第四章~三日目

(旅行三日目)

「あなた、起きて! あなた!」

 まだ薄暗い中、和子に揺すり起こされて目を覚ました清は、再び十代に戻った幼い和子の姿が目に入った。

 飛び起きた清は、自分の顔を触り、そして着ている服を見ると、一昨日の服とはまた違った、黒のダボッとしたパンツに一日目と同じような大きく英語のロゴが入った白いシャツだった。

 和子は薄いピンクのロングワンピースに小さなデニムのジャケットを羽織っている。これもなかなか良く似合って可愛い、などと考えている場合ではなかった。

「まずいな。また十代に戻っている」

「そうなのよ。やっぱり、美咲から借りて持ってきている服に合わせて体も変化しているみたい。今私達が身につけている服って美咲と翔太から借りて来た二着目だから」

 清が時計を見ると、朝五時すぎだった。まだ恵子達は寝ているだろうが、もうしばらくすれば起きてくるに違いない。起きれば清達の様子を見に来るだろう。

「しょうが無い。こっそり抜け出そう」

 清達が寝ている客間は裏庭に面している部屋だ。ガラス戸を開ければ家の裏口から逃げだすことができる。

「そうね。でも黙っていなくなると心配するでしょうし」

「だったら置き手紙でも書いていけばいい。ありがとうございました、事情があって黙って帰ることをお許しくださいとか何とか、書いて」

 和子は頷き、カバンから取り出したメモ帳に走り書きをし、布団を綺麗に畳んでその上に置いた。そして二人は静かに部屋の引き戸を開けて、玄関に置いてある靴を取ってまた部屋に戻り、今度はガラス戸をあけて荷物を持って裏庭に出る。

 外はまだ暗いが何とか周りの様子が見えた。それに住みなれた自分の家の敷地である。どこに何があるかは判っていたため、清達はすぐに裏口から出て外に逃げ出した。

 危うく犬のケンが清達の匂いを嗅ぎ取ったのか、二、三度吠えたのには驚いた。ケンは家の玄関側にいたために、見つかることはなかったがさすがに焦る。

 幸い誰にも見られず、家から駅に向かって早足で歩き、駅が近づいてからやっと清達は安心することができた。

「このツアーというのはありがたいこともあるが、こういう不便なところが心臓に悪いな」

 清がぼやくと、和子は謝った。

「ごめんなさい。私が美咲達からと恵子達からと両方の服を借りて来たばっかりに」

 慌てて清は訂正した。

「いやいや、お前が悪いんじゃないよ。逆に両方の姿になれたから体験出来たことってあるじゃないか。翔太達と自然に話が出来たのも、また誠くんとお酒を飲めたのもそういう格好ができたからこそじゃないか。お前のおかげだよ」

 清がそう言うと、和子はあっさり、そうね、それもそうだわね、と喜んだ。和子の切り替わりの早さがありがたかった。

 よく見ると和子の目は赤く、腫れぼったい。おそらく昨日の夜のことで泣き晴らし、良く寝られなかったのだろう。それが今日の朝のドタバタで二人の間がぎくしゃくすることが避けられた。やはりこういうトラブルも含めて有難いことだ、と清は心の中で感謝する。

「じゃあ、今日はどうしよう? この格好でどこに行こうか」

 駅に着いた清は和子に尋ねると

「そうね。渋谷と原宿はもういいわ。それにこのパターンだと明日の最終日は元の姿に戻っているだろうから、不思議な体験は今日が最後でしょ」

 和子はどこに行って何しようかしら、と首をひねって考えている。電車はすでに始発が動き出していた。朝食のことも考えてまずどこに移動しようか、と清は駅の構内を見渡す。 

 駅には東北、北陸への旅行を促すようなポスターがたくさん貼ってある。今からこの格好で遠出をするのもうどうかと思い、他のものに目を移すと、そこに水族館のポスターを見つけた。清が和子の方を振り向くと、ちょうど和子もそのポスターに目をやっている。二人は顔を見合わせ、同時ににっこりと笑った。

 

 

 恵子は朝の五時すぎに目を覚ました。いつもならもう少し遅く起きるが、今朝はお客様が泊まっているため、その二人の世話もしなければならない。それに今日は金曜日の平日で恵子は会社がある為、早く起きて支度を済まさなければならないのだ。

 隣には誠が軽くいびきをかきながらぐっすりと気持ち良さそうに眠っている。昨日はお酒も飲んでいい気分になっていたのだろう。佐藤さんというご夫婦に話を聞いてもらって久し振りにいい気分転換ができたようだ。誠にはこうやってリフレッシュしながらゆっくりと体を治して欲しい、と恵子は考えていた。 

 恵子は眠っている誠を起こさないようにそっとしておいて、自分は着替えて簡単に化粧をした後、二階の寝室からでて一階に静かに降りた。

 佐藤夫妻は一階の奥の客間で寝ているはずだ。まだ起こすには早い時間である。誠が寝ているから恵子は翔太や美咲の朝食も用意しなければいけない。今日は二人のお弁当も用意しよう。最近は恵子も仕事で疲れていてお弁当が作れずにいるために、子供達にはお昼に何か自由に食べて、とお金だけ渡していることが多い。

 時々は誠が翔太達のお弁当を作ってくれることもあるのだが、体調の加減もあって毎日ではない。誠の体の調子が良い時だけで、彼の気分が乗った時に限られる。

 夕飯の準備もそうだ。誠の気分が乗らない時は恵子も翔太達も自然に外食ですましたりしている。だからと言って恵子は隣に住む和子達に頼ることはしたくなかった。特に今は清の体のことを考えると、和子にこの家の食事まで世話をさせるわけにはいかないのだ。

 恵子が朝食の準備をしようと台所に入ろうとした時、庭で犬のケンが吠えている声が聞こえた。こんな朝早くに、めったに鳴くことのない大人しいケンが騒いでいることが気になり、恵子は三和土におりて玄関を出ようとドアの鍵を開けようとしたが、何となしに気になって踵を返し、恵子は奥の客間に足を運んだ。

 客間は和室になっていて部屋の入口は引き戸になっている。音を立てないように戸を引くと、部屋にはきちんと布団が畳まれていて、そこには佐藤夫妻の姿は無かった。

「佐藤さん?」

 部屋を見渡した恵子は、佐藤夫妻の荷物もなくなっていることに気づく。そして畳まれた布団の上に何やら手紙が置かれてあった。

 恵子は手に取って見るとそこには 

 ― 突然ご挨拶もせずにいなくなり申し訳ございません。事情がありこのまま失礼させていただきます。お世話になりました。ご主人にもよろしくお伝えください。また宿泊代として些少ではございますがお受け取りください。 佐藤 ― 

 と慌てて走り書きしたような、それでいて丁寧な文章が書かれていて、手紙と一緒に一万円札が置かれてあった。宿泊代として置いて言ったのであろう。

 部屋をもう一度よく見ると、裏庭に通じるガラス戸の鍵が開いていた。玄関先は鍵が中からかかっていたはずだ。ということはここから外に出たのであろう。恵子が先ほど玄関先に降りて何か違和感があったのは佐藤夫妻の履いていた靴がなくなっていたことだ、とその時やっと気がついた。

 佐藤夫妻の手紙をもう一度眼を通しながら、ふうっ、と息を吐き、恵子は台所に入ってダイニングにあるイスに腰掛けた。佐藤夫妻が突然いなくなったのには驚いたが、宿泊代としてお金まで置いていった彼らが何か家の物を盗んで出ていったとは思えない。本当に何か事情があって恵子達を起こしてはいけないと思い、二人は黙って出て行ったことが判ると、恵子は少し時間を持て余してしまった。佐藤夫妻の朝食の準備やお世話のことを考えていつもより早起きしたのだ。

 もう一度溜息をついて恵子は両手を上げて背伸びした。そしてゆっくりと立ち上がり、朝食の準備をしながら翔太と美咲と自分の分、さらに時間があるため折角だからと恵子は普段用意しない誠の分のお弁当作りを始めた。

 たまにこうやって早起きするのも意外にいいのかもしれない。昨日は夜遅くまで佐藤夫妻と話し込んでいた割には朝の目覚めは良かった。それに今日は金曜日だ。今日一日仕事に行けば土日はお休みである。そして明日は清と和子も旅行から帰ってくる日だ。

