神社にお祭りを見に来ていたようだ。普段は寝込んでいることが多く滅多にお祭りなど参加したことのなかったため、はしゃぎ過ぎて楽しんでいる間に友人とはぐれてしまったらしい。
そして人混みから離れて迷っている時に、もともと弱い心臓がまた痛み出し倒れてしまったのだ。祭りの騒々しさとその興奮に、和子の心臓はついていけなかったようである。
清は和子が乗せられた荷車の後を付いて病院まで行ったが、病状が安定して今はゆっくり寝ているから問題ないと医者から説明されると安心してまた神社に戻り、友人達と合流した。
「清、どこ行ってたんだ? 探したよ」
友人の一人が清に言う。
「ごめん、ちょっと急病人がいて、その付き添いをしてたもんだから」
「病人って、清の知り合い?」
「いや、たまたま会った子なんだけど」
「何? 女か! 可愛かったか! おい!」
大騒ぎする友人に清は
「子供だよ、子供。そんなんじゃないって」
と、咄嗟に嘘をつく。
「何だ、子供か」
その話題はそれっきりになったが、清はいつまでも和子の姿を思い出していた。色の白い綺麗な子だった。周りでは見たことのない、清楚な女の子。清は異性を意識した初めての出来事だった。これが初恋でもあった。
一方の和子は病院で目を覚ました後、
「先生、私を助けてくださったあの方は?」
と医者に尋ねた。
和子も命の恩人である清のことを一目惚れして、助けてくれた人の名前、つまり清のことをかかりつけの医者から色々と聞きだした。医者も近所に住んでいる子供だった為、知っている範囲で伝えたそうだ。この時代には個人情報保護法なんて無粋なものは無い。
一方清も和子のことを一目惚れしていたのだが、お礼が言いたいと清の家を和子とその両親が訪ねてきた時も、恥ずかしくて友人と約束があるといって家をでてしまい、まともに顔を見ることなくそっけない態度を取ってしまった。そんな時代だったのだ。いや、ただ単に清がそういう性格だっただけかも知れない。
その後も清のことを思い続ける和子は、健康上の理由もありしばらく独身だった。近い町内のことでもあり、清もその事は知っていた。だから清も恋愛をせずにそれまで一人でいたのだ。それは当時体も弱く、将来子供も産めないかもしれない女性との結婚は、親や親戚が反対することを清は理解していたからだ。
清は次男だったがそれでも女性は子供を産んで家庭を守る、健康的な人が良いと当然のように言い聞かされていた。実際、清の兄が結婚する時などは大変だったことを思い出す。たいした家でもないのに、田端家を継ぐだのなんだのと言って、兄嫁はたいそう苦労していた。清が二十歳、兄が二十三歳、兄嫁が二十一歳の時だった。
そこで清は兄がすでに結婚し、自分が次男だという事をうまく利用し、仕事で忙しいことを理由にずっと結婚を避けることにした。そして清が二十六を超えた頃、そろそろ結婚しないとまずいと清の母親が焦り出す。当時男はもう二十六にもなればとっくに結婚をしていた人が多かった。
だからこれ以上婚期が遅れると相手もいなくなってしまうと親戚も騒ぎ出したのだ。現にもう清の周りの年頃の女性はすでにほとんどが結婚していた。そこで体が多少弱くてもいいだろうと、同じように結婚に行き遅れていた和子の所に清との見合い話が持ち込まれたのである。
これは清にとって人生で一番大きな賭けであり作戦だった。ある程度歳を重ねていけば、相手に体が弱いという条件があっても自分も結婚が遅れている男という事で釣り合いが取れる。そして時期が来たら自分から和子に申し出に行こうとまで決めていた。
そのため和子がそれまでに誰の所にも嫁に行かないよう、清はただただ祈るだけだったのだ。それまで和子に下手に接触すると変に疑われてしまい、話自体が壊れてしまうと考えていた。実際はそれだけではない。なかなか自分から交際を申し込む勇気が無かったとも言える。
「和子との縁談の話が持ち上がった時、飛び上がって喜んだのは俺も同じだったんだ」
結婚式は和子の方の強い希望もあり、また清もその意向に賛成したため、二人の縁があるこの神社で式を挙げることになった。結婚後、しばらくして和子は実をいえば、と清への思いを告げられた時、清は二人の結婚は運命だったのかもしれないと強く感じた。
