第二章~一日目

「ミツコさん、昨日話していた旅行の件なんだけど」

 和子が受け付けカウンターに座って奥にいるミツコに声をかけた。奥から丸々と太った、人の良さそうな四十代の女性が席を立って近づいてくる。

「田端さん、もう決められたんですか? やっぱり温泉ですか?」

 まだ汗をかくような時期でもないのに、ミツコの額はじっとりと湿っている。ミツコの周りだけもうすでに夏の季節に入ったかのような湿度と温度を保っていた。

 この季節はまだいいが、夏真っ盛りの時期にミツコに近づくとあまりの熱気に和子は熱中症にかかりそうになってしまうような目眩がする時がある。

「いえ、このチラシのミステリーツアーにしようと思って」

 和子は昨日ミツコからもらったチラシをバッグから取り出し、指をさした。

「え? こ、これですか?」

「そう。このツアーだと出発の日程はいつ頃になるかしら。うちはいつでもいいんだけど」

「え、え〜と、それではお調べしますね」

 料金の高いツアーをゲットしようとしていた思惑が外れたミツコは、明らかに動揺しながらも席に戻り、何やらパソコンに打ち込んで調べている。

 画面に映し出されたものをメモしてまたカウンターの前に座ったミツコは

「現在まだ募集中ですが、出発はおそらくGW明け、五月の中旬頃になりそうですね」

と説明してくれた。まだ新しく企画されたばかりのツアーで募集人数がある程度確保されないと、スケジュールが組めないようなのだ。

「じゃあ、それでお願いね。詳細は決まったら連絡貰えるかしら」

「もちろんです。日程が決まりましたらご案内いたします」

 ミツコの返事を立ち上がりながら聞いた和子は、じゃあ、と手を上げて店をでた。

 五月の半ばならちょうど混雑も少なく季節的にも緑が眩しい頃である。退院してから清の体調も悪くないため、気晴らしにはちょうどいい旅行になるだろう。

 それに和子は旅行先でゆっくりと清と二人きりで話をしたいこともある。和子は家に帰る道を気分よく歩いていた。

 

 旅行の日程は結局、五月十三日の水曜日に出発、三泊四日の土曜日までと決まった。参加は二十組四十名だという。

 チラシに書いてあった、「若い人の着る」着替えは、隣の家から和子が借りてきた。旅行は三泊四日だから、と一着は恵子から三十代に着ていたワンピースを、誠からチノパンとシャツ、ジャケットを借りてきて、あと二着を翔太と美咲から渡されたものを和子は持ってきていた。

 正確には恵子達からではなく、和子の話を聞いて面白がった美咲が、内緒で恵子夫妻の分と翔太の分も見繕って和子に渡したのだ。

「バァバ、これなんかどう? ジィジには翔太のこれなんか似合うかも!」

「ちょっとこれは派手だねぇ。あら、こんな服まであるの? いいわね〜」

「着替えっていうぐらいだから、下着なんかもいるよね。バァバ、このブラ合うかな?」

「あんた結構、胸あるのね。そうだあの人の下着もいるわ。翔太ってトランクス? ブリーフ?」

「たしかトランクスだよ。お父さんもそう。ジィジもトランクスだからいいんじゃない?」

「そうね。やだ、このアクセサリーいいわね。これも貸してくれる?」

「バァバ若いね〜! 超可愛いかも! ジィジにも翔太が持ってるチェーンとか貸そうか?」

「あのひとはそんなの面倒くさがってしないわよ」

 隣の家の美咲の部屋でそんな話が繰り拡げられていることなど全く関知せず、結局旅行の為に和子がどんな服を持ってきていたのかも清は見ることなく、完全に任せっきりでのんびりソファに座って本を読み耽っていた。


(旅行一日目)

 その日がやってきた。

「ハイ、みなさ〜ん! 時間厳守でお願いしまっせ〜!」

 ハイテンションでおかしな関西弁を使うおばちゃんバスガイドが、大きな声を張り上げて朝八時に新宿駅の集合場所へ集まったツアー参加者に呼び掛けている。おばちゃんといっても五十歳代であろう。参加者全員が六十歳以上という中では一番若いのだからお姉さんと呼ばなければいけないのだろうが、どう見てもキャラが“おばちゃん”としか呼びようがない。

 周りには夫婦と思しき人や女性同士の組もある。おばちゃんの声に引き寄せられた高齢者達がぞろぞろと集まり、バスに乗り込みながらそれぞれが名前をチェックされていく。清と和子も列に並んで乗り込む準備をする。

「タバタキヨシとタバタカズコです」

 自分達の番になり、清が名前を言ってバスのタラップを上ると、おばちゃんガイドが

「ハイハイ、キヨっちゃんとカズちゃんね」

 と勝手にあだ名をつけられた。あだ名は自分達だけではないらしい。次の人も、

「ハイハイ、トシさんにカヨちゃんね」

 と呼び名が決められていた。おばちゃんの後ろにいた運転席に座っている男の人がクスクスと笑っている。よく見ると若くて結構なイケ面だ。バスガイドとのギャップに驚かされた。こんな若い男の人が老人相手におばちゃんバスガイドと一緒にいなければいけないのが不憫に感じられる。

 名前のチェックを終えてバスの中ほどに座った清達は、乗ってくる他の人達を眺めた。多くは六十代の夫婦で清達より若い人が多い。女性同士の組もいるので全体では女性の数が多い。男性同士の組はいなかった。

 こういう旅行で男性同士というのはめったにお目にかからない。いないことはないが、大抵の人は女性、いやおばちゃんばかりに囲まれて結構肩身の狭い思いをすることになる。あの姿を見ると清は、とてもじゃないが男性同士では参加したいと思わない。和子と一緒だからこういった旅行も楽しむことができるのだ。旅行先でも出会う人々はやはり女性が圧倒的に多い。ツアーに参加するたびに旅行業界というのは女性に支えられているんだという事を思い知らされる。

「さあ皆さま、お揃いですね! それでは窓側に座っている方々は申し訳ございませんが、カーテンを閉めていただけますか?」

 窓側に座っていた和子と目が合った清は、再びおばちゃんガイドを見る。

「このツアーはミステリーツアーです。行先は誰も知りません。ですから行き先をある程度予想できてしまうと楽しみも半減してしまいますので、こちらから指示があるまではカーテンを閉めてどこを走っているか判らないようにしていただきます」

 おばちゃんガイドは、急に丁寧な標準語に口調を変えて説明しながら、運転席の後ろからカーテンのような布を引き、フロントガラスから覗く前方の景色さえ見えなくした。

「ハイハイ、お願いしまっせ〜! 早くせえへんと出発できしませんよ〜!」

 またおかしな関西弁に戻ったガイドは、窓側に座っている人に早くカーテンを閉めるよう促す。和子はしょうがなく、面倒くさそうにカーテンを閉めた。他の乗客も何も言わず従っている。

 今日は晴れ間が広がり、朝から明るい日差しが差していたバスの中が一気に暗くなった。そこでバスのエンジンがかけられた。ドドドッという音とともにガイドの声が甲高く響く。

「ハイ、それでは出発しま〜す!」

 バスがゆっくりと走り始めると、車内に灯りがついた。バスの中がざわざわと騒ぎだす。

「それでは皆様改めまして、おはようございます! 私は今回のガイドを務めさせていただくゴンドウスズコ、と申します。皆様にはゴンちゃん、と呼んでいただければと思っております。よろしくお願いいたします!」

 ガイドの挨拶に対して、パチ、パチ、とまばらな拍手が起こる。

「何や、拍手が少ないな〜。 みんな、青春を取り戻したいか〜!」

 突然拳を振り上げたゴンちゃんの動きに、乗客は皆ポカーンとして顔で見つめている。

「何や乗りが悪いでんな〜! ここに参加してる人らは青春を取り戻したい人達が集まったんとちゃいまっか? あんたは? そう、そうやんな、青春を取り戻すためにこの『あの時君も若かった』ツアーに参加したんでっしゃろ?」

 ゴンちゃんは前に座っている人にマイクを向けて強引に賛同させようとしていた。マイクを向けられた老夫婦は、ゴンちゃんの迫力に押されて思わず頷いている。老夫婦の反応が気に入らなかったのか、ゴンちゃんは再びマイクを持ち、

「なんとなく乗りが悪いけど、まあええわ。では今回このバスを運転しているナカムラトオルくんを紹介しましょう。ナカムラくん!」

 そう言って後ろを振り向き、閉まっているカーテンを見つめた。そこに乗客の目が集中する。ゴンちゃんはしばらく後ろを向いていたが

「な〜んて出てくる訳ないわな、今運転中なんやから。出てきたら怖いわ」

 と一人で笑っていた。残念ながらバスの中は見事に水を打ったような静けさが広がる。

「え〜、それでは、今回のツアーについていくつかの連絡事項をお伝えします」

 ゴンちゃんは、何事もなかったように平然とガイドの仕事に戻り、標準語で説明をしだした。

「募集の際の注意事項にも書いてありましたが、四日後の最終日までは皆さん自由です。四日後は午後の二時に先ほどの新宿駅の集合場所に皆さん集まってください。時間厳守です。もし時間から遅れるようなことがあれば、その後に何か問題があっても責任は持てません」

 突然、ゴンちゃんが真面目な話をし出したと思えばあまりにも意味不明な発言にバスの中はざわめいた。先ほどのシーンとした空気を壊すためにゴンちゃんが嫌がらせで言ったのではないかと思ったほどだ。

 集合場所が新宿駅で、これからどこに行くか判らないバスの旅に出て、三泊四日の間、自由行動して、各自が最終日に新宿駅に勝手に集まってこいという事なのだろうか?