 明日の晩御飯は手巻き寿司にでもしようか、と恵子は考えながら、昨日佐藤夫妻から聞いた誠の話を思い出していた。

 

 恵子は二十七歳の時に同い年の銀行マンと結婚をした。四十一歳という年齢で翔太を身籠ったことをきっかけに恵子は会社を辞めたが、息子が五歳の時に交通事故で夫を失った。

 恵子は夫が亡くなった時には自殺を考えるほど落ち込んだが、残された翔太を育てていかなければと必死だった。そんな恵子を支えてくれたのが誠だった。

 誠は亡くなった夫と同じ職場で働く後輩であり、外で飲んだ後に夜遅く酔っ払った夫を家に運んでくれたり、翔太が生まれてからは、休日には美咲を連れて誠の奥様と一緒に恵子達の家に遊びに来たりすることもあった。

 美咲は誠の前の奥様との間に生まれた子供である。翔太が生まれた一カ月後に美咲も生まれ、同学年の二人は同じ幼稚園に通っていた。しかし美咲の実の母、誠の前の奥様は美咲が三歳の時にガンで亡くなったのだ。

 そのため、最初は恵子達が誠と残された美咲を励ましていた。両親を早く亡くしていた誠には、亡くなった妻の代わりに美咲の面倒を見てくれる人はいない。いや正確には亡くなった奥様の両親が、幼い娘を男手一つで育てるのは大変だと美咲を引き取るといってくれていたが、それでは美咲と離れ離れになってしまう。その為誠は美咲を預ける決心がなかなかつかなかった。

 そうやって悩んでいる誠を、先輩であり、恵子の亡くなった夫が誠に声をかけ、

「田辺、美咲ちゃんはこの間翔太と同じ幼稚園に入れたばかりじゃないか。美咲ちゃんを手放したくないなら俺達が応援するよ。うちの恵子がお前の手に負えない部分をフォローしてやるってさ。俺は子育ての手伝いはできなくても仕事上で手助けをすることはできる。だから心配するな。大変だろうが親子は一緒にいる方がいい。美咲ちゃんと一緒に暮らせ」

と、誠に提案した。

 当時、恵子達は誠と同じマンションの借り上げ社宅に入っていた。朝早く出て夜遅く帰ってくる誠の代わりに幼稚園の送り迎えなどは恵子が手伝い、誠が帰って来るまで翔太と一緒に美咲を遊ばせておいたりした。時には恵子が誠と美咲の朝食を作ったりもした。

 そんな関係が二年ほど続いた後、今度は恵子の夫が事故で亡くなってしまったため、恵子と誠がお互いを助け合い、励まし合うようになったのは必然のことだったのだ。

 翔太と美咲が小学校に上がったことをきっかけに、恵子は誠と再婚した。そして清と和子が新しく土地を購入し家を建てるというので、同じ敷地内で清達の家の隣に恵子達も新居を構えることにしたのだ。

 翔太と美咲は三歳から一緒に過ごしていたため、二人は本当の兄妹のように育ち、仲良くやっている。翔太も誠を実の父親のように思い、美咲も恵子を実の母のように慕ってくれていた。誠も恵子も、翔太と美咲を二人とも同じように、大切な自分達の子供だと思って育ててきた。清と和子も二人を実の孫として可愛がってくれている。

 恵子はそれから幸せな家族生活を送っていた。そして五年前に経済的にも両親に頼り過ぎてはいけないと思い、子供達が大きくなり中学に上がるのを機に、以前勤めていた会社に再就職した。それが今思えば幸いだった。誠が管理職になってしばらくして体調を崩し始め、結局は会社を辞めることになったからだ。

 二年前から誠は会社を休みがちになり、一年前に会社を長期休養することになった。心の病で一ヶ月ほど入院生活も送り、結局誠は会社を辞めた。

 会社を辞める前までは傷病休暇扱いとして会社から給与は出ていたため、恵子達はそれほど生活も困らなかった。恵子も働いていて誠の退職金もそれまで貯めてきた貯金もあり、住む家も持ち家であるため、経済的にはしばらく持ちこたえることはできる。

 それでもいつまでも無収入で暮らしていく訳にはいかない。恵子が仕事をしていたことが当面の経済的ゆとりを生んでいたため、誠も思い切って会社を辞めることが出来たのだ。 

 もし恵子達が経済的に苦しんでしまう状況であれば、誠は更に病気を悪化させてしまっていたかもしれない。現に誠は会社を辞めてからは体調が安定している。

 誠は一時期、恵子に離婚を迫ったことがあった。

「うつ病にかかった、会社で働けなくなった自分とこれ以上一緒にいると恵子に迷惑をかける。俺だけじゃない。美咲まで面倒を見てもらう事になる。今まで恵子には十分なほど助けてもらった。これ以上君に頼ることはできない。別れて欲しい」

 涙ながらに語る誠に恵子は驚いた。精神的に不安定になっているとはいえ、離婚を切り出されるとは思ってもいなかったのだ。

 それでも恵子は誠が自分や翔太を嫌って別れようと言っているのではないことが判った。ただこれ以上恵子達に辛い目に遭わせたくないという負い目からの言葉だと理解できる。

 恵子はその時、ゆっくりと落ち着いて誠に告げた。

「あなたが本当に私達と一緒にいるのが辛いなら、私達と別れて暮らした方があなたにとって本当に心休まるのなら私は離婚してもいい。ただ、あなたが私達に迷惑をかけるからという理由だけでは離婚できないわよ。あなたは私に助けてもらったというけれども、助けてもらったのは私も翔太も一緒なの。前の夫を事故で亡くした時、あなたと美咲がいてくれたおかげで私達がどれだけ救われたか。私は翔太を育て、そしてあなたと美咲の助けになろうと思う事で私は生きる目的を持ったの。あなたは私にとって必要な人なの。例え仕事ができなくなってもあなたは私の大切な夫であり、そして翔太と美咲の大事な父親であることには変わりない。お金のことは心配しないで。私も働いているし、貯えもあるから。翔太と美咲が大学を卒業して、自分達で働くようになるまでは大丈夫だし、その後はそれほど多くのお金がなくても、あなたと二人なら十分に暮らしていける。私の父や母のことは心配ないの。あの人達も二人だけで十分でやっていけるから。だからといって私は父や母の財産を頼りにしている訳ではないのよ。幸い、土地建物だけは父達の援助もあって私達のものになっているし、何度も言うけど贅沢しなければこれからも十分やっていける。あなたは今、そんなお金のことなんかで悩み苦しむことは止めて。あなたはまずは心穏やかにして心と体を休めて。その代わり、できる範囲内でいいから、私の代わりに家のことをやってもらえば助かるわ。もう一度言うわよ。あなたは私達にとって大切なの。必要な人なの。それだけは判って」

 恵子の言葉に誠は静かに聞いていた。別れてくれと言いだした時よりも落ち着いているようだった。

 それから誠は会社を辞める決心をし、二度と別れるなどという話はしなかった。翔太と美咲も含めて四人で今後のことを話しあった。誠が会社を辞めて心体を休ませながら家庭のことを手伝う事、翔太も美咲もその事を理解して家族で助け合う事、を約束した。

 恵子は父と母にも家族で話あったことの報告をした。誠が会社を休みがちで精神的にも病んでいることが判った当初、恵子は父母にその事を相談することを躊躇った。すぐ隣に住んでいていずれは判ってしまう事なのだが、それでもしばらくは誠が会社を休む度に

「ちょっと風邪をこじらして……」

「ここ最近仕事が忙しかったから」

と父母には誤魔化していた。それもできないほど頻繁に長く休み始めた時、思い切って母の和子に相談したところ、後で父の清に呼ばれ怒鳴られてしまったのである。

「ばかもん! 私達はお前の家族じゃないのか! 何故今まで黙っていた! こういう時こそ家族が助け合わなくちゃいけないんじゃないか! いつまでも俺達に黙っているなんて思っていたら誠さんだって辛いだろ! そんな事も判らんのか!」

 恵子は成人してから清に怒られることなど一度もなかった。子供の頃は厳しかった清だが、大人になってからは和子から色々言われることはあっても、基本的に、もう大人なんだから、とすべて恵子達の判断に任せてくれた。