それでもこれまで和子に自分の思いを告げなかったのは、また告げられなかったのは、和子の体のことがあったからだ。自分と結婚できたからといって心臓の弱い和子を本当に幸せにすることができるのだろうか、と日々悩んでいた。
事実、恵子をお腹に身籠った時、和子は命をかけて出産することになったのだ。またなんとか恵子を出産して和子の命も助かったとはいえ、しばらく心臓に不安要素を抱えたまま過ごした彼女の無事を清はこの神社に何度も祈った。縁結びだけでなく医療法やおまじないの神様をお祀りしているこの神社に、清は和子には内緒で何度も足を運んだのだ。
「そんなこと、私に一言も言ったことが無かったじゃない」
清の話を和子は信じられないという顔で聞いている。二人は神社の中を歩き始めていていつの間にか、あの日和子が倒れていた、清と初めて出会った杉の木の下に辿り着いていた。
七十年余り経った杉の木は、あの頃よりずっと太く逞しくなっていたが間違いない。忘れるはずがなかった。あの時、この場所で清は和子に出会ったのだ。生い茂る杉の葉の間から陽の光が洩れ、木陰を照らしている。あの時はもっと日差しが強かった。今は柔らかい日差しが日陰を通り抜ける涼しい風をほんのりと温めている。
そこで和子と正面から向き合った。
「俺はこのことをやっとお前に話すことができる時が来たんだ、と思っている。俺は怖かった。体の弱いお前と結婚して、俺は本当によかったのか、お前を幸せにできるのかと苦しんだこともあった。お前を心臓の病気でいつか失うんじゃないかと恐れていた。でもやっと言える。ありがとう。俺はお前と一緒になれて幸せだった。お前と初めて会った時からずっと好きだった。いろいろあったが、それでも六十年余りお前と暮らすことが出来た。そしてお前を先に失うことなく、俺の最後をお前やそして恵子達、そして孫達にまで看取ってもらえる。幸せなことだ。お前には悪いがやはり死ぬのは男が先だ。それがいい。自分が悲しい思いをするのは嫌だからな」
そう言って笑った。和子はむせび泣き、肩を震わせている。清はそっと和子の体を抱きしめた。何十年振りだろう、こんなことをしたのは。恥ずかしかったが自分の胸で泣く和子の体の温かさを感じ、幸せな気持ちに浸っていた。
木陰に涼しい風が吹き、熱くほてった二人の体を優しく包んで冷やしてくれる。鮮やかな木々の緑が清の潤んだ目を和ましてくれる。もうここに来られるのも最後だ。来年の今頃にはもう清はここにいられない。それでも清は満足だった。もう思い残すことはない。後はただ、和子と残りの日々を穏やかに暮らすことができれば。
集合時間の三十分前に清達はバスターミナルに着いた。清達と同様にすでに集合しているツアーの参加者達が何組かいる。
多くが清達と同様に元の老人姿で佇んでいたが、一部には若い服を着たままの参加者もいて、あのおかしな関西弁を使うおばちゃんバスガイドのゴンちゃんを囲んで何やら話をしていた。
清達が近づくと、ゴンちゃんが気づいて声をかけてきた。丁寧な標準語だった。
「あら、キヨちゃんとカズちゃんは元の姿でお戻りになられたんですね。どうでしたか? ツアーは楽しんでいただけましたか?」
言葉は優しかったが、初日にいきなりつけられたあだ名で呼ばれたのには抵抗があった。そんなことはさておいて、清は思わずゴンちゃんに問いかけた。
「楽しんだといいますか、実に不思議な体験をしましたが、このツアーは一体」
「ああ、皆さま不思議に思われていると思いますが、詳細はバスに乗ってから改めて説明しますので今はもうしばらく時間までお待ちください。申し訳ございません」
と清の質問は一切受け付けないといわんばかりに、ゴンちゃんはばっさり言葉を切った。
他の人も説明をしてください、とか若い姿の人々は元に戻ることができるんですか、と色々聞いていたが、大丈夫ですから、詳細はバスに乗ってからお話し致しますから、と同じように質問には一切受け付けないようであった。
もっと先に着いて同じようにあしらわれたグループは、すでに諦めて離れた所に固まって参加者同士で体験したことの報告なのか意見交換などをしているようだ。清達はそのグループからも少し離れた所で立っていると、一組の老夫婦が清達に向かって歩いてくる。どこかで会ったような、そんな気がしていると、
「田端さん、ツアーはいかがでしたか?」