 口々に疑問を投げかける乗客の声を無視するかのように、ゴンちゃんは、

「皆さん、お金の用意はされていますか? 若い人が着る服も用意されていますか? しっかりお金やそれらの荷物を持っていないと、これから大変なことになりますからね。お金が無いとどこにも行けないし泊まれないし集合場所にたどり着かない恐れもあります。着る服が若者のものでないと、外を出歩くのに恥ずかしい思いをしますからね」

 ゴンちゃんは早口でまくしたて、通路を歩き、今度は一人一人に何か黒いものを配りだした。清が配られたものを手に取ると、それはアイマスクだった。配り終えたゴンちゃんは、

「ハイハイ、皆さん、今お配りしたアイマスクをつけてくださいね〜! 今から音楽を流しま〜す。静かにしてくださいね〜!」

 有無を言わさぬゴンちゃんのテンポにつられ、言われるとおりに皆がアイマスクを装着する。バスの中にクラシック音楽が流れ始めた。これはモーツアルトだろうか?

 騒がしかった車内が少しずつ静かになっていく。落ち着いた音楽を聴きながら、清はなんとなく眠ってしまいそうになった。朝八時の集合だったため、今日はいつもより早く起きて旅行の準備をしたせいもあるのだろう。

 外からゴーッと大きな音が聞こえる。おそらくバスがどこかのトンネルに入ったようだ。その時、清はアイマスクの中で瞑ったまぶたの奥がチカチカと瞬き、意識が遠くなる感覚に陥った。頭がくらくらとする。耳から聞こえていたオーケストラの奏でる音が少しずつ遠くなっていくのが判る。清はいつの間にか眠りに落ちていった。

 

 クラシック音楽の代わりに、ざわざわと木々の葉が風に揺られて擦れ会う音が聞こえた。鳥がさえずる声もする。清が目を覚ますと、目の前は真っ暗だった。

 しばらくしてまぶたを圧迫する感触で自分がアイマスクをしていたことを思い出す。清は慌ててそれをはずすと、眩しい光が目に飛び込んできた。

 清は薄目を開けて少しずつ明るさに慣らしていくと、徐々に周りの景色が見えてきた。青い空が見え、緑の森と芝生が広がり、噴水や遊歩道がある。やがて清は緑に囲まれた、大きな公園の芝生に寝転がっていたことに気づかされた。

「どこだ? ここは? なぜ公園なんかにいるんだ?」

 木々の向こうには高層ビルも見える。ここは都会の中にある公園だと理解した時、辺りを見渡していた清は、すぐ隣に若い女の子が横になって寝ていることに驚いた。しかもその女の子は清の持っているものと同じアイマスクをしている。

 年の頃は十代後半くらいだろうか。ジーンズに大きなリボンがついていてフリルの水色と白の格子模様、チェックブルーのワンピースを着ていた。今時の女の子、というか孫の美咲が持っていそうな服装だ。目が隠されているので良く判らないが、色が白く、なんとなく病弱で可愛いらしい感じのする子だ。どこかで見たことのあるような気がしながらも、思わず清はその女の子に見惚れてしまった。

 突然、その女の子がムクッと起き上がり、アイマスクを取ってキョロキョロと周りを見渡し始めた。

 あまりに予備動作の無い動きに、清は反応できずに固まってしまう。じっとその子を見つめていた清は女の子と目が合ってしまった。

「あ、あの、いや、私は何も」

 やましいことなど何もないはずなのに、清は慌てて手と首を横に振り、何もしていないことをアピールしたが、女の子はキョトンとして清を見つめている。

 やがて清の姿をジロジロと見ていた彼女の視線が清の胸元に止まると、驚いたような顔をして再び清と目を合わせ、ぷっと吹き出した。

「な、何?」

 清は自分の胸元に何かがついているのかと確認すると、薄い黄色に何やら英語の文字が大きく書かれた身に覚えのないポロシャツが目に入った。腰には大きく派手なバックルがついたベルトが巻かれ、破れたジーンズを穿いている自分の姿に清は目を丸くして

「な、なんじゃ、これは」

 と思わず若くして亡くなった昔の俳優のセリフを叫んでしまった。

 清は今日の朝、和子に用意してもらったうすいグレーの長袖シャツに茶色のスラックスを着ていたはずだ。それがまるで孫の翔太達が着るような若い格好をしている。

 ん? 翔太? 清は横にいる女の子の顔を見る。ケタケタと笑っているその子をもう一度見て、やはり清はどこかで会ったことがあるような気がした。

「あ、あなた、似合うわね」

 清を見てずっと笑っている女の子がそう言った。

 声のトーン、口調。手を叩きながら喜ぶ姿を呆然と眺めながら、今度は清があらためてジロジロと女の子の姿を観察し、まさか、という思いと、もしかして、という直感を頼りに清が恐る恐る聞く。

「も、もしかして、お前、和子か?」

 彼女は声を出して笑いながら頷いた。

「あなた、若くなったわね〜! 翔太の服がとてもよく似合ってるわ!」

 若くなった? いやそれは和子の方だろう。美咲の服が良く似合っている。若くなったにもほどがある。見た目はやはり十代だ。干支を五回巻き戻したほどの若返り方だ。

「ちょっと、鏡で自分の顔、見てみる?」

 和子は楽しそうに、横に置いてあるカバンを見つけ、ごそごそと中をあさっている。確かあのカバンは和子が旅行用に持ってきていたバックだ。化粧道具やら何やら女性用の細々としたものを入れてあるブランド物だ。数年前に和子が買ってきたものだった気がする。

 そこで清は、自分の後ろに清が持っていた大きな旅行カバンがあることに気づいた。中身を少し覗き見たが、間違いなく清と和子のものが入っている。

「あら! 私もすごく若くなっちゃって! これは私が十五、六の頃かしら」

 和子は化粧直しに使うコンパクトを取り出し、ついている鏡で自分の顔を先に見て驚きながらもはしゃいでいる。

 十五、六? それなら清が和子と見合いをする六~七年前だろう。和子が二十二歳、清が二十五歳の時二人はお見合いをして、その一年後に結婚、さらにその一年後に娘の恵子が生まれた。

 清は昔の若い和子の姿に頬を赤らめた。

「あなたも自分で見てみなさいよ」

 和子は自分の顔を十分に堪能したのか、やっと鏡を清に手渡した。

 清は和子からコンパクトを受け取ると、思い切って自分の顔を覗いた。鏡に写った顔が、一瞬誰か判らなくなった。

「わ、若い……」

 自分が遠い昔の十八歳の姿になっていることを理解するのにかなりの時間を要した清は、この時やっとこの場所がどこか判った。

「ここは代々木公園か」

 一九六四年の東京オリンピック開催時に選手村として利用され、その後一九六七年に公園として一般に開放されたところだ。

 まだ小さかった恵子を連れて清は和子と一緒にここに来たことがある。そしてこんな所がもっと若い頃にあったらよかったなあ、そんな時に和子とデートができていたらなあ、と二人で話していたことが頭にフラッシュバックした。

 あれから何十年もこの公園に来たことはない。当時より木々に手入れがされて、芝生や遊歩道も人の力で綺麗に保たれている、人工的というものでなく、自然と都会が上手く調和している、そんな雰囲気が清には感じられた。

「これが『あの頃君も若かった』ツアーの意味なんでしょうかね」

 和子が森の向こうをぼんやりと見つめながら

「ビルがありますから、時代はそのままで自分達だけが七十歳ほど若返った状況のようですね。だから若い人の着る服を用意しろってツアーの注意書きに書いていたんだわ。ガイドさんが言ってた、若い人の着る服を持ってないと恥かしい思いをするって、このことだったのね」

 と、一人で納得して頷いていた。

 確かにそうだ。年が一気に七十も若返って服がそのままでは、あまりにも似合わないし、妙に目立ってしまって嫌な思いをしてしまう。しかし、なぜ二人ともこんな昔の姿に戻っているのだろうか。