 そんな清に叱られ、そして親身になって色々と考えてくれて理解してくれた清と和子に恵子は心から感謝していた。

 家族の中でも翔太は積極的に家の手伝いをするようになった。誠と一緒に食事の手伝いをするようになってくれた。美咲はなぜか食事の手伝いはしないが、他の家事の手伝いはしっかりやってくれる。

 それ以上に美咲はいい大学に入る為の勉強を頑張り出した。もともと誠の血を引いて勉強は良く出来たが働いている恵子を見て、自立した働く女性になりたいと頑張っていると聞かされた時、恵子は涙が出た。

 逆に翔太は誠の料理する姿を見て、そして誠を手伝っているうちに大学に行くより手に職をつけたほうがいい、と言いだしているようだ。まだ美咲に比べればやや漠然とした考えのようだが、誠の姿を見て、という翔太の気持ちに恵子は感動した。

 翔太も誠を決して軽蔑している訳ではなく、いい大学を出て一流企業に就職した父が目の前で病んでいく姿を見て考えさせられたのであろう。それも一つの物の捉え方であろうし、父の背中を見て感じてくれればそれは嬉しいことだと恵子は思う。

 ただ翔太と美咲に少し気になる点があった。しかし来年には選挙権が得られ、結婚もできる。もう子供とは言えない。お互い血の繋がらない兄妹であることも知っているし、最近まで二人とも付き合っている相手がいたようだ。すでに別れたらしいが、それでも互いにぎくしゃくすることもなく、仲良くしている。

 翔太は小さい頃から比較的大人しかった美咲を、本当の妹のように可愛がり守ってきた。そういう面では男気のある子だ。これも親馬鹿だから言えるのかもしれない。

 今は恵子も怖くて口には出せないが、二人のことはこれからもしっかり見守っていかなければならない。どんな事があったとしても二人は自分の命より大切な子供達なのだから。

 恵子が四人分のお弁当と朝食を作り終えた時、階段を降りてくる足音が聞こえた。どうやら誠が目を覚ましたようだ。

 誠はそのまま台所に入って来て恵子の背中に呼びかけた。

「おはよう。昨日はごめん。つい酔っ払っちゃって」

 恵子が振り向くと、まだ寝むそうな眼をこすりながら誠が立っている。

「おはよう。体調はどう? 今日の朝は、頭は痛くない?」

 誠のうつ病は朝に強い症状が出ることが多い。ひどい時は頭痛と倦怠感、動悸や手足のしびれを感じ、ずっと寝たまま起きてこないことがある。 だが今日は自分で目を覚まし、恵子が見る限り顔色も悪くなさそうだ。

 彼はバツの悪そうな表情を浮かべ、寝ぐせのついた頭を触りながら

「久し振りにお酒を飲んだ割に今日の朝は調子がいいみたい。心配かけてごめん」

 と謝った。恵子はホッとする。

 昨日のアルコールが抗鬱剤と反応して悪い方に影響したらいけないと気になっていたが、大丈夫そうで安心した。それに昨日、佐藤夫妻にいろいろ話を聞いてもらって精神的にもすっきりしたという事もあるのだろう。

 そこで佐藤夫妻のことを思い出し、誠に聞いた。

「まこっちゃん、昨日の夜のこと、覚えてる? 佐藤さんというご夫婦と一緒にお酒を飲んで、あなたをここまで連れてきていただいたのよ」

「うん、覚えてる。凄い迷惑をかけたんだよなあ」

「それで、そのまま返すといけないと思って家に上がってもらって家に泊まってもらったのよ」

「え? じゃあ、二人ともいるの? お礼を言わなきゃ」

 慌てる誠を制して恵子は

「でもね、二人とも私が朝起きた時にはもう帰っちゃって」

 そう言って佐藤夫妻の置き手紙を誠に見せ、詳しく昨日の夜の経緯も含めて説明した。

「ああ、そうだったんだ。本当に良くしてもらったんだな。俺も昨日は話を聞いてもらっただけなのにすごい気分が良くなっちゃって」

 誠はダイニングの椅子に腰掛け、恵子の話を聞いていた。

「そうなの。私もあの人達に話を聞いてもらっただけで凄く心が休まったのよ」

 恵子はそう言いながら佐藤夫妻のことを思い出す。

「本当に不思議な二人だったわ。私達より若いのにまるでお父さんとお母さんに話を聞いてもらっているような気がしたもの」

「僕もそうだ」

 誠も昨日の夜のことを思い出しながら頷いていた。

 清達は電車で池袋まで移動してファーストフード店で朝食をとり、水族館の開く十時まで時間を潰すことにした。水族館など恵子が幼い時に連れて来て以来だった。確かここの水族館は恵子が生まれてしばらく経った年にできたはずだ。

 当時は都会の真ん中の高層ビルの中にできた水族館として有名であった。恵子が小学生になってから連れてきたことがある。もう五十年近くも前だ。池袋もそのビルもまたその当時とは雰囲気などは全く変わってしまっている。

 十時になると、待ってましたとばかりに一番で入場した清達は、水族館をぐるりとまわり、午前中タップリと楽しんだ。当然のことだが中身や展示されている規模など昔見たものとは全く異なる様子に清達は目を見張った。

 大きな水槽で泳ぐマイワシの群れからはじまり、美しいサンゴ礁とそこに泳ぐ色とりどりの小魚、アザラシにラッコ、熱帯雨林のフロアを通り、水族館だと言うのに動物園の様な広場で思った以上に可愛い顔をしているカワウソや毛並みのいいアリクイ、ペリカンがいるは、ペンギンは散歩しているは、アシカショーまで見ることができた。

 また大きなマンボウがゆったりと泳ぐ姿に癒され、まさしくゆっくりと流れる時間に、違った世界に迷い込んだかのような錯覚に陥る。まあ七十年もさかのぼった姿になっていること自体が異世界にきたようなものなのではあるが。

 その後清達は、色んな餃子などが集まったフードテーマパークの入ったキャラクターやゲームなどがある場所をぶらぶらと歩き、食事もしながら楽しんでいた。もちろん四十年前にはこんなものはなかった。まさしく十代の若い恋人同士に戻った清と和子は、存分に楽しむことができた。

「こんな食事もできて楽しめるところができていたんですね。子供が遊ぶところかと思ったら十分大人でも楽しめますね」

 オープンテラスの席に座って、餃子などを食べながら和子は興奮が収まらない様子で清に話しかける。

「ああ、そうだな」

 和子のテンションもすごかったが、清もまた一緒になって楽しんでいる自分に驚いていた。頭の中はそのままかと思ったが、体と一緒に考え方や感情までもが若返ったようで、心地よい高揚感があったが、清はなるだけそれを外に出さないように抑えている。

 そんな清に和子は

「何カッコつけてるのよ。さっき散々はしゃいでたくせに」

 と一言でばっさり斬られた。和子には何もかもお見通しだ。それでもやはり和子に対して落ち着いている振りを見せる癖は直らない。今更見栄を張ってもしょうがないのに、と清は思わず苦笑していた。

「あれ、ちょっと、ちょっと」

 向かい合ってテーブルを挟んで座っていた和子が、清の背後に何やら見つけたらしく、視線を遠くに見据えながら、手だけで清を呼んだ。

 清はゆっくりと和子が見ているらしき方向に首を向けると、そこには孫の翔太が女の子と歩いている姿を発見した。偶然にも十代の格好になった清達はまたしても翔太と会ってしまったのだ。

 清は考えた。何か理由があるのだろうか。このツアーは何か目的を持ってこういう運命を演出しているように感じられる。昨日は誠の服を着ていたら誠を偶然見かけ、恵子とも話をする機会ができた。今日は一日目と同様、翔太と出会う。今日は一日目には起こらなかった、翔太と語らう機会というものがあるとでもいうのだろうか。

 そんなことなど一切考えていない呑気な口ぶりで、目の前の和子は翔太を見ながら茶化していた。

「デートかしら。あの子、楽しそうに笑っているわ。あら相手の子、結構かわいらしい子じゃない。翔太もなかなか女の子を見る目があるわね。あの子もなかなかハンサムだから」