神田辰雄、幸子夫妻だった。ツアー二日目に銀座のお寿司屋で会い、清が若い頃飲み屋で知り合った、和子と同じ心臓に病気を抱えていた幸子と、そのご主人だ。清達と同じように二人は六十代の元の姿に戻って集合場所に来たようだ。
今回、その幸子が末期のすい臓がんで余命半年といわれて最後の旅行としてこのツアーに参加したとあの時は言っていた。
「良いツアーでしたよ。神田さん達はいかがでしたか?」
清が聞き返すと、二人は顔を見合わせて笑った。そして
「ええ。本当に思い出深い旅行になりました。いい冥土の土産ができたと喜んでいます」
幸子が清に向かってそう答えた。二人の幸せそうな顔を見ていると、この不思議なツアーで清達同様いい体験ができたのだろうと推し量ることができる。
「そうですか。それは良かった。そうだ。あの時は事情があって言えなかったんですが、実は私も胃ガンでもって一年、おそらくあと半年の命だと言われているんです。でもこの旅行で何の心残りも無くなりました。本当にいいツアーに参加できたと私達も喜んでいたんですよ」
そう言うと神田夫妻は絶句し、幸子は口に手を当てて驚いていた。
「そんな、そんなことが……」
幸子が目に涙をためて絞り出すような声で呟くと
「何を言っているんです。あなたと同じですよ。泣くことはない」
清は神田夫妻にかいつまんで、病気のことを隠されていたこと、実は自分は知っていたこと、このツアーでそのことがばれてしまったこと、それでも娘夫婦や孫達と話ができ、和子と一緒に若返って過ごしたこの旅行は素晴らしかったことなどを説明した。神社での話は恥ずかしいため、やめておいた。
清の説明を受けて、神田夫妻もうん、うんと頷きながら安心したような表情を浮かべている。おそらく似たような体験を彼らもしたのだろう。
「皆さまお待たせしました。バスが到着しましたので、並んで順番にお乗りください。皆様が全員揃っているか確認しますので入り口でご自分のお名前を言ってくださいね」
バスガイドのゴンちゃんが大きな声で集まっている参加者に呼び掛けた。知らない間にバスがすでに到着している。清が時計を見ると、集合時間の十分前だった。
ツアー参加者はバスの乗り口の前に並び、順番に名前を名乗りながらバスに乗り込んでいく。清達も自分の名前を言ってバスに乗り込み、席に座った。どんどん人が乗り込んでいく。見ると全員がすぐに揃ったようだ。五組ほど若い人のままで乗り込んでいる参加者がいる。
「皆さま無事全員お揃いになりました。お疲れ様でした。それではバスが出発します」
マイクでゴンちゃんがそう言うと、バスが走り出した。行きと全く同じ状況だ。窓はカーテンで閉められている。しばらくバスが走り前の席からアイマスクが回ってきた。行きのバスの中でつけたものと同じものだ。
このアイマスクを取ると知らない間に意識を失い、目を覚ますと代々木公園で十代の若い格好をしていたことが遠い昔のことのように感じられたが、それもたった三日前のことなのだ。
「それでは、皆さま、アイマスクをはめてください。元の姿に戻っている方もそうでない方もお願いいたします」
ゴンちゃんの言う通りに乗客が全員アイマスクをつけると、また静かなクラシック音楽がバスの中に流れはじめた。外からゴーッと大きな音が聞こえる。行きと同じように、おそらくバスがまたどこかのトンネルに入ったようだ。
すると再びアイマスクの中で瞑ったまぶたの奥がチカチカと瞬き、清は意識が遠くなる感覚に陥った。頭がくらくらとする。耳から聞こえていたオーケストラの奏でる音が少しずつ遠くなっていくのが判る。清はいつの間にか眠りに落ちていった。
「皆様お疲れさんでした。無事、到着しましたんでもうええですよ。アイマスクを外してええで~」
またおかしな関西弁で喋るゴンちゃんの声が聞こえた。ぼんやりとした頭で清はアイマスクを外す。バスはすでに止まっていた。あの集合場所だったバスターミナルだ。
バスの中を見渡すと、全員が元の姿に戻っている。あの儀式は元の姿に戻る為のものだったようだ。時計を見ると、午後の三時だ。バスに乗ってからもう一時間が過ぎていたようだ。