「あらいやだ、結構ぴったりじゃないの。最初見た時は大きいと思ってたけど、パットが入っているからちょうどいいわ」

 和子はワンピースの胸元を指でひっぱり、自分のブラジャーを覗きこみながらまた一人で頷いている。

「何? 下着まで変わってるのか」

 清はベルトを緩め、ジーンズの腹のあたりから下着を覗くと、色は黒がベースだがやけに派手な柄の入ったトランクスが見えた。ここにも英語の文字がやたらと書かれている。

「あ、それ翔太の持っている下着から借りてきたの。美咲がジィジに似合うって見繕ってくれたのよ」

 と、和子は美咲とのやり取りを思い出しながら面白おかしくその様子を教えてくれた。

「じゃあ、お前のは美咲のやつを借りてきたのか?」

「そうよ。二日分は美咲と翔太から借りてきて、一日分は恵子と誠さんから借りてきているの」

「何? 誠くんの服や下着もあるのか」

「そうなの。だからこれからどうなるのかしらね。最終日の集合時間まで、十代の格好でいられるのか、それとも途中で誠さんや恵子達が着ていた頃の三十代の姿になることもあるのかしら。それだって五十歳ほど若返っているわけだし」

 なるほど、用意してきた服が七十歳ほど若いものだったからそれに合うように姿が変わったという事か。

 それならばもう一日は五十年若返った姿になることも確かに考えられる。一律に七十年若返るのならば、参加している人によっては幼児になってしまう人もいるはずだ。それではあまりにも不便だろう。『あの時君も若かった』といっても若すぎる。 

 ならば、若い人の服を持ってこなかったような人はどうなっているのだろうか。若返りに失敗し、そのままの姿でどこか思い出の地にいるのだろうか。いや、恥ずかしい思いをする、ってあのバスガイドは言っていたから服装に関係なく皆が若返るはずだ。それならやはり何故七十年前なのだろう。しかも二人がお見合いをする数年も前なのだ。

「あなた、何考えてるの?」

 頭の中でいろんな考えを巡らせていた清に和子が心配そうに聞いてくる。

「ああ、いやなぜこんな姿になったのかな、って不思議だったもんだから」

「あら、やっぱり、青春時代って言ったら十代半ばから後半だからじゃないかしら。だって『青春を取り戻したいと思っている六十歳以上の方』が参加するツアーだから、青春時代に戻ったんじゃないの?」

 とあっさりとした解釈をして和子はそれ以上深く考えていないようだ。まあ、確かにそれ以上考えてもしょうがない、と清も思い直した。

 清達はサイズも合わない、センスも合わない服を着させられて不自由な思いをせず、周りの若者の中に混じって楽しめることは幸いだった。やはり和子に任せておいて正解だったのだ。自分で用意していたらこんなにうまくはいかなかっただろう。

「ということはこれから三日後の集合時間まで、この若い格好で自由に過ごせって事よね。ああ、だからお金もちゃんと持ってこないと困るってガイドさんが言ってたんだわ。確かにこれから三泊はどこかで泊まらないといけないし、食事だってどこかで食べないといけないわけだから。クレジットカードはこの格好だと怪しまれるから使えないから、やっぱり現金じゃないといけなかったんだわ。よかった。思い切って三十万ほど用意してあるからどこでも泊まることはできるし何でも食べられるわよ」

 なるほど。和子の言う通りかもしれない。ガイドが言っていた『お金が無いとどこにも行けないし泊まれないし集合場所にたどり着かない恐れもあります』とはこういうことか。確かにお金さえ用意していればいろんなオプショナルツアーができるわけだ。あのツアーはウソをついていなかったことは確かだ。まあお金が無いならキャッシュカードさえ持っていれば銀行からお金をおろす分には問題が無いだろうが。

「だからといって普通に食事してどこかのホテルに泊まるっていうのも芸が無いわね。ただ若い姿をしているってだけで、青春を取り戻したとは思えないから」

「じゃあ、どうする?」

「う〜ん、若返ったからこそできる今の遊びを楽しむ、ってことかしら」

 なるほど。その通りだ。八十九歳のお爺さんではできない、この時代の十八歳なりの過ごし方を経験するってことか。

 確かに今なら体も元気に動くだろう。どこにでも行けそうな、なんでもやれそうな気力と体力がみなぎっている。

「あなたは何がしたい?」

 和子は上目づかいで清を見つめて尋ねた。か、かわいい。油断していた清は和子の姿に心臓がバクバクしてしまい、のぼせてしまったように頭が熱くなった。

「あら、あなた大丈夫? 顔が赤いけど風邪ひいたかしら」

 と和子は手を清の額に当てた。ひんやりとした和子の手が気持ちよかった、がますます顔が火照ってくる。

「だ、大丈夫だ。ちょっと暑かったから」

 清はジーパンのポケットに手を突っ込み、ハンカチを探して取り出すと清がいつも使っている紺色のものがでてきた。

「あら、ハンカチまでは用意してなかったわね。翔太達の様な今時の若い子ってどんなハンカチを使ってるのかしら」

 和子がしまった、という顔で自分もバッグから白いハンカチを出している。

「別にこの程度のハンカチなら恥ずかしくないだろう」

 話題がそれてホッとしながら清が言うと

「せっかくだから、若い人達が使うようなハンカチとかを買いに行きましょうよ。そういう買い物なんかいいんじゃない? 旅行から帰ったら美咲や翔太にあげればいいんだし無駄にはならないわ」

 いい考えが浮かんだ、とばかりに和子がはしゃぎだす。なるほど。買い物か。たしかにこの姿ならではの買い物ができるかもしれない。

「私、渋谷って一度行ってみたかったの。表参道とかじゃなく、原宿とかあっちの若い子達が行くような所。五十を超えてからはあの辺りに行くのってなんとなく気が引けたし、人混みに圧倒されて疲れちゃうから行かなかったけど、いまなら体力がありそうだから」

 和子は今にも立ち上がらんばかりに体を揺すって、行こう、行こうと清を誘った。

「そうだな」

 他にどこか行くあても思い浮かばず、清は反対する理由もないため、和子の提案に従った。たしか代々木公園から歩いていけば原宿駅にも行けるはずだ。二人は立ち上がってお尻についた芝生を払い落し、荷物を持って遊歩道を歩き始めた。

 しばらくすると公園内地図があり、原宿駅の方向が判るとそちらに向かって二人は歩きだした。空は真っ青で日差しが強く照りつける。何気なく左腕に巻かれている時計を見ると、もう時間は十時をまわっていた。集合時間は朝八時で、バスが出発してガイドから説明があったりして、清達が意識を失うまで約三十分はかかったはずだ。それからも一時間以上経っているようだ。公園で一時間も二人で話しこんでいたことになる。そんなことはここ何十年もなかった体験だ。

「あら、時計もそのままね。さすがにそこまでは借りてこなかったわ」

 和子は清の左腕を覗きこみながら、時間より腕時計が若者用でなかったことを気にしている。自分の腕時計をみながら

「若い人のする時計ってどんなのかしら」

「さすがに時計は俺達がしているものの方がいいだろう」

 和子が身につけている時計はエルメスの時計だ。十数万円はする。清は会社に通っていた時に買ったロレックスの時計で当時でも三十数万円はした。

 こんな時計を十代ではめていたら嫌みだし、似合うものでもないと思った清は急に恥ずかしくなり、時計を外して無造作にポケットの中に突っ込んだ。

「そうね。たしかに似合わないわね」

 和子も腕から外して時計をバッグの中にしまった。

 清は足元を見ると、靴は少し汚れたスニーカーだった。和子の足元には低いヒールの可愛い靴を履いている。その視線に気づいた和子は

「靴は借りてきたのよ。この一足だけですけど」

 恵子と誠からは借りていないようだ。人の靴を履くのには少し抵抗感があった清は、

「靴は買ったほうがいいかもな」

 というと、和子は大喜びをしている。女性というものはいくつになっても買い物というものを喜ぶものなのかもしれないなあ、と清は感心していた。

 清達は森をぬけると、神宮橋にでた。表参道口は平日というのにすごい人混みだ。やはり圧倒的に若い人が多い。

 清達は持っている荷物が大きいので一度どこかに預けようとコインロッカーを探したが近くには見当たらなかった。公番でロッカーのある場所を聞いた清達は、渋谷方面に向い、コンサートなどが行われる建物にあるロッカーに荷物を放り込み、あらためて原宿方面に向かって竹下口に向かうことにする。

 この間、日が照りつける中、清達はかなりの距離を歩いたはずで、普段ならならもうげっそりしてしまっているはずなのに、今は体が若いせいか元気だ。若さというのは素晴らしい。あっちこっちと歩いても全く苦にならない体を利用して、同じような年頃の人達が多く集まる街を清は和子と二人で闊歩した。