 確かに和子の言う通りで、最近は街中で思わず目をそむけたくなるような若い恋人同士を見かけることがあるが、翔太達には今どきらしくないといっていいのか、高校生らしい、健全なデートでもしているような初々しさが感じられた。女の子は清楚な感じで真面目そうに見える。一件、ちゃらちゃらとした翔太には似合わない気もした。

「そういえば、今翔太達の学校は、中間テスト時期で午後から授業が休みらしいから遊んでいるんだろ。いいじゃないか。今日はそっとしておいてやれよ」

 清は内心、孫の恋愛に無関心であったわけではない。ただ自分が心配しても始まらない。翔太や美咲のことは恵子や誠にまかせればいい、と言い聞かせてきた。それに贔屓目かもしれないが我が孫達は素直に育ってくれていると思う。

 服装や髪形や言葉遣いなどには思わず顔をしかめてしまう事があるが、自分達が若かった頃も、やはり多かれ少なかれ今の若い子は、と大人達からそうやって言われていたはずだ。

 人間として大事なところさえ守ってくれていれば、いずれそんな見た目などは落ち着くものだ、と清は考えている。ただ、親のことでいじめに遭っていることには心配だと思ったが、あの様子なら気にすることもないとも思っていた。

 清は前を向いて、もういいだろ、という顔を和子に向けると

「ねえねえ、今度は美咲がいるわ。こっちも男の子と一緒よ」

 その言葉に清も思わず振り向いてしまった。そこにいるのはたしかに美咲だった。翔太より間を置いて男の子と歩いている。翔太との距離からすると、一緒にデートしているようにも見えない。どちらかというと翔太達の後をこっそりつけているようにも見える。翔太だけでなく今度は美咲もか。やはりここであの二人にあったのは何か意味があるのかもしれない。

 一緒に歩いている男の子は、美咲とは少し不釣り合いの真面目そうな子だった。しかもその二人の視線は真っ直ぐ翔太達に向けられ、デートしているようには見えない。

「あの二人は翔太達と違ってデートの様には見えないわね。何しているのかしら、あの子は」

 和子もまた同じように感じたようだ。清は確信した。この十代の姿になって、一日目は翔太と美咲に出会い、二日目は三十代になって恵子と誠に出会った。そして三日目の今日は十代になってまた誠と美咲に偶然にも出くわしている。このおかしなツアーに参加して若返っているのは、自分の青春をもう一度、という他にも大きな意味があるようだ。

 特に二日目の誠と恵子の胸の内を聞くことができた意味合いは、清にとっては大きなものだった。余命があと半年程度の清がこの世を去る為に、何か心残りになるものを一つ一つ、神様が消してくれようとしているのかもしれない。ならば今日のこの出会いも何か意味があるものなのだろう。そう思うといてもたってもいられなくなった清は

「いくぞ」

 和子に声をかけ、美咲達の後を追った。慌てて清についてきた和子に、歩きながら清の考えを告げると、和子も頷いた。

「確かに気になるわね。何かあるのかもしれない」

 二人は翔太や美咲達に気づかれないようにこっそりと後をついていった。

「何かわくわくするわね。探偵みたい」

 はしゃぐ和子を黙らせて、清は前にいる二組の様子を探りながらゆっくりと歩いた。すると翔太達は水族館の中に入っていった。美咲達もその後に続く。

「あら、また水族館? 楽しかったけど一日に二回はちょっと」

 和子は愚痴りながらも二人分の入場券を買い、やむなく清達はもう一度水族館の中に入ることにした。

 水族館へは水槽などがあるフロアに入るまで長い通路がある。その通路の入り口で美咲達の様子を見ていた清は、前ばかり見ている美咲の様子からおそらく大丈夫だろうと通路に入り、五メートルほど間隔をとって歩き出した途端、美咲がふっと後ろを向いた。

 予想外の動きに、清と和子は不自然な形で立ち止まってしまった。

「あれ?」

 美咲が清と和子の顔を交互に見ている。完全に見つかってしまった。固まっている清達を見ている美咲に、一緒にいた男の子は不思議そうに眺め、美咲に声をかけた。

「誰? 知り合い?」

 美咲はその子の言葉を無視するかのように、清達に走り寄って来た。

「あ~! やっぱり! 一昨日の! え~と、マナブくんとケイちゃんだっけ? あれから大丈夫だった? 圭太達は逃げられた、とか言ってたけど」

 マナブとケイ? そういえば一昨日和子が咄嗟にそんな偽名を美咲達に名乗っていたっけ、と清は思い出す。圭太とは追いかけてきていた、清が投げ飛ばした男の子だ。

「あら、偶然ね。美咲ちゃんだったっけ。私達は大丈夫よ。あれから二人でホテルに隠れて泊まってたの」

「え~! 何それ! やっぱりホテルの中に逃げ込んだんだ! 圭太達もそうじゃないかっていってたけど、やだ~!」

 美咲は和子とじゃれ合いながらチラチラと清を見ている。は、恥ずかしい。孫娘からあんな意味ありげな目で見られるとは。何もやましいことはしていないのに、清は思わず赤面してしまった。

「田辺さん、この人達は? あんまりここでゆっくりしていると美紀たちを見失っちゃうよ」

 完全にほったらかしにされていた美咲と一緒にいた男の子が駆け寄ってきてそう言った。

「あっ、そうだ、ケイちゃん達も一緒に付き合ってよ」

 ちょっとした忘れ物を思い出したかのように美咲は強引に和子の手をひっぱり、先に進んだ翔太達を追いかける。有無を言わさぬ行動に、しょうがなく清も後を付いていく。

「あ、いた、いた」

 翔太達は最初のフロアのアザラシがいるところで立ち止まって見ていた。その様子を離れて美咲達は見ている。

「あの子って、こないだ一緒にいた翔太君だよね。あなた達何しているの?」

 和子が美咲に尋ねると、

「翔太が私の兄貴だっていうのはこないだ言ったよね? で、隣にいる女の子が美紀っていうんだけど」

 そう言って美咲は隣にいた男の子の顔を見た。この男の子は名前が透といって、美咲達の同級生だそうだ。あの美紀という子も同級生だという。

「この透がさ、あの子のこと好きだって知っているのに、あの馬鹿兄貴が美紀とデートなんかするもんだから心配で二人で後をつけてたの。おかしなことしないかと思ってさ」

 美紀という子も美咲の友達だという。

「でも翔太さんがあの子のことを好きで、美紀さんも翔太さんのことが好きならしょうがないんじゃないの? 美咲さんもお兄さんの恋路を邪魔するのはよくないわ」

 和子がそう諭す。しかし美咲は少し顔を歪め

「あの二人が本当に好きあっているかどうか、微妙なんだよね。だからそれも含めて確かめようと思ってさ」

 そう言っている所に

「あれ、やっぱり美咲じゃないか。透までいる。なんだよ~、ってあれ?」

 翔太がこちらに気づいたようでスタスタと歩いてくる。美咲達と話をしていたため、清達は翔太達の様子を伺うことがおろそかになっていた。

 翔太は美咲達と一緒にいた清と和子の顔を見てかなり驚いている。ただ最初に美咲を見つけてこちらに歩いてきた翔太に、清は不自然さを感じていた。

「あの、このあいだ会った人だよね? あの時は助けてくれてありがとう。二人には迷惑をかけたみたいで、すみません」

 翔太は清と和子に向かって頭を下げた。おお、こういう挨拶もできるのか、と妙に感心してしまった。

「あれ~ 翔太じゃないの。偶然ね。そうなの。透とちょっとデートしていたらマナブくんとケイちゃんに偶然会ってさ。なに、二人もデートなの?」

 美咲はわざとらしいセリフで、翔太と後ろから渋々と近づいてきた美紀という子に声をかけていた。美咲は清と和子のことを良く判っていない美紀と透に軽く説明し紹介してくれた。清達はしょうがなく、マナブです、ケイです、と偽名を名乗って挨拶する。

「せっかくだから一緒に水族館を回らない?」

 美咲がそう提案した。透と美紀の顔が一瞬曇った。

「ああ、そうだな。マナブくんとケイちゃんには俺も世話になったし、せっかくだから一緒に見ない?」

 翔太もそういって美咲に同調する。しょうが無く頷いた清達だったが、なんとなく自分達がだしに使われたような気がした。翔太と美咲のやり取りはあまりにも不自然だ。最初から打ち合わせをしていたような、棒読みのセリフを聞かされているようだった。