「それではこれで解散と致します。その前にこのツアーの不思議体験についてご説明いたします。皆様は、このツアーは『あの頃君も若かった』という名の通り、皆様の若かりし頃に戻り、皆様の人生で重要な意味を持つ頃の姿で、皆様の人生の状況に合わせた場面を経験されたかと思います。このツアーで体験されたことはとても不思議で、かつミステリーなものですがとても大切な意味を持っていたかと思います。ですからこの四日間の出来事はなるだけ皆様の心の中にしまっておいてください。あっ、念の為にお伝えしておきますが、皆様が若かった頃の姿で撮った写真、デジカメなどの類はすべて写っておりません。そういうものは元の姿に戻った時点で消去されておりますのでご了承ください」
ゴンちゃんの説明で、若干バスの中が騒がしくなる。写真か。全く考えてなかった。確かにいつもの旅行のように清達もデジカメをカバンの中に入れておいたが、写真を取ることなどすっかり忘れていた。清は和子を見ると、彼女もそう思っていたのか、
「そういえば写真、一枚も撮って無かったわね」
と笑っていた。ただそんなことはどうでもよかった。この旅行であったことは和子との間だけの大切な秘密とするつもりだった。おそらく他の参加者も同じ気持ちだったのだろう。それほど大きく騒ぐ人はいなかった。
「それでは皆様、この度はこのミステリーツアーにご参加いただき、誠にありがとうございました。このツアーに参加されたことで今後の皆さまの人生におかれまして充実した時が過ごすことができるよう心からお祈り申し上げます」
ゴンちゃんは深々と頭を下げて礼をしていた。イケ面バスガイドのナカムラトオルまでが頭を下げている。思わず清は手を叩いていた。
するとバスの中はあちらこちらから拍手が湧きあがり、しまいには皆席を立って、スタンディングオベーションとなった。手を叩いている参加者達の顔は皆満足げで涙を浮かべている人もいる。ありがとう、とゴンちゃんに声をかけている人もいた。
おそらくここにいるツアー参加者は、清や幸子の様に何らかの事情を持って参加している人ばかりだったのかもしれない。そしてその全員が、清達のようにこの不思議な三泊四日の旅行でかけがえのない、人生最後の思い出をつくることが出来たのであろう。
なかなか鳴りやまない拍手の中で清が横を見ると、そこには涙を浮かべて幸せそうな顔で清を見つめる和子の姿があった。
帰りの電車の中で、清達は心地よい疲れの中、放心状態だった。その時
「あっ! お土産買ってくるのを忘れたわ」
和子がはっとして思い出したかのように叫ぶ。そう言えばそんなお土産がどうのなんていうようないつもの旅行ではなかったため、すっかり忘れていた。
いつもなら恵子達や翔太達に何かしら買ってくるのが通例だったし、いいものを見つけた時はご近所の方々にも和子が配っていたものだ。
「翔太と美咲には靴とハンカチをあげればいいが、お土産ってものじゃないしな」
清は旅行の初日に原宿で買った、タオル地のハンカチと靴のことを思い出してそういった。
「まっ、しょうがないか。今回はツアー日程が忙しくて忘れたことにしましょう」
そう結論づけて清にもそう言い聞かせるように言う。それをただ黙って頷いておいた。土産を配ったり、恵子達に土産話などをしたりすることなどいつも和子に任せっきりだ。それで間違いなかった。家族や近所の人達にお土産を忘れたことをまた適当な話を作ってうまく言いくるめるのだろう。今回の旅行で清はその事を確信した。
和子は作り話が相当にうまい。和子に言わせれば病弱だった頃、家の中で横になったまま一人で色んな想像を膨らませて物語を作っていたからだと言うが、それだけではないだろう、と思っていた。
家に向かう途中、心地よく揺れる電車の中で清はうとうととしていた。横に座っていた和子も船を漕ぎだした。そして和子は清の肩に頭を乗せ、その和子の頭の上に清もまた寄りかかる。二人は自然と手をつなぎ、目を閉じていた。
すると、近くに立っていた若者の男女が、こそこそと話す声が聞こえる。声からして二十代前半ぐらいの子達だろうか。
「あの席のお爺ちゃんとお婆ちゃん、何か素敵じゃない?」
「ああ、気持ち良さそうに寄り添って寝てるな。手なんか握っちゃっているよ」
「年を取ってもああいう老夫婦って憧れる。私達もああいうふうになれるかな」
「ああ、なれるさ」
「ヤダ~。ホント?」