 歩いているうちに清は、平日の昼間だと言うのにここにいる子達は一体学校などをどうしているのだろう、と不思議に思った。制服を着た子も結構多い。学校がこれだけ休みなのだろうか、そんな訳はないだろうなどと考えていたが、周りからみれば清達も平日の昼間からぶらぶらしている若者達の仲間なのだ、と思うと清はだんだんそんなことはどうでもよくなっていった。とにかく今を楽しむことに意識を変えてみる。

 途中、ものすごい人混みで和子を見失いそうになったため、何十年振りかに清は和子の手をひっぱり、歩いた。清は妙に照れくさく、和子も最初は俯いていたが、すぐに周りに溶け込み、あっちへこっちへと、今度は清が和子に手をひかれながら、様々な店に連れまわされることになった。

 すぐに飽きるだろうと思っていた清だが、思いのほか、初めて見るものが多く、物珍しさも手伝ってか時間が経つのも忘れてしまった。ハンカチも買った。汗を良く吸い取るタオル地の物を二人で選んだ。天気が良くて気温が高いからなのか体が若くなったからか、良く歩いたからなのかはわからないが、二人とも良く汗が出た。そのために良く汗を吸うものにしたのだ。これなら翔太や美咲にあげなくても清達でも十分使えると和子との意見も一致した。

 靴も買った。清は汚れたスニーカーから新しいスニーカーに変えて、和子も歩きやすいカジュアルな靴に変えていた。これなら元の姿に戻ってもちょっと近所を歩くのにもはけるなあ、と思っていたらどうも足のサイズが違う。清の今のサイズは翔太の足のサイズ、26.5センチ。しかし八十九歳の清のサイズは25.5センチだ。この点は不思議だった。やはり用意した服装に合わせて体や足も調節されているように思える。

 和子はたまたま美咲と同じサイズの二十四センチ。これなら元の姿に戻っても使えるわよ、と和子は喜んでいる。清の買ったものは元の体に戻ったら翔太にプレゼントするほかないようだ。

「ちょっとお腹すかない?」

 和子に言われ、清はポケットに入れた腕時計を取り出してみると、もう十二時過ぎになっていた。もうこんな時間か。そういわれるとお腹も急にすいてきた。

「何を食べようか」

「私あれ、食べたいんだけど」

 和子の指さす方を見ると、クレープと書かれたお店が見える。クレープというものは、翔太や美咲が小さい頃に一緒に食べたことがあるが、

「お昼ごはんにクレープか?」

 清が眉間にしわを寄せると

「いろいろ食べればいいじゃない。他にもいっぱいあるし。今までと同じような考えじゃ駄目よ。若い人の感覚にならなきゃ」

 もうすでに和子は完全に十代の女の子になってしまったようだ。食事はこうじゃなくちゃいけないと決めなくても、お腹がすいたら好きな物を食べればいいのか。なるほど。栄養のバランスや健康には悪そうだな、と思いつつ、今更健康に気遣ってもしょうがない、と割り切った清に、和子は急に顔をしかめて

「あ、胃は調子悪くない? 無理して消化の悪いものを食べると駄目かもしれないわね」

 と清の体を気遣い始めた。清が二か月前に吐血して胃潰瘍の手術をしたばかりだった事をやっと思い出したかのようだ。

「大丈夫だよ。今、体は十代後半の調子になっているようだから」

 清はそう言って和子の心配を打ち消した。

「あら、そう? だったらいいわね。せっかくだから」

 和子はそう言うと、もう小走りにクレープ屋に向かっていった。本当に大丈夫かは食べてみなければわからなかったが、今更健康に気遣わなくてもいいだろう、少なくともこの旅行中は楽しもう、と清は心の中で誓っていた。

 清はゆっくりと和子の後を追う。すでに和子は注文するものを決めているようだった。清が近づくと和子は振り向き、

「あなた、何にする?」

 と聞いてきたが、その時一斉に周りにいた若い子達が和子と清の方を見た。え? と驚く二人に周りがぼそぼそと喋りながら騒ぎだしている。

「いま、あなたっていったよね」

「何かもう結婚してるみたい」

「結婚してるには若くね〜?」

 なるほど。和子が言った、あなた、という言葉に反応したようだ。確かにこの年齢の恋人同士であればおかしいかもしれない。

「あ、あの清さん、何にする?」

 和子は顔を真っ赤にしながら名前で清を呼び直した。名前で清さんなんてこれも何十年と聞いたことが無い。清は恥ずかしくなったが、ここは思い切って、

「カズちゃんと同じのでいいよ」

 とこれも結婚当初の呼び方で和子のことを呼んでみた。和子は目を丸くした後、俯いて小さな声で、うん、と頷き、自分の選んだものと同じものを店の人に注文していた。

 二人は店を出て手をつなぎ、片方の空いた手でクレープを持って食べながら歩いた。

「こんな行儀の悪いこと、久しぶりにしたわ」

 和子が微笑みながら、ほっぺにクリームをつけて美味しそうに食べている。歩きながら物を食べるなんて自分達の時代ではなかなかできなかったことだ。縁日のような祭りの時にやった覚えがあるくらいかもしれない。

 新鮮な感覚に陥っている清は、クレープを頬張りながら頷いて小指で和子の頬についたクリームを取ってやり、そのクリームを舐めた。二人はゆでダコの様になりながら、しばらく黙々とクレープを食べながら歩いていた。 

 若いというのは、それだけ食べる、という事でもあるのだろうか。クレープ一つでは全くお腹が膨れない清は、イタリアンレストランが目に付いた。ピザやパスタが食べ放題と書いてあり、一人千五百円ほどの値段だ。

 今までならそんなものを見ても全く興味を持たなかった清も、若くなった体が欲するのだろうか、急にピザを食べたくなった。ピザもまたここ何年も食べていない。恵子と誠が夫婦二人で出かける時に、翔太や美咲を預かっていた時に孫にせがまれて宅配ピザを注文したことがあるが、一ピース食べただけで胃もたれがした覚えがあり、清はそれ以来食べていない。

「ここに入ろうか。まだお腹すいてるだろう?」

 清がそう言うと、和子は案の定聞いてきた。

「ピザなんて大丈夫? パスタならいいけど、清さんってあまりこういうところ好きじゃなかったでしょ」

 いつの間にか名前で呼ぶことが抵抗なくなった和子に

「いや、今なら食べられそうな気がする。お腹が減ってるんだ。これこそ今じゃなきゃできないことだろう?」

 と清が言うと、店の入り口に置いてあるメニューをじっと見ていた和子は

「ここ、デザートも美味しそうね。いいわ、ここに入りましょう」

 と甘いものに魅かれたのか、和子は先頭になって店に入っていった。

 二人はサラダと前菜がついた、パスタとピザの食べ放題を注文することにした。清は食べ放題、というものすら注文したのは初めてだった。旅行先で泊まったホテルの朝食でバイキング形式になっているところは多いが、わざわざ食べ放題を目的としている訳ではない。そんな制度がお店にできた頃には清達はもういい年齢になっていたし、食も細くなっていたからそれほど恩恵にあずかったことはなかった。

 最初は用意されたサラダと前菜を食べ、一皿ずつパスタとピザを頼んで清と和子は二人で分けて食べていたが、まだお腹が満足しない。幸い胃の具合も調子はいい。もう一皿ずつ、先ほどのものとは違う種類のパスタとピザを頼んで二人で食べたが

「まだいけそうね」

 という和子の誘いに乗り、清達はさらにもう一皿ずつパスタとピザを食べた。

 さすがにお腹がいっぱいになってきたと思ったが、和子は更に別メニューでデザートとコーヒーを飲みたいと言うので清も付き合って注文してみる。和子はパフェ、清はティラミスを注文し、これも二人で半分ずつシェアをしたのだ。これが予想以上に旨かった。

 最近は若い男の人でも甘いものを良く食べるらしいと聞くが、清の時代では男が女子供の食べるようなものに手を出すなんて恥ずかしい、という風潮があったが、そんなものなど無い、美味しいものは美味しいと誰もが自由に食べられる若者もいいもんだ、と清は感心してしまった。

「美味しかった〜! もう食べられない」

 そう言いながらお腹をさすっている和子に普段なら清は、はしたない、と叱るところだが、今の和子はその仕草すら可愛く見える。若いって得なんだとここでも妙に納得してしまう。

「次はどこに行こうか?」

 和子はテーブルに両肘をつき、両手で顎を抑えながら頬を覆い、また上目づかいで清を見る。か、かわいい。こいつ、わざとやってるんじゃないか、と訝しく思いながら清は和子から目をそらし、