「いいよね、美紀、透君もいい?」

 美咲は躊躇する二人を強引に同意させ、結局六人で水族館を見て回ることになった。

 しばらく二組の様子を見ていた清達だったが、和子も何か気付いたようだ。そして何気なく翔太に近づき、他の人に聞こえないように何か耳打ちした。えっ、と驚いた翔太だったが、これも他の人に聞こえないように何やら和子に耳打ちしている。それを聞いてふんふんと頷いていた。そして、また何気なく翔太から離れ、和子がこちらに戻ってくると今度は清の耳元で囁いた。

「あの子達、やっぱり最初から仕組んでいたみたいね。あの美紀ちゃんと透くんをひっつけようとしているみたい」

 和子はそう言って笑う。やっぱり。そんな事だろうと思った。翔太の説明によると実は翔太は透が美紀のことが好きだという事を知っていてわざと彼女を誘い、態度のはっきりしない透が美紀に告白させるように仕向けるために今回、美咲と企んでこの水族館に来たらしい。

 まあ、なんて友達思いというかおせっかいな孫達だろう、と和子は言う。その通りだ。清は冥土の土産の一つとしてせっかく翔太の可愛い彼女が見られたかと思ったが、なんてことはない茶番劇を見せられた感じである。まあ、二人の企みを邪魔しないように、清達は少し距離を置いて二組の様子を見ることにした。

 水族館も終盤に差し掛かり、翔太達がペンギンの散歩を見て騒いでいる時に、美咲がすっと清達の方に近づいてきた。ちょうど透が美紀と話をしている時だった。すると翔太もすっと美紀から離れ、清達に近寄ってくる。

「今のうちに出よう」

 翔太が低い声で美咲と清達に話しかける。美咲も頷く。清達もその気配を悟って翔太の後に続き、美紀と透を置いて四人はこっそり気付かれないように水族館の出口に向かった。最初からいいタイミングで透と美紀を二人きりにさせる予定だったようだ。この平成の時代にこんな作戦を実行する孫達を清は微笑ましいと思った。

 急いで水族館から離れ、ビルから出た翔太達は、一組の恋を成就させた気で上機嫌である。そして二人は清と和子にお礼を言って、今から家へ遊びに来ないかと清達を誘ってきた。

「家の隣ってさ、俺達の爺ちゃん婆ちゃんが住んでいて、でも明日まで旅行中で留守だから広々とした一軒家でゆっくり遊べるんだよ」

「そうそう、明日は学校が休みだから、朝まで喋ろうよ!」

 翔太の誘いに美咲まで乗ってきた。人の家をそんな風に使っているのか、と思わず叱りたくなったが、清はぐっと我慢した。和子が気を使い、

「お爺さんとお婆さんがいない時、いつも呼んでいるわけじゃないわよね?」

 と聞くと、翔太はシラッと答えた。

「たま~に使わしてもらってる。でも汚すと怒られるから掃除はしっかりしているけどね」

 和子が苦笑いしている。どうやら気づいていたようだ。時々清達が旅行している時にこの二人が家に友達を連れ込んで遊んでいるらしい。

 家の合い鍵は恵子達に渡している。という事は、和子と恵子達の間では周知の事実のようだ。清は全く気がつかなかった。まあそういう所に気がつくような神経を清は残念ながら持ち合わせていない。タバコなど吸っていたら匂いで判るかも知れないが、ちょっとお酒を飲んだくらいじゃ気付かないだろう。

 和子も恵子も知っていることなら、度を越した遊びはしていないだろうと判断した清はもう何も言わなかった。

 翔太達の誘いを断るのもどうかと思い、和子と目配せして孫達とゆっくり話すのもいいかと清は思い直す。昨夜の誠や恵子の様に孫達の意外な心の声が聞けるかも知れない。それに誠のことで翔太達がからかわれていたことも気になる。清達は翔太達の後を付いていくことにした。 

 家に行く途中の電車の中で、美咲がまた和子の服に注目する。

「この間もそうだったけど、この服も私、持ってるんだよね~。こないだちょっと人に貸したんだけど……」

「そうだ、これ、俺も持ってる」

 美咲の話に翔太も気になったようで清の服をジロジロと眺めた。

「そうなんだ、趣味合うね」

 と清達は笑って誤魔化すしかない。首を傾げながらも美咲も翔太も偶然だと思うしかなかったようだ。

 まさか美咲も和子に貸した服を今着ているのが自分達だとは想像もつかないはずである。とは言うものの、早く他の話題に切り替わらないかなあ、と清は心の中でハラハラしていると、突然

「やり~! コクシ!」

 と大声を上げる女の子の声が電車内に響き渡った。清が思わず声がする方を見ると、携帯を持った女子高生であろう女の子を取り囲むように、同じ学校の制服を着た数人の女の子が騒いでいた。

「すげ~じゃん! しかもオヤだし!」

「相手の奴、一気にハコになってやがんの!」

「ミヨ、今月ヤクマン二回目じゃない?」

 と盛り上がっている。何だありゃ、電車の中で大声出してみっともない、と清が思わず睨んでいると、横にいた和子が気づき、まあまあ、と清を宥めた。

「ああ、マージャンやってんだな、あれ」

 翔太も騒いでいる女子高生を横目で見ながらそう言った。

「マージャン、ってあの麻雀?」

 清が手で麻雀牌を卓の上でかき回して積み上げるジェスチャーを翔太に見せると、

「何、マナブって麻雀やるの? いや、俺は実際の麻雀はやったことないから良く判んないけど、携帯とかのゲームではやったことがあるから、ルールはちょっとわかるんだよね」

 そう説明されて、何となく意味を理解した清は、もう一度騒いでいた女子高生の方を再び見ると、もうその集団は各々の持っている携帯を開き、口もきかず静かに一生懸命手を動かしている。

 要は先ほどの大きな声を出した女の子は携帯の麻雀ゲームをやっていて、そこで自分が”親”の時に、国士無双という役満の手を揃えることができたようだ。

 清も賭けごとの様なものは花札やサイコロ、麻雀に競馬など多少なりともやったことはあるため、言っている意味は理解できる。今はそういうものも相手がいなくても一人でゲームによって遊ぶことができると言う事を知識としては知っていた。それでも今、電車の中で友達が目の前にいるのに、それぞれが携帯を使ってそれぞれでゲームをやっていて、時々ああやって声をかけ合う仲間って何なんだろう、と清は唖然とするばかりだ。

 そう考えると我が孫達は、マシな部類に入るのか、と清は複雑な気持ちを持ちながら電車に揺られていた。

 

 家に着き、最初は美咲の部屋に招かれ、途中で抜けた翔太を除いて清達は三人でしばらく談笑し、(といってもほとんど和子が美咲と話をして清はただ頷いて時々笑っているだけだったが)夕食の時間になって誠に呼ばれ、一階のダイニングに降りて行くと、そこには四人分の料理が用意されていた。まだ恵子は仕事から帰っていないようで、それは誠が作った夕食のようだった。

 驚いたことに翔太も夕食作りを手伝っていたという。誠は軽く清達に会釈して、ごゆっくり、と一言残した後、奥の部屋に引っ込んだ。誠は酔っ払った昨日のような様子は全く感じられず、体調は良くなっていたようだった。もちろん彼は清達が昨日、一緒にお酒を飲んだ人と同一人物だとは思っていない。

「お父さんの分は?」

 和子が小声で美咲に聞くと、首を傾げ

「たぶん、別に用意してあると思うよ。お母さんはまだ仕事みたいだし、帰ってきたらその時にでも一緒に食べるんじゃないかな」

 美咲がいつものことの様に答える。なるほど、そうなのか。誠なりに気を使っているのかもしれない。

 それにしても誠と翔太が作った夕食を食べるのは清にとって初めての経験だった。恵子たち家族と清達が食事をする時は、恵子と和子が一緒に料理している。

 テーブルには、キャベツの千切りの上にトマトと豚の冷しゃぶのお皿と、刻んだ茗荷と大葉の乗せたカツオのたたきが一皿、大根とそぼろの煮物が一皿、エノキと油揚げの味噌汁、ご飯はタケノコご飯が茶碗によそわれている。主菜が二皿ある一汁三菜だが、旬のものを使い、暑くなってきたこの五月の時期にはバランスが良く出来た食事だ。