若い二人はすでに自分達の世界に入ってしまったようだ。目をつむったまま、そんな話を聞いた清は、つい顔がほころんでしまう。薄目を開けて和子を見ると和子もうっすらと笑っていた。同じように聞いていたのだろう。
どうだ、若者達。羨ましいだろう。こういう二人になるには長い時間と大きな苦労を味わった私達だから出来るんだぞ、と清は胸を張って言ってみたい衝動に駆られた。それほど清の心は幸せな気持ちで充ち溢れている。この大切な時間が後残り僅かであるからこそ清はとても充実しているのだと感じていた。大きな幸せと悲しみは紙一重のところにこそあるのかもしれない。
清達が家の前までくると、誠と恵子、翔太と美咲までいた。二人が帰ってくるのを待ち構えていたようだ。今日は土曜日で恵子も仕事は休みだ。翔太は少し二日酔いが残っているせいかぼんやりとした顔をしている。
「お帰りなさい、お父さん。旅行はどうだった?」
「ジィジお帰り!」
恵子と美咲が真っ先に声をかけてくれる。その次にケンがワン! ワン! とまた元気に吠えている。誠と翔太はやや硬い表情で笑顔を作っていた。
「ただいま! ちょっとごめんなさいね。いろいろ忙しくてお土産も買ってくる暇もなかったのよ」
和子がそこから怒涛のように、出鱈目な旅行の内容を説明しだす。北陸の方に連れていかれて、良く判らない昔の古い学校や歴史博物館の様な所をまわって忙しいわりにはたいした旅行ではなかったと愚痴を漏らす。
清は横でただ、そうよね、と和子に振られると、うん、と頷くばかりだ。よくこれだけ嘘がつけるものだとあきれるのを通り越し、感心してしまう。
「それはお義父さんも大変でしたね、疲れたでしょう」
誠が清の体を心配してくれる。
「大丈夫、大丈夫。夜はしっかり休めたし、二人で色々ゆっくり話もできたからその点は良かったわ」
和子がそうフォローして、とにかく家に入ってしばらくゆっくり休んで、夕食は恵子達の家の方で用意してあるから食べに来てください、と誠と恵子が誘ってくれた。
「じゃあ、お言葉に甘えてそうさせてもらうわ。後で行くから」
そう告げて和子と清は自分達の家の中に入り、荷物を置いてリビングのソファに腰を下ろした。
やっと帰ってきた、という気がする。やはり自分の家が一番落ち着く。昨日の夜翔太達と泊まった時には帰ってきたと思えなかった。それはやはり姿も違ったし、お客様として家に上がったという違和感もあったからだろう。
「今、お茶でも入れますからね」
和子はソファァから立ち上がり台所に向かった。
「良いよ、お前ももう少しゆっくりしたらどうだ。疲れたろ」
清が台所にそう声をかけたが、
「いいのよ、私ものどが渇いたんだから、お茶ぐらい飲ませてよ」
と和子が言うものだから清は好きなようにさせておいた。手持無沙汰で清は何気なくテレビをつける。夕方のニュースが流れていた。久し振りに見るテレビだ。二日目の朝にラブホテルで少し見たきりでニュースなども新聞なども全く見ていなかった。この四日間に起こった出来事が流れていることを、そうかそうか、と清はいつの間にか真剣に見入っていた。横には和子がお茶を持って座っている。
「ありがとう」
清はそう声をかけて、お茶を手にして一口含みテレビを見ていた。和子も黙って見ている。いつもの我が家の時間に戻っていた。それがなんとも心地よい時間だった。
夜も七時近くなって、美咲がやってきた。
「ジィジ、バァバ、夕飯の準備ができたからそろそろこっちに来てってお母さんが呼んでるよ」
テレビをつけたまま、ソファでうつらうつらとしていた清と和子は、美咲の声で目を覚ました。心地よい気分のまま寝てしまったようだ。
「なに、二人とも寝てたの? 大丈夫、疲れてない?」
美咲は心配していたが、清と和子は、ソファから起き上がり、大丈夫、といいながら、ゆっくりと美咲の後について隣の恵子達の家に入った。
「いただきます!」
翔太が大きな声で手を合わせた。夕食は手巻き寿司だ。時々田端家では正月など家族全員が集まった時にやるのだが、タマゴやイカ、エビ、サーモン、マグロの赤身、ウニ、イクラ、キュウリに大根、ニンジン、カイワレ、シソ、揚げ、シイタケ、タクワン、カニマヨなどの具材にすし飯と海苔を用意して、各自で巻いて食べる。