「渋谷の方までまた歩いていこうか」

 というと、パッと明るい顔をした和子が、

「そうしましょう」

 といって席を立って今にも店から出そうになる。和子ってこんなにフットワークがよかったかな。清は今回の旅行で和子の色んな面を発見している。

 線路沿いの道を代々木公園沿いに和子と手をつないで歩く清は、並木路からビルの谷間を歩いている間、ずっと和子の話をふんふんと聞いて、時折相槌を打っていた。

 普段の清ならそろそろ和子のおしゃべりも煩わしくなってくるのだが、不思議と今日は気にならない。それどころか良く聞くと、声も少し若返って高く響く和子の声が、清の耳に心地よくさえあったのだ。

 気づくと二人は渋谷駅前の繁華街に着いていた。右手に109が見える。道玄坂を若い人達がこんなに世の中にいるのかといわんばかりに通りを横切っていく。若いと言っても若干、原宿より年齢層が上がったようだ。

 人混みの流れに沿って清達も道玄坂を登る。清が時計を見るともう二時過ぎになっていた。体は全く疲れておらず、先ほどお腹いっぱい食べた胃の調子も全く問題ない。清は完全に十代後半の体になっているようだった。

「少し喉が渇かない?」

 清は頷き、和子に誘われて109のビルの上層階まで上がり、喫茶店の中に入った。そこにも甘い物がたくさんあるようだ。周りは女性がほとんどだったが、中には若い男の子もいた。

 先程の店で食べたばかりなのに、また和子は飲み物と一緒にケーキを注文している。そういう清も小腹がすいていたため、同じようにケーキセットを注文する。

 また二人で分け合って食べていると、清達をじっと見ている女の子ばかりの集団がいた。自分の顔に何かついているのかとも思い、清は手で顔をぬぐっていると、女の子達に笑われてしまった。

「どうしたの?」

 和子は不思議そうにしていたため、清が理由を説明すると、チラッとその女の子達を見た和子は、また清の顔を眺めて笑った。

「清さんがカッコイイから見てるんじゃない?」

 和子がからかうため

「バカいうな」

 と清は顔を赤らめて怒ると、和子は楽しそうに笑っている。

「清さんって若くなっても口数少ないわね」

「お前は相変わらずだな」

「何よ、お喋りだって言うわけ?」

 和子は微笑みながら

「でも、普段より喋ってるかも。だって清さん、いつもより聞き上手になってる」

「ん? 聞き上手?」

「うん。いつものように、ふん、とかそう、とか相槌は同じなんだけど、なんとなく、そう、ちゃんと話を聞いていてくれている、って感じ」

「へぇ〜、そうか?」

 清はそう言いながらも和子の言っていることは自分でも気づいていたことだ。照れくさくなって清は目線をそらすと、また先ほどの女性達と目があった。

 和子もその視線の先を追うように、もう一度女の子達のいる方を振り向くと急に固まった。

「どうした?」

 不自然な動きをする和子に清が尋ねると、ゆっくり顔を戻した和子が今度は真剣な顔で、清に小声でささやく。

「あそこにいるの、美咲じゃない?」

「なに?」

 驚いて清は和子が見ていた女の子をもう一度見ると、確かに数人固まっている中に、美咲らしい子がいる。その子がじっと清の方を見ているがその視線はどうやら清の着ている服を見ているようだ。そして和子の服と交互に見ている。

 確か、この服は和子が美咲に見繕ってもらった、と和子は言っていた。それに和子の場合はまさしく美咲の持ち物そのものである。

「あいつ、二人の服を不思議そうに見ているぞ」

 清が身を乗り出して小声で和子にそう言うと

「そりゃあそうよね。あの子の持っている服と、あの子が翔太の部屋から持ち出して来た服と全く同じものを着ている人がここに二人いるわけだから。それより何であの子がこんな所にいるの?」

 と和子もまた清と内緒話をするようにテーブルの上に身を乗り出した。

「友達と遊びにきただけじゃないのか?」

「もう学校って終わってる時間なの?」

 そういえば、と清が時計を見ると三時近くだった。

「テストか何かで早く終わったんじゃないか?」

「ああ、そうかも。それにしてもこんな所であの子ったら学校帰りに遊んでいるのね」

 清は美咲のいる方を見ないようにして和子と話をしていたが、まだ痛いほど美咲の視線を感じる。おそらく不思議でしょうがないのだろう。こんな偶然ってあるだろうか、と一生懸命考えているようだ。

「妙な感じがするから、店を出ようか」

 清が和子の耳に囁くと、和子も首を小さく縦に振った。

「お〜! 待った? ごめん、ごめん」

 何人かの男の子の大きな声が急に店の中に響くと、数人の高校生がどやどやと美咲達のグループに合流していった。

 その声に思わず振り向いてしまった和子は

「あれ? あの子翔太じゃないの?」

「え?」

 清もつられて男達の方を見ると、確かにその中に翔太がいた。すると美咲がこっちの方を向いたまま、翔太に何やら話しかけている。翔太も清の方を向いた。

「おい、早く店を出よう」

 慌てて眼を反らした清が席を立とうとすると、何と翔太と美咲がこちらに歩いてくる。腰を浮かしかけた清は席を立つタイミングを失い、俯いたまま席でじっと座っていた。

 和子も首をすくめたまま、ストローでアイスコーヒーを飲んでいる。

「ああ、ホントだ。俺の持ってるシャツと一緒じゃん。ジーンズとベルトまでそっくりだ」

「そうでしょ。でも靴は違うのよね。こっちの子の服も、私の持ってたやつとまるっきり一緒でしょ。こっちも靴は違うけど」

「ああ、そういえばこんな服、まえに美咲が着てたの見たことあるな」

 翔太と美咲が二人に近づき、清と和子の着ている服を指差して話をしている。そりゃあそうだ、お前らから借りたんだからな、と心の中で清が呟いていると

「何? 何か用なの? 私達が着ている服に文句でもあるの?」

 和子が急に振り向いて、翔太と美咲に食ってかかった。

 あまりの和子の剣幕に誠と美咲は驚いたのか、大人しくなった翔太が、

「い、いや、俺達の持っている服と全く同じだったもんでつい」

と言い淀んでいると

「こんなのどこだって売っているじゃない。だから何なの?」

 和子は更に翔太を睨む。完全に迫力負けした翔太の代わりに美咲が

「その服どこで買ったんですか?」

と和子に尋ねたため、一瞬言葉に詰まった和子は、苦し紛れに、

「このビルで買ったんだけど、何か?」

と開き直った。

「ああ、そうなんだ。私もここで買ったの。だから同じのなんだ」

美咲は納得したようだ。

「そうなんだ。偶然ね。でも同じセンスをしているって嬉しいわ」

 和子は急に声のトーンを変えて、仲良しモードに切り替える。

「ホント、そうよね。この人あなたの彼氏? こっちは私の兄貴なの。あなたの彼氏が兄貴と一緒の趣味だなんてびっくりしちゃって」

「あら、あなた達兄妹なの? 恋人同士かと思った」

「やめてくれよ、こんなブス」

「私だってあんたみたいなブサイク、冗談じゃないわよ」

 今度は翔太と美咲が喧嘩をし出した。妙な具合になってきた。和子の話術に舌を巻いた清は、呆然として三人のやり取りを黙って聞いているしかない。

「二人とも可愛いしカッコいいわよ。うらやましいわ、こんな兄妹がいて」

 和子のお世辞に翔太は思いっきり照れてまんざらではなさそうに鼻の下を伸ばしている。

「あなたの彼氏もカッコいいじゃない。同じ服でも翔太なんかよりずっとうまく着こなしているし」

 今度は美咲がお世辞を言いだした。女って怖い。清が固まっていると、和子はペチャクチャと美咲と話しだし、翔太とも笑いながら話しだした。もともと和子は普段から翔太や美咲と友達のように会話をしているが、その話術が今生かされているようだ。

 十分後、和子は清も含めて勝手に孫達と同級生、名前はマナブとケイという設定まで作り、完全に打ち解けていた。

 翔太達の友達が戻ってこいよオーラを翔太と美咲に出し始めたため、自分達の席に戻りかけた美咲が、清達に携帯電話の番号を聞いてきた時はどうしようかと思ったが、

「今携帯、二人とも親に取り上げられちゃったんだ」

 と和子がかわして事なきを得た。携帯は和子も清も持っている。しかしその番号は美咲達も知っている、お爺ちゃんお婆ちゃんの番号である。まさかそんな番号は教えられない。

 孫達が離れていったのをきっかけに、清達は逃げるように店を出た。もう一度顔を合わせるのもどうかと思い、109の中の店を見ることをあきらめ、二人はビルを出た。

「あせったわね」

 東急百貨店の本店に向かって歩きながら、和子は買ったばかりのハンカチで汗をぬぐった。

「そうだな」

 清もどっと汗が吹き出し、同じく汗をぬぐう。

 渋谷東急の本店なら翔太達のような若い子は客層として来ないだろうと話し合い、二人は百貨店を目指した。

 予想通り、店内は渋谷の街なかとは違う落ち着いた雰囲気で客層もぐっと高齢になる。しばらく歩いていると

「周りからジロジロ見られている気がするわ」

 和子は不機嫌な声で清に話しかける。

「そうだな」

 清もそう思っていた。本来ならこういう店が清達には合っているはずなのだが、若い格好をしている今は、逆に浮いているような気がして居心地が悪いものになっていた。年相応というものがやはりあるのだ。早々に清達は退散し、外に出てハンズに行くことにする。