 清は箸を取り、おそるおそる味噌汁を飲んだ。美味しい。次にタケノコご飯を食べた。味も染みていてなかなかのものだ。大根のそぼろ煮も口にしたが、やや薄味だが旨い。清の好みの味付けかもしれない。カツオのたたきはおそらくスーパーで買ったものを切って茗荷と大葉を刻んで乗せただけだろうが、ポン酢につけたカツオがさっぱりして食欲を増進させる。豚の冷しゃぶもゴマだれにつけてキャベツとトマトの野菜つきであっさりと食べることができた。高校生の育ちざかりの子供に出すにはあっさりしすぎているかとも思ったが、健康的な夕食で清は妙に感動してしまった。

「こういう献立は、誰が考えて作っているの? お父さん?」

 和子が翔太に聞いた。将太はご飯を口いっぱい頬張りながら首を縦に振っていた。

「時々、翔太もこれ作ろうよ、とか言ってお父さんと献立の話し合いをしてる時もあるよね。私は皿洗いしかしないけど」

 美咲が冷しゃぶをつつきながら教えてくれた。美咲は料理の手伝いはしないようだが、洗い物などはやっているのか。感心、感心。

「料理ってやってみるとなかなか面白いんだよね。まだそんな本格的なもんは作ってないけど」

 と、翔太もまんざらじゃあなさそうだ。

 清達はお腹いっぱい食事をいただいた後は、しばらく四人はリビングでテレビを見ていると、恵子が帰ってきた。翔太が清達を紹介し、今日は隣のお爺ちゃん達の家で泊まっていく、というと、恵子もゆっくりしていってね、と笑顔で言っていた。やはり恵子も和子や翔太達と共犯のようだ。清達の留守中は隣の家で遊ぶことはいつものことらしい。まあしょうがない、と清はあきれながらも苦笑するしかなかった。

 恵子達が夕食を食べるため邪魔にならないように、と翔太達は着替え等を持って清達の家に移り、先にお風呂へ入ることにした。なんと和子と美咲、翔太と清が一緒に入ることになった。翔太とお風呂に入るなんて十年振り位だろうか。当然のことながら将太はその頃よりずっと大人の体になっていた。和子が後から美咲も十分大人の体になっていたと報告があったが、当たり前のことだ。当たり前のことなのだが、それが清達には恥ずかしくもあり嬉しいことだった。

 お風呂から上がった清達は、布団を敷いて、借りた寝間着を着て寝転がり、まるで修学旅行の時のように行うパジャマパーティーを始めたのだ。将太はいつのまにかウィスキーと氷とお水、ソーダを持ってきていた。

「最近はウィスキーをソーダで割って飲むのに嵌っているんだよな」

 翔太はそう言って、清達の分も用意してくれた。洋酒のラベルを見るとどこかで見たことのあるものだった。そうだ。清が以前貰って来た結構高いウィスキーじゃないか。

「これ爺ちゃんのなんだけど、こないだ体壊してから酒、飲めなくなっちゃったから、婆ちゃんに言ってもらったんだ。結構いい値段がするやつらしいよ」

 清は和子を睨むと、笑って舌を出していた。確かに一本数万円するものだ。

 その代わりと言ってはなんだが、

「未成年だから飲んじゃダメとか固いことは言わないけど、飲みすぎないようにしようね」

 と和子はやんわりと翔太に釘を刺していた。翔太も

「ほんのちょっと飲んで気持ち良くなるくらいがいいんだよ。飲みすぎると次の日気分悪くなるし、酔っ払ってうるさくなったり、泣いたり、すぐ寝ちゃう奴っているけど、そんなんじゃ面白くないからさ。それに体にも悪いってのは知ってるし」

 どうやら分はわきまえているようだ。下手な大人よりお酒の飲み方を知っている。まあこの程度ならいいか、と清も付き合う事にした。

 清達が若い時などは、親戚などが集まると日本酒などを無理やり飲まされたことが多かった。酔っ払って痛い目に会ったことなどを経験し、周りの大人達がしっかり見守っていれば、お酒で問題を起こすようなことはない。

 それにこの年頃は大人の真似をしたがる時期である。頭ごなしに何もかも駄目だ、といっても止められるものではないから、適度にやらせておいて一定の境界線を超えないようにさせておいた方が良いのかもしれない。

 そう言った意味では和子や恵子がしっかり見張っているようなので、この孫達に関しては安心してもいいのだろう。贔屓目だろうか? 孫には甘い爺ちゃんなのかもしれない、と清は心の中で笑っていた。

「そういえば、ジィジ達、大丈夫かな。明日旅行から戻ってくるけど、昨日も一昨日も連絡なかったってお母さんも言ってたよね」

 美咲が四人分のお酒をつくりながら翔太にそう聞いた。

「まあ、いつも旅行に行ったら何かない限りは向こうからも連絡してこないし、こっちからも連絡しないからね。それに今回の旅行もツアーだろう。何かあったら旅行会社から連絡があるだろう」

 翔太は口ではそう答えながらも顔は心配そうにしていた。

「お爺さんがどうかしたの? 何か心配ごとでもあるのかい?」

 わざと清はそう尋ねてみた。おそらく清の体のことは翔太や美咲にも知らされているような気がしたからだ。和子が横で顔をしかめている。

「いや、ちょっと体壊して二か月前に退院してきたばかりだからさ。ちょっと心配しただけだよ」

 将太はそうごまかしたが、美咲は泣きそうな顔をしている。

「どうしたの?」

 清はまたわざと美咲に声をかけた。美咲は少し間を置いて躊躇った後、あのね、と言い出すと、翔太がそれを止めた。

「余計なこと言うな」

 将太の不機嫌そうな声に、美咲は下を向いて、ごめん、でも、と小さな声で呟いている。和子も横から清の腕をつついて、それ以上この話題はやめましょう、と合図を送ってきた。  

 翔太はやはり清の病気のことをうまく受け止められていなくて、その話題を避けるような態度をしている。清が入院してからもそうだった。たいしたことないんだという振りをするために、翔太や美咲は一度しか見舞いに来なかったし、翔太は退院後も妙に清と目を合わせたり、話をしたりすることを避けていた。

 逆に美咲は、見舞いに来なくてもメールで入院中の清に色々連絡をくれて、普段どおりにやってるよ、そっちは暇? などと彼女なりに何でもないような、普段どおりの態度を取ろうと必死だったような気がする。二人の行動は全く違ったものだったが、翔太は翔太なりに、美咲は美咲なりに清の体のことを心配してくれているのだと清は知っていた

 ただ昨日、清のことで誠や恵子が考えていることの一端をこの耳で聞くことで知ることができたため、翔太達からもちょっと聞きたくなったというのが清の本音だ。でもまだ二人は子供だ。こういう事を聞くのは酷だったのかもしれない。

 沈黙が続いて妙な空気が流れたことを恥じ、話題を変えた。

「そうだ、翔太くんはさっき夕飯の手伝いをしていたけど、料理は良くするのかい?」

 清は昔の人間の典型で、全く台所に入ることはせず全て和子に任せてきた。和子が恵子を出産する前やその後の体調を崩した時には少し料理らしいこともやったが、それももう何十年も前の話だ。否定するわけではなく、清は純粋に男が料理をするという事に興味を抱いていた。誠も今は主夫として料理を担当しているから余計にそう思うのだろう。

「まだ、最近始めたばかりで、ちょっと夕飯の手伝いをしている程度だけど、やりだすと結構面白くてさ。でもこいつは女のくせに全然しないんだよな」

「女のくせにって差別~! 何言ってるの。できる人、やれる人、やりたい人がやればいいじゃん」 

 話が変わってホッとしたのか、翔太と美咲は明るく喧嘩し始めた。

「う~ん、男の子が料理できるっていいことだと思うけど、女の子も料理ができたほうがいいけどね~」

 和子が話題に加わった。彼女の本音がちらりと言葉に出ている。実は誠が会社を辞めて家にいるようになってから、主夫になって家のことや料理までやることに、和子は当初、猛反対をしていたのだった。恵子には