人数が多いとそれだけ具材の種類も豊富にそろえられるから少しずつ好きなものを食べられるため、翔太も美咲にも評判がいい。
いつもの通り、和子が恵子や翔太達と話の花を咲かせ、清と誠は黙々と食事をしながら、時々相槌を打つ。今日の話題は和子の旅行嘘話に加えて、
「そうだ、三日前と昨日、バァバが私達から借りてった服と同じ服を着た子達がいてね。昨日はその子達、家に泊まってったんだけど、朝起きたらもう帰っちゃったんだ。北海道の子達で修学旅行の自由行動で東京に遊びに来てたんだって」
「そう言えば一昨日、昔私と誠が着ていたような服で三十代くらいの若い夫婦がね、居酒屋で酔っ払った誠を夜遅く家まで送ってくれたから、家に泊まってもらったんだけど、朝置き手紙置いていなくなっちゃって。ああ大丈夫。何か盗まれたとかはないから。すごくいい人達でね」
「そうだ、私、バァバにお母さん達の昔の服も貸したよね」
「美咲、あんた何を勝手に人の服を持ち出してるの!」
「いいじゃん、バァバ達が旅行で若い服が必要だって言うから貸してあげただけじゃない」
美咲と恵子がそんな話をし出した時には、清はその場から立ち去ってしまいたい衝動に駆られた。和子も気まずそうに、うん、あ、そうなの、と適当に話を合わせている。和子の額には滅多にかかない汗が光っていた。清もハンカチで冷や汗をこっそり拭う。
話題を変えたかった清は、和子に目配せをしてから、持っていた箸を置き、
「ちょっといいか。俺の病気のことで言っておきたいことがある」
と切り出した。
和子は一瞬、何も今ここで、という表情をしたが、翔太達の顔を見て思い直したようだ。少しでも清に気を使う時間を短くしてあげたい、と和子も思ったのだろう。
清が病気のこと、と言い出したため食卓はピリッと緊張感が漂った。清の次に発する言葉を皆が息を飲んで待っている。全員が箸を置き、背筋を伸ばして聞き耳を立てた。
清も姿勢を正して喋りはじめる。
「今回の旅行中に、和子から俺の病気のことは聞いた。最初は俺に黙っているつもりだったみたいだけど、和子は俺の様子を見て話しても大丈夫だと思ったんだろう。実は俺もうすうすは病気のことは知っていた。だから覚悟はできている。お前らには心配かけてすまんな。それに病気のことを俺に隠すなんて辛い思いをさせて申し訳ない」
清は頭を下げた。恵子が俯いている。すすり泣く声が聞こえた。翔太は目が真っ赤になっている。誠と美咲は真剣な眼で清の表情を見つめている。
「俺は和子とこの旅行中に色々話をした。いい旅行だったよ。俺の気持ちは十分伝えた。和子の気持ちも良く判った。後は残り少ない時間をゆっくりと過ごしたい。俺はできる限り病院に入ることはせず家で過ごしたい。どうしても、という時は病院に入る。そうなればもう俺の最後だろうと思う。その時は恵子達にも迷惑をかけるが、すまない。あ、あと葬式はなるだけ身内だけでやってくれ。面倒はかけたくない。簡単でいい。墓も必要ない。田端家の墓は俺の兄貴の子供達が面倒みているからそれは向こうに任せておけばいい。墓があるとお前達に余計な出費と余計な気を遣わせる。俺自身も田端家の墓参りなんて滅多にしてこなかった。だからお前達にもそんなことをさせるつもりはない。ただお願いがある。府中に俺と和子の思い出の神社がある。お寺さんじゃなく神社だけどそこでは特別に永代供養もしてくれるそうだ。俺が死んだらそこで手続きをして欲しい。これは和子も同じ考えだ。もうそこの神主さんには今日話をしてきてある。二人はそこで一緒に眠りたい。俺は先に行くことになるが、あとはよろしく頼む。和子のことをよろしく頼む」
もう一度清は恵子達に頭を下げた。横で和子も泣いている。誠も美咲も涙を流して真面目に聞いてくれていた。
これで清は自分の遺言をしっかり伝えられたと思う。また数少ない清のやり残したことが一つまたこれで消すことができた。この四日間を本当に充実した日々を過ごすことができたことに清は感謝している。
清はテーブルの下で横にいる和子の手を強く握りしめた。震える和子の手はひんやりと冷たい。清は自分の手で和子の手を温めていた。
この時に清は和子の異変に気づくことができたら、と後になって後悔することになる。
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