 まだ二人とも体は疲れていなかった。若い時はそうだったかもしれない。昔は電車など交通機関なんてそれほど発達していなかった。その為、いろんな所に行くのにも人は良く歩いたものだ。走ったものだ。その分行動範囲も今の時代より狭かったが、それでも十分だった。

 この健康な体が元の体に戻った時にも維持できたら、などという思いが頭をよぎったが、すぐに清は考えるのを止めた。人間には避けなれないものがある。生老病死、だ。これらはすべて受け入れなければならない。逃げられないものから逃げようと考えるのは無駄だ。

「どうしたの? 怖い顔しているけど」

 和子がまた心配そうに清の顔を覗いている。いつも思うが和子は本当にするどい女房だ。六十年以上連れ添っているからかもしれないが、清の気持ちの変化を素早く感じている。この和子をもってしても吐血した時の清の体の変調には気付かなかった。いや実を言えば和子は気づいていた。それなのに清が大丈夫だ、なんでもない、と言い続けていたから和子も黙って見ているしかなかったのだ。

「大丈夫だ。逆にこんなに歩いても疲れない体が不思議でね。昔はよく歩いていたからかなって考えていただけだ」

 清が笑って答えると、ホッとした表情で和子は

「そう、そう。私も全然疲れてないの。若いってホント、すごいわね」

 と喜んでいる。その和子の顔を見て清も安心していた。

 二人がハンズの近くまで来ると、何やら騒いでいる高校生の集団を見かけた。

「なんだ? なにかあるのか?」

 清がいぶかしげに見ていると、和子が立ち止まり

「あれ、あそこに翔太達がいるわよ」

 と教えてくれた。清がその集団をよく見ると確かにいた。美咲もいる。

「でもさっき店の中にいた友達より人数が多くなってないか?」

 翔太達に合わないように、二人は離れたところの角に隠れて様子を見ていると、どうやら翔太達は同じ高校の別の集団と何やら揉めているようだ。

 清達は心配になり、一つ、また一つとビルの陰に入りながら翔太達に近づいて行った。

「うるせえんだよ」

「やめなよ」

「親父がプーの奴がカッコつけてんじゃねえよ」

「テメエ!」

「いいよ、相手にしなくていいから」

「何だ、仲がいいな、兄妹で。お前らやっぱりできてんじゃないのか?」

 高校生の集団の笑い声が聞こえた。どうも翔太が絡まれて美咲がそれを止めている声が聞こえる。翔太が熱くなり、相手に掴みかかろうとしているのを周りの友人達が引きとめていた。美咲も顔を真っ赤にしながらも必死に我慢をして翔太のことを宥めている。

「あの子たち、もしかし苛められてるの?」

 和子が清に話しかけて横を向くと、そこには清はいなかった。いつの間にか清は足早に翔太達に近づいている。和子がその後を追いかけた。

「なんだよ、やんのかよ」

 翔太を挑発している男子高校生が一歩前に出た。翔太が今にもその男に掴みかかろうとしているのを美咲が止めていた。

「翔太、圭太けいたなんか無視しなよ」

「お前、腹立たないのかよ」

「ほっときゃいいのよ」

 翔太と美咲が言い合っている。そこに清が割り込み、翔太を挑発していた男のすぐ目の前に立った。和子は少し離れてハラハラとしながら見守っている。

「なんだよ、てめえ」

 急に出現した清に、圭太と呼ばれた相手の男の子が一歩後ずさりする。その取り巻きの男の子数人は驚きながらも逆に一歩前に出て清を睨んでいる。翔太と美咲達も清の出現に硬直していた。

 清はじっと、圭太という高校生の目を黙ったまま睨んだ。

「何だ? お前、誰だ!」

 威勢を取り戻した彼は、清の胸倉を掴んだ。背丈は少し圭太の方が高い。

 清は持ち上げられるように首を反った、かと思うと首をひねり、彼の手を取ってそのまま体を背負う。そして清の体が沈み、圭太の足が宙に浮いて大きく弧を描きながら地面に落ちていく。圭太の体はコンクリートの道路に打ちつけられる間際に、清の腕に引かれた。圭太の体がふわりと道路の上に横たわる。

 あっという間の出来事で、何が起こったのか周囲が理解するまで時間がかかった。一本背負いで投げられた圭太も同様だ。

 清は呆然としている彼の腕をぐっと引き上げ、地面に横たわっている体勢から一気に立たせた。今度は清が胸倉を掴み、凄んだ。

「男が下らねえこと言ってんじゃねえ。今度こいつらにバカなことほざきやがったら、その頭を地面に叩きつけて潰すぞ」

 清の啖呵に周りの男達の表情が凍った。翔太と美咲も固まったままだ。知らぬ間に清達の周りにはたくさんの人だかりができている。

「あんた達、今のうちにどっか行っちゃいなさいよ」

 いつの間にか和子が翔太達のそばに来て耳打ちしていた。美咲が先に我に帰って、

「ありがとう」

 と和子に小さく頭を下げ、翔太やその他の友達の手を引きながらその場を離れていく。

 清はその気配を感じ取り、圭太から手を離して和子の手を引き、人混みに紛れその場を離れようとした。

「ちょっと待てよ!」

 さすがにやられっぱなしでは格好が悪いと思ったのか、翔太達がいなくなって標的が清だけになったからなのか、圭太達は清達の後を追いかけてきた。

「逃げるぞ!」

 清は和子の手を握り、人の波を掻き分けて走った。

「待て、コラァ!」

 相手が逃げれば追いかける方は勢いづいてくるらしい。先ほどまでビビりまくっていた奴らはそんな事を忘れたかのように清達を追いかけてくる。

 相手は五人。一人ずつ相手にすれば若返った今なら簡単にやっつけられると清は一瞬思ったが、和子もいるし、こんな姿で喧嘩をしている所を警察に捕まったりしたら、どう身分を証明するかと考えるとそんな煩わしいことはやってられない、逃げるが勝ち、とばかりに清は走った。

 驚いたことに若い和子も思った以上に足が速く、相手はなかなか追いついてこられない。東急百貨店前を抜け、ごちゃごちゃとしたホテル街に入ると

「こっち!」

 和子が細い道を曲がった途端、清の手をひっぱり一軒のラブホテルの中に駆け込んだ。入口の入ったすぐのところで息をひそめて清達が隠れていると、圭太達がどやどやと駆けつけて大きな声で叫んでいる。

「どっち行った?」

「こっちか?」

「見失ったじゃねえか!」

「おい、このあたりのホテルに入ったんじゃねえか?」

「ちょっと中に入って探せ!」 

 圭太達は、手当たり次第ホテルの中を覗き始めた。

「まずいな」

 その声を聞いた清達は、建物の入り口から遠ざかり、ホテルの奥に入っていく。そこにはエレベーターがあるだけの行き止まりで、ピカピカ光る掲示板が目に入った。

「なんだこれ?」

「これってお部屋の写真じゃない? これで選ぶのよ、多分」

「ほう、これがラブホテルか」

 こんなホテルに清達は初めて入った。テレビドラマなどでこんな風になっているような映像を見た覚えがあったがそれよりもずっと綺麗で、派手だった。

「横にあるこのボタンを押して選ぶんじゃない?」

 和子は興味津津で一生懸命、部屋の種類を見ている。

「入ってみるか?」

 清が声をかけると、和子が驚いて振り向き、

「いいの?」

と目を輝かして清を見つめた。

「しばらく部屋に入って時間を潰さないと、あいつらから逃げられないだろ」

 清が目をそらし、頭を掻きながらいうと

「そうね。それにどうせ今日はどっかに泊まらなきゃいけないんだから」

と和子はもうその気になっている。

「おい! こっちは見たか?」

 ふいに圭太達の声がホテルの入り口で聞こえた。

「まずい、早く入ろう!」

 どの部屋にしようかと悩んでいる和子をよそに、清は咄嗟に目についた、空いている部屋のボタンを押すと、ガチャッ、と鍵が落ちてきて、閉まっていたエレベーターが開き、ランプが点滅し始めた。

「いくぞ!」

 清は出てきた鍵を手に取り、和子の手をひっぱってエレベーターの中に入り、閉のボタンを押す。エレベーターの扉が閉まった後、すぐ外から圭太達の声が聞こえた。間一髪だ。圭太達の仲間数人がホテルの中まで入って清達を探している声がエレベーターのすぐ外から聞こえた。