「誠さんには家でゆっくり休んでもらいなさい。いくらあなたが働いているからって家事を男の人にやらせるなんてとんでもありません。あなたがやりなさい」

 と叱ったことがあった。

 恵子はそうではない、無理にやらせているのではなく誠が自発的にやり始めたことを止めたくないのだと説明していた。それに家の中で何もしていない方が本人には辛いのだ、何か本人に役割を持たせてあげた方がいい、もちろん無理しない程度に、体の調子が悪い時はいつでも休んでいいからと言ってある、これも体を良くするためのリハビリなんだ、とちゃんとした理由をつけて話をすることで恵子は和子をやっと納得させたのだった。

 清もその説明を聞き、その通りかもしれないから恵子達にしばらく任せてみてはどうか、と和子を宥めたほどである。

「実は俺ってさ、将来そういう道に進みたいって思い始めたんだよね」

 将太がそんな事を言い出した。

「そんな道? そんな道って、もしかして料理っていう事?」

 和子は驚いて翔太にそう聞きなおした。翔太は笑って頷いた。和子が絶句していると

「何か、マナブもケイちゃんも詳しいこと聞いてこないから説明しなかったけど、うちのオヤジって一流の大学出ていてついこないだまで銀行員でバリバリ働いてたのに、心の病ってやつにかかって会社辞めて、今は主夫やってるんだよね。で最初は男が家の中で主夫すんのかよって馬鹿にしてたこともあったんだけど、俺、そんなオヤジの料理の手伝いとかしてたら主夫って馬鹿に出来ないよなって思うようになって。だってさ、毎日食べる人のこと考えて献立考えたりしてすげえ苦労して一時間以上かけて作っても、食べたら一瞬で、下手したら十分で食い終わってたりしてさ。でも食べた人が旨いとか言って笑ってくれたりすると嬉しくってさ、料理って面白いなって思ったんだ」

 将太は熱くなって語り出した。

「それに、俺ってあんまり勉強得意じゃなかったりして、でもオヤジはすげえ頭良くって一流の企業にはいっても今はすげえ苦労してる。そんな姿見たら俺は手に職つけるっていうか、そういう世界でやっていくのもアリかな、って」

 今度は美咲が割り込んできた。

「私はヤダな。勉強して大学ちゃんと出て、お母さんみたいに働けるようになりたい。お母さんがもっといい大学出てもっとバリバリ働いて収入がよかったら、たとえ結婚した人がお父さんみたいになっても十分やってけるでしょ。私が食べさせてあげるのよ、って。だから私は勉強するの」

 恵子はそこそこの短大を出て今の会社に入り、途中で退社してから再入社したため、給料はそれほど高くない。そんな母親を見て高学歴の父を持ち、いい会社に入るにはそれなりの学歴が必要だと思ったのであろう。美咲は誠に似て勉強は確かにできる方だとは恵子からも聞いていた。翔太の亡くなった父親も誠に負けない大学を出ていたはずだが、翔太の頭の方は父親の遺伝子をもらい損ねたようだ。

 和子は孫達の将来の夢を聞いて涙ぐんでいた。清も気持ちは同じだ。こんな本音を孫から聞けるなんて思ってもみなかった。それに親達の背中が、いい意味でも悪い意味でも二人に影響を与えていることが判り、祖父母としては複雑な思いがするのは当然である。

「マナブくんやケイちゃんは将来何になりたいの?」

 美咲は無邪気な顔で清達に聞いてくる。和子は涙声で答えている。

「私なんて、そんな真剣に将来のことなんて考えてなんかいない。今のことしか考えてない。凄いよ、二人とも。真面目に将来のことを考えているんだね。ホント、凄い。尊敬する」

「僕も何にも考えてないな」

 清もそう答えながら、自分が翔太達の年頃の時に何を考えていたかを思い出していた。 

 ようやく戦争が終わり、まだ生きていくのが必死な時代で、とにかく働いて働いて裕福になりたいとしか考えてなかったような気がする。そういう時代だからしょうがないといえばそうかもしれない。

 それに比べ、今の時代はあまりにも複雑すぎて将来というものを考えるのは難しい時代なのだろう。かつては働けば働くほど社会は豊かになり、何も考えずにやみくもに走ることができた。今は終身雇用など夢のような話で会社自体、いつ無くなってもおかしくない時代だ。そう考えれば自分達の時代の方がある意味幸せだったのかもしれない。

「そういえば一昨日渋谷で、お父さんのことをからかわれたりしてなかった? あれってイジメ?」

 清は気になっていたことを思い切って聞いてみた。

「あ、あれ。イジメなんてそんな大層なもんじゃないよ。ただ、わあわあ一部のやつが面白がって言ってるだけだから、言わせておけばいいんだよ」

 それが本当なのか、確かめるように翔太の顔をじっと見ていた。

「本当だよ。あの圭太ってやつ、すげえむかつく奴でさ。一回私に告って来たことがあんの。で私が振ったもんだから妙に絡んでくるだけだから。大丈夫、大丈夫」

 告って来た、とは告白されたという事だと清は後で教えてもらった。美咲がそういうならそうなのだろう、とそれ以上は深く追求しなかった。

「でも、マナブくん、あの時すげ~カッコ良かったよね! あれ柔道だよね? 一本背負いっていうんだって? 目の前にあんな綺麗に人が投げられるところなんて初めて見たからさ。すっげえ興奮したんだよね!」

 美咲が思い出したように騒ぎだした。二人の話を聞く分にはいいが、話題が自分達に向いてくるとどうもまずい。和子がなんとか話を合わせて、清が柔道部に入っていて強いんだという事と、実は学校は北海道でそこで清が番長(今の時代にそんな人がいるのかは知らないが)だということと、過去に十人ほどを一人で倒したことがあること、今二人は修学旅行で東京に来ていて先生を無視して自由行動で勝手に遊んでいるという事、明日には帰らなければいけないという事、などと話がどんどん作られていった。

 清はその話に合わせて適当に頷くのに必死だった。そして和子がこんなに嘘の話をつくるのが上手いという事を初めて知る。そして今までいろんな所でこうやって和子に言いくるめられていたのか、と今更ながら理解できた。

 六十年余り連れ添っていても知らない面がたくさんあるのだとつくづく清は感じていた。いや知らないのは自分だけなのかもしれない。和子にはすべてお見通しなのかもしれないのだ。ただ病気に関しては和子を騙せていたことは意外だった。恵子達には、清がガンだと知っていることはうすうす知られていたのに、彼女は判らなかったようだ。ただ怖くてそう考えたくなかったというのが本音なのかもしれないけれども。

「そうだ、今日は美紀って子と透って子の間を取り持つような事やっていたけど、あなた達は彼女とか彼氏とかはいないの?」

 和子が自分達から話題を変えるために翔太達のことを聞いた。うん、うん。それは確かに聞きたいことだ。

 和子はニコニコしながら翔太達の顔を見つめている。清もどうなんだ? という態度で身を乗り出して会話に参加する。

「ちょっと前までいたけど、もう別れた。今は特に好きだと思う奴もいないし、何か女なんかと付き合う気になんないんだよね」

 翔太が答えると、美咲は大きく頷きながら語り出した。

「わかる、わかる。なんかそうなんだよね。私もつい最近まで付き合ってた子がいたんだけど来年受験だし、方向性っていうか考え方が合わなくなっちゃって別れちゃった。何かめんどくさくて」

 もしかして誠のことが関係するのだろうか、いや自分の病気のことが関係するのかと清は不安になった。

「二人とも最近別れたって言っているけど、何かそういう気分にさせることがあったのかい?」

 清は思い切って聞いてみた。自分や親のことで孫の恋愛事情にまで影響するのかと気になってしまう。翔太と美咲は顔を見合わせた後、同時に首を傾げた。こういう仕草が血は繋がっていなくても二人は兄妹なんだな、と思わせてくれる。

「何かあったと言えばあったとも言えるし、別に関係ないっていえば関係ないし」

 翔太がそう言うと、美咲も答える。

「そう言われると直接は関係ないけど、なんとなく影響してるのかも知れないね」

「影響って、何が?」

 今度は和子が二人に尋ねた。しばらく考えていた美咲が言う。

「まあマナブくんとケイちゃん達は違うかもしれないけど、なんか私達の間で男の子と付き合う、女の子と付き合う、ってお互いがすっごい好きでとかじゃなくて、まあ彼氏も彼女もいないっていうのも寂しいからちょっと付き合う? まあ、この子だったらいいか、見たいに付き合い始める事ってよくあるんだよね。いや、中にはすっごい好きで付き合う子達もいることはいるよ」

「そうそう。そう言うところはあるよな。何か最初はそういう付き合いから始まってマジになっちゃうこともあるから別にいいとは思うけど。恋愛とかってしないよりした方がいいとは思うから」

「でもなんか最近、それも違うかな、って思いだして。まだ私も翔太も結婚とかって考えてないからそんな真面目に考えなくてもいいのかも知んないけど、男と女が好きあって二人でいることって、ホントはすごいことなんじゃないかなって思うようになったからかな。そう思うと薄っぺらいなあって。今付き合っているとかの関係がそんなんじゃないなあって。なんかうまく言えないんだけど」

 翔太の言葉に美咲は続けたが、どう表現していいのか判らないようで眉間に皺をよせながら盛んに首をひねっている。

「誰かを見て、誰かの姿を見てそう感じたってことなのかな?」

 気づくと清は真剣な顔でそう尋ねていた。二人から返ってくる言葉が怖いと思った。

「う~ん。やっぱりオヤジ達と爺ちゃん達を見てっからかな」

「そうかもね。やっぱりあの人達を見てるからかも」

 翔太と美咲は二人とも天井を見上げながら答えている。この仕草もまた一緒に長く育った兄妹ならではかもしれない。

「さっきはさあ、ごまかしたけどさあ」

 いつの間にか翔太が真っ赤な顔をしている。少し酔っ払ってしまったようだ。和子がベラベラ嘘の話をしていた時に、誤魔化すためもあってついついいつものように酒をどんどん飲んでいた清に、翔太は対抗して同じペースで飲んでしまっていたようだ。

 清が喧嘩の強い男だという事に美咲がキャアキャアともてはやすのが、同じ同年代の男として面白くなかったのかもしれない。完全に翔太の目は据わっていた。

「翔太、ちょっと飲みすぎだよ」

 美咲が気づいて介抱し始め、翔太が手に持ったグラスを奪おうとするが、翔太は抵抗して美咲を突き放した。

「うるせえ。お前は何で平気に爺ちゃんとメールなんかできるんだよ」

「何よ、急に。いいじゃない。あんたみたいにジィジのことを避けてる方が不自然じゃない。ばれちゃったらどうするのよ!」

 翔太は美咲に怒鳴り返され、急に黙った。突然の二人のやり取りに和子はそわそわとしている。すでに清は本当のことを知っているとはいえ、余計な事をこの孫達が口走らないかと心配のようだ。

「何の話? さっきのお爺ちゃんの話の続きかい?」

 清はとぼけて翔太に聞いた。酷なような気もしたがやはり孫達が自分の死が近いという事に対して、どういう思いを持っているのかが気になってしまったのだ。

 翔太は肩を震わせながら喋りはじめた。

「爺ちゃんはこないだの入院でガンだって言われて。もう長くないって言われて」

 泣いているようだ。翔太は飲みすぎると泣き上戸になるのか、と妙な所に関心を持って清は続く言葉を待った。

「本人にはその事を知らないって、ただの胃潰瘍だって事にして皆で黙ってるんだ。婆ちゃんが爺ちゃんには本当のことを知らせたくない、っていうから」

「あんただって納得したじゃない。みんなで話し合って、バァバの思うようにしてあげようって、協力しようって決めたんじゃない。何をいまさらそんなこと言い出すのよ!」

 美咲が翔太にまた怒鳴っている。なるほど、そうだったのか。和子がいいだしたからなのか、と清はやっと合点がいった。

 どうしてガンのことを内緒にすることに決めたのか理解しづらかったのだが、和子自身が清に告知をする勇気が持てなかったのだろう。告知されたら取り乱すと和子が思っていたのだろうか、いや和子なら清のことを良く判っているから普通ならちゃんと告知するはずだと清は思っていた。

 それなのになぜ、家族は黙っているのかという意図がはっきりしなかったため、清はしばらく知らない振りをして様子を見ることにしていたのだった。

 和子は横で下を向いて清から目をそらしていた。恥ずかしかったのだろう。

「でもすげえんだよ、婆ちゃん。今まで思ったこと無かったけど、そんな状況になってもいつもと変わらず、爺ちゃんの面倒見ててさ。オフクロに聞いたら婆ちゃんも裏では時々辛そうな顔しているらしいけど、そんなの爺ちゃんの前では絶対見せないし。爺ちゃんも婆ちゃんのことをすげえ信用してるって言うか頼りにしててさ。そんな爺ちゃんと婆ちゃんがもう六十年以上も一緒に暮らしてきたんだよな。その間に心臓の悪い婆ちゃんが命がけでオフクロを産んだって話を思い出して。で、オヤジもオフクロもそんな二人はお互いが思い合ってるって、心が通じ合ってるって。そういうオヤジ達もすげえんだ。オヤジがすごい辛い思いしてるのを、オフクロが支えているって言うかさ。ドンと構えているって言うかさ。で、オヤジもそんなオフクロに凄い助けられているって感謝してて」

 酔った翔太の声が完全に涙声に変わっていた。美咲も首を縦に振っている。

「翔太もそう思ってたんだね。私もお母さんとお父さんのことを見てたら、凄い愛しあってるなって思ったの。支え合ってるな、信じあってるなって。でもその二人がジィジとバァバのことを見て、あの二人はもっとすごいっていうの。でも私もそう思う。そしたら自分が彼氏だとかって連れて歩いてるのが恥ずかしくなって。そこまで自分が相手のこと思いやってるかって言われたら絶対無理。できてるって言えないもの」

「俺だってそうさ。彼女のこと好きかって言われたら好きだって言えるけど、ただそれだけなんだって思っちゃってさ。俺って何やってるんだよって。相手にすげえ失礼なんじゃないかって。俺ぜってえ無理だもん。爺ちゃんがあんな風になって婆ちゃんと同じようにしろって言われたらぜってえ無理だもん」

 翔太は徐々に興奮してしまっていた。

「黙っているのが辛いのかい?」

 清の言葉に翔太は頷いた。美咲も、私だって辛いに決まってるじゃない、と、とうとう泣き出してしまった。美咲もお酒に酔って感情が露わになりやすくなっていたのかもしれない。

「だったら、明日にでもお婆ちゃんを含めて家族でもう一度話し合ってみたらどうかな。そんな苦しい思いをしていることが判ったら、君のお爺ちゃんだって喜ばないと思うよ」

 清は翔太にそう言った。横で和子も一緒に泣きはじめた。とんでもない夜になったものだ。三人が自分のことを考えて涙を流してくれている。清には複雑な思いだった。嬉しいという思いと、悲しい思いをさせて申し訳ない、という思いが入り混じった。

 いつしか泣き疲れ酔いがまわった翔太は、布団に横たわりいびきをかいて寝てしまった。それを合図に部屋の電気を消し、清達も布団にもぐりこんで寝ることにした。美咲もすぐに軽く寝息を立てて寝てしまっている。

「おい、起きてるか?」

 清は和子を小声で呼んだ。小さな声で、はい、という声がする。

「明日の朝はどうなっているだろう。お前の話だと明日は元の姿に戻っているんだよな」

「そうね。でも間違いなく酔っ払っているこの子達より私達の方が早く起きるわ。そしたらまた昨日みたいに手紙だけ置いて、こっそり抜け出して集合場所に戻ればいいわよ」 

 そんなたいしたことじゃないわよ、と言わんばかりの口調が可笑しかった。和子にとっては昨日も今日の夜も不本意な時間を過ごしたと思っているのかもしれない。清にとってはそんなことはなかった。貴重な時間を過ごすことができた。恵子や誠、翔太や美咲だけでなく、まだ知らなかった和子の隠された気持ちを知ることができたのだ。心残りはもうほとんどないと言っていい。このまま一生眠りについてもいい、と思えるほど清はこの日の夜も安らかに眠ることができた。

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