「危なかったなあ」

 清がそう呟いていると、エレベーターが上昇して三階で止まり、扉が空いた。清達の目の前にまっすぐ伸びる廊下の先に、部屋番号の書いてあるランプが点滅している。その部屋番号が、清の持っている鍵についたキーホルダーの番号と一致していた。

「あの部屋に入れ、ってことか」

 清と和子は顔を合わせ、おそらくそうだ、と予想し、その部屋の前まで何故かそろりそろりと歩いた。清が部屋の鍵穴に鍵を差し込むと、ドアはすんなりと開いた。二人は急いで部屋の中に入る。なんとなしに後ろめたい気分になるのはどうしてなんだろう。

 清が部屋を見渡すと、その結構な広さに驚いた。昔勤めていた時に使ったことのある下手なビジネスホテルなんかよりずっと広い。奥に大きなベッドの他にカラオケセットらしいものもある。それになぜか大きな水槽があった。入口近くのお風呂やシャワー室が不思議な事にガラス張りだ。

 横では和子も物珍しそうにあちこち見ている。当然だろう。こんな部屋には今までに入ったことが無い。清達が若い頃はそんな時代ではない。物心がついた頃には日本は戦争だなんだと大騒ぎしており、そしてボロボロになってやっと戦争が終わったと思ったら食べるために必死に働き、何とか今まで生きてきたのが清達だ。

 連れ込み旅館の様なものは昔にもあったが、こんな綺麗なものではなかったはずだ。和式の畳部屋で蒲団だけが引いてある質素なものだと言う知識だけはあった。

「あの水槽って何かしらね? 何も魚なんか泳いで無いけど」

 和子も不思議そうに、高さが自分達の身長ほどある大きなガラスに水がたっぷり入ったプールの様な水槽を眺めている。ガラスの所に登る梯子がついている。

「もしかしてプール、じゃないか?」

 清がなんとなくそういうと、

「プールが部屋にあるの? じゃあなんで水の入った部分がガラスですけてるの?」 

「う〜ん。水泳選手が泳ぐ時にフォームとか見られるような、ああいうもんじゃないか?」

「ああ、なるほど。でもそもそも泊まる部屋になんでプールがあるんだろう?」

「さあ。それは判らん」

 清は近くにあった青いソファに座った。さっきまで元気だったが、走ったからか、ほっとしたからか急に疲れを感じる。

「結構疲れたわね。それにしてもさっきの清さん、格好よかったわ」

 和子も隣に腰かけた。

「昔、柔道を習わされていたからな。咄嗟に出てしまったよ」

 清が若い頃は、何かと男は逞しくなければならないと言い聞かされ、たまたま親戚で柔道の強い伯父さんがいたため、清はよく鍛えられた。父親が戦争でいない間はその叔父が父親代わりをしてくれたものだ。

「あんな姿、初めて見たわ。若返ってまた私の知らない清さんに会えた」

 和子はそう言って喜んでいる。清はお尻がむずむずするような居心地の悪さを感じていると、和子が部屋に備え付けてある時計を見た。もう夕方の五時過ぎだ。気になったのであろう、和子が翔太達のことを心配し始めた。

「あの子達、ちゃんと帰ったかしら」

「翔太達か。大丈夫だろ」

「またあの意地悪な友達に絡まれてないわよね」

「あいつらは翔太達の方には行ってないだろ」

 あの圭太とか言う奴らは恥をかかせた清を追うことで必死だったため、その間に翔太達はうまくその場から逃げおおせたはずだ。

 和子もその言葉に頷いた。

「そうね。でも不思議だったわね。あの子達と同年代になって友達のように喋るなんて」

 和子は美咲達と話していたことを思い出し、笑った。

「ああ、そうだな。でも」

 清が先ほどの翔太達の会話を思い出していた。

「でも、って何?」

「翔太達、誠くんのことをからかわれていたな」

 清の話を聞いて、和子も笑いを消した。一瞬沈黙があった。

「そうね。いつもあんなふうにいじめられているのかしら」

「誠くんが会社を辞めたのは確か俺が入院する少し前だったな」

「そう。二月の終わり頃よ。そろそろ三ヶ月くらい経つかしら」

「二年ほど前から会社も休みがちだったからな」

 銀行員だった誠が体調を崩すようになったのは翔太と美咲が今の高校の受験勉強を始めた頃だった。

 体がだるく、頭痛や動悸のする誠は、いくつかの病院で検査を受けるがどこにも異常が無いと診断されていた。最初の頃は、恵子も仕事の疲れが出ているのよ、と言っていたが、一、二ヶ月ほど会社に行くと二、三日休み、また一、二ヶ月ほど会社に行くと体調を崩し、二、三日休むと言う事が半年ほど続いたため、病院では心療内科の受診を勧められたそうだ。

 診察の結果、誠はうつ病と診断された。それまで会社を滅多に休んだことのなかった誠は、銀行で新しい部署の課長になってしばらくして症状が出たようだ。新しい職場での直属の部長との人間関係が上手くいかなかった事と、新しく出来た部下とのコミュニケーションが精神的負担になっていたようである。 

 中間管理職として忙しく働く中、誠の部下達もまた心の病で会社を休んだり辞めたりする人が後を絶たなくなっていた。それなのに銀行では職員の補充が上手くいかず、残された人達の仕事がどんどん増していき、部下の不満が高まる中、誠自身も休職中の社員のケアなど上司に報告することも多くなり、上からは管理能力を問われ、下からは突きあげられることでとうとう誠自身の精神が参ってしまったらしい。

 会社を休み始めて一年後、とうとう誠は長期休暇に入り、一時期入院したこともあった。そして結局誠は今年の年明けに銀行を退社することになったのだ。

 誠が会社を辞めて自宅療養を続けることを決心した去年の年末頃から、誠の体調は少しずつ良くなっていった。それからは共働きだった恵子が家計を支え、誠が主夫となって家の中を守る、という生活が始まった。その途端、清の入院騒ぎが起こったために清達には誠達一家がその後どういう生活を送れているのかを見守る余裕が無かった、といっていい。

 経済的には清達が支援して建てた持ち家があり、ローンもなく、収入も恵子がそれなりに稼いでいるほか、今まで貯蓄してきた誠の貯金もそれなりにある。

 清達の資産もあるから贅沢しなければ、翔太や美咲の大学卒業までの教育費がそれなりにかかっても何とかやっていけるであろう。誠も今までの様な会社勤めはできなくても体調が戻りさえすれば働く意思は十分あるようで、そのための準備を今何かしらやっているという話は和子を通じて恵子が話していたという。

 だから心配しなくていい、という恵子達の言葉を鵜呑みにして翔太や美咲のことまで清達も頭が回っていなかった。二人はもう高校二年生だ。成績なども特別良くはないがそれなりに頑張っているようだし、清から見て贔屓目かもしれないが、翔太達は素直に育ってくれていると思う。

 誠の病気についても家族で話し合って理解してくれたと恵子も泣いて喜んでいた。これからは家族で支えようと翔太も美咲もそう言ったというのだ。美咲の様な年頃なら父親など鬱陶しい存在であってもおかしくないであろうに。

 そんな孫達が父親のことでいじめられているなんて断じて許せなかった。だから清の体は自然に動いて後先考えず、あの圭太という奴を投げ飛ばしてしまったのだ。  

「大丈夫よ、あの子達なら」

 和子は清の思いを汲み取ったのか、清の腕を強く握った。

「ああ、そうだな」

 清が腕に絡めている和子の手を強く握り返した。

「でも帰ったら少し恵子達と話合わなきゃいけないわね」

「そうだな」

 清達はそのままぼんやりと、部屋の明かりに照らされて反射して光る大きな水槽を見つめていた。冷静になってみると、とても場違いな場所で物思いに耽っている自分がいることに清は急に恥ずかしくなった。

 この部屋は水色がベースの壁で、テーブルやソファァなど青色に統一されている。広くのんびりしておそらく海がテーマになっているような落ち着いた空間なのだが意味が良く判らないものも中にはあった。そのうちの一つが部屋の隅に設置されている機械だ。

 よくみるとそれは小さな自動販売機の様なものであり、その中には妙な道具が入っている。ここは若い男と女が交わる場所なのだ。そう思うと途端に恥ずかしくなった清は、和子の手を離して立ち上がった。

「何? どうしたの、急に?」

「ト、トイレだ」

 清はトイレを探して見つけると、思わず目が点になった。

「なんじゃ、これは」

 今日二回目のセリフだ。清が見たトイレはガラス張りで外から丸見えだった。シャワー室とお風呂の横にある。最初はよく考えなかったが、これでは体を洗う時も外から丸見えではないか。意味が判らん。トイレと浴槽を立ち尽くして見ている清に気づいた和子は、

「何か、あそこにカーテンあるわよ。見られたくなかったらあれで隠すんじゃない?」

 と目ざとく見つけてくれた。

「ああ、そうだな」

 清は冷静を装いながら胸をなでおろし、カーテンを引いて用を済ませた。

 トイレから出てくると、和子は靴を脱いでベッドに横たわり、何やら見ている。部屋の説明書のようなものらしかった。清の姿を見た和子は、手招きして

「ねえねえ、あの水槽ってやっぱりプールだったみたい。判ったわ。あの中を裸で泳いで楽しむみたいよ」

と教えてくれた。あどけなく言う和子の言葉通りに頭の中で想像した清は、頭痛がした。

「馬鹿じゃないか?」

 辛うじて清がそう呟くと

「水着も一応あるらしいわ。その自動販売機みたいな奴で買うらしいけど、変なやつばっかりみたい」

 和子の指さす機械を覗くと確かにお金を入れて中に入っている商品を買う販売機になっているようだ。その中には水着らしきものが入っているが、全く隠すという概念の無い代物だ。

 紐と透明なビニールでできていて、裸で泳ぐのと何が違うのかと思うようなものばかりで男性用の水着はなかった。男はあくまで裸で泳げ、という事らしい。

 頭の中でいろいろ思い描いた清は和子のいるベッドまで近づくことができず、またソファに腰掛けた。

「ねえ、食事どうする?」

 ベッドの上から和子が清に呼びかける。時計を見ると六時近かった。言われてみればあれだけ食べたのに、少し運動したからか、お腹も少し減ってきた。

「そうだな。まだ外にはあいつらがいるかもしれないが」

「部屋でルームサービスがとれるみたいよ。中華もあるみたい」

 和子がベッドから降りて来て清の横に座り、手に持った説明書の束を開いて見せてくれた。中にはパスタやピザの他にラーメンや餃子と言ったものまでいろいろある。

「さっきパスタとピザは食べたから」

「これにしない? 中華丼と餡かけチャーハン、餃子と春巻きとシュウマイなんかもどう?」

「そんなに食べられるか?」

「さっきはもっと食べてたわよ。たまにはいいんじゃない?」

「お酒、ビールもあるのか」

 清がメニューを覗きこんで見つけると

「まずいんじゃない? 中身は爺さん婆さんだけど、見た目は未成年だし」

「どうせ電話で注文するんだろ。わかりゃしないさ」

 お酒が久しぶりに飲めると判ると清のテンションは上がった。入院してからお酒は一切禁止されていた。今更、と思ったがまた悪化すると吐血したりする可能性もあるからと脅され、清はしぶしぶ言う事を聞いていたが、今日は食事制限も全く気にせず大量に食べている。若くなって頭の中身以外は完全に別物になったようだ。ならば少々無理しても大丈夫だろう。

 清が嬉しそうにしているためか、和子もそれ以上は何も言わず、ベッドの所にある部屋の電話で中華丼など食事のルームサービスを頼んだ。瓶ビールを二本含めて。

「そういえば、ロッカーにいれてある荷物、どうする?」

 食事を待っている間、清が和子に聞くと

「別に慌てて取りに行かなきゃいけないものはないんじゃない? ここはホテルなんだしアメニティはいろいろあるから。着替えるのも明日、ここをでて荷物を出してからでいいんじゃないの?」

 和子はもう完全にここで一泊するつもりで、またベッドの上で寝そべったままくつろいでいる。確かに和子の言う通りだ。またここから歩いて荷物を取りに行くのも面倒な気がしてきた。外にはまた圭太達がうろちょろしていないとも限らない。

 明日朝早くでも出れば、無事脱出することはできるだろう。それまでここでいればいいか。朝食だってルームサービスでとれるようだし。

 部屋のチャイムが鳴り、頼んだ食事が届いた。食事代は部屋代とは別で別途先に払うようだ。清が出てお金を払い、部屋の中に料理を運ぶと、和子はちゃっかりソファに座り、食事を食べる準備をしていた。

 清がテーブルに皿を並べる。ビールもちゃんと冷えていた。三カ月ぶりのお酒だ。グラスにビールを注ぎ、和子と

「青春に乾杯!」

 と訳のわからないことを言って酒を飲む。旨い! 久し振りのビールに、プハッと息を吐いた清は、むさぼるように料理に手をつけた。二人であっという間に料理を平らげる。ビールがなければ物足りなかったぐらいの量だった。

「いや〜、食べた、食べた。それに久し振りに酒が飲めて気分がいい!」

 上機嫌な清を和子は微笑んで見ている。清も先ほどの和子と同じように、靴を脱いで大きなベッドの上に大の字になって仰向けに横たわった。和子もソファから移動してベッドの端に座って清を見つめている。

「気持ちいいな〜! 若いっていいな〜! 健康っていいな〜!」

 清が叫ぶと和子は少し顔を歪めた。清は気付かないふりをして、ベッドの上で手足をバタバタと動かしていると、和子がそっと寄って来て清の左腕を枕にして横たわった。顔は清の方を向いている。

「なんだ?」

「別に」

 和子はまた笑いながらじっと清の顔を眺めている。清は和子から目をそらし、天井を見上げた。天井には大きな鏡があった。ベッドの頭の所と右側の壁にも鏡がある。いろんな角度で寝転がっている自分達の姿を眺めることができた。清は鏡越しに和子を見ていた。

「ねえ、清さん」

 耳元で和子に名前を呼ばれてくすぐったくなる。清は天井を見たまま答える。

「どうした?」

「今の清さんって、私達が出会う前の姿だよね」

「そうだな。俺が十七、八の頃の姿だと思う」

「清さんと私が会って結婚してからも少しは聞いたことがあったと思うけど、十七、八の頃って清さん、何してた?」

「七十年近く前ってことだよな」

 清は頭の中で思い出していた。時代は一九四八年頃。戦争が終って女性の流行はロングスカートにショートカット。ラジオでアジャパーやギョッ! という言葉が流れて友人達との会話の中で使われるようになる。

 アプレ・ゲールという無軌道な戦後世代とも呼ばれたこの時代、街では青い山脈、銀座カンカン娘の歌声が聞こえていた頃、これからの時代は学問が大切になるという清の母親の考えで清は大学に入る準備をしていたはずだ。

 父親は戦争で亡くし、東京の郊外で過ごしていた清達は、親戚一同が集まって助け合って生活をしていた。何をしていたという記憶はあまりない。早く終わって欲しいと心の中で思い続けていた戦争が終わり、必死に毎日を生きて、必死に勉強をした思いがある。

 大学を卒業し、機械メーカーに就職した清はがむしゃらに働いて気付いてみれば二十代半ばを過ぎていたため、親戚が心配して清の嫁にいい子はいないかと探していたところ、叔母の友人の娘に年頃の娘がいると言う事で紹介されたのが和子だった。

 その和子とお見合いの様な形で出会い、そのまま付き合いを初めて結婚。今に至る、というのが清の記憶である。

「なによそれ」

 和子が清の記憶にケチをつける。

「青春なんてものがあったのかよく覚えてないんだからしょうがないじゃないか」

 清も逆切れしてしまう。

「そういう和子はどうだったんだ」

 清が聞くと、和子は頬を赤らめ

「どんな人と将来結婚するのかな、ってずっと考えていたわ。それこそ夢見る乙女だったわ。そしたら清さんと出会ったんですよ」

「はしょりすぎじゃないか。出会うまでの間、ずっと夢でも見てたっていうのか」

 清が絡むと

「そうよ。思い続けてやっと清さんと一緒になれたんですもの」

 思い出した。そういえば和子は結婚した当初、そんな事を言っていたことがある。幼い頃から病弱だった和子は、あまり外に出たりしなかった。

 しかし十代半ばになって少しずつ元気になって外に出るようになった和子が、どこかで清のことを見かけて一目惚れをしたというのだ。それから和子は清のことを思い続けて、数ある縁談に対し健康を理由に断っていたそうだ。事実、和子は心臓があまり強い方ではなかった。

 するとある日、清の親戚の方から清との縁談が舞い込んできたという。和子は飛び上がって喜んだそうだ。そんなことはつゆ知らず、清は和子と付き合いを始めて断る理由も見つからず、また器量も良く美人でもあった和子と結婚したのだった。

「そんな話もあったなあ」

 清が照れ隠しでそう言うと、和子に腕をつねられた。かなり強くひねられ、後から見たらアザになっていたが、その時清はじっと我慢していた。

「風呂でも入るか」

 清が起き上がると、和子もしょうがなく体を起こした。二人はカーテンを閉め、別々にお風呂に入り、用意されていたバスローブを着てテレビをつけたまま、ベッドにもぐりこんだ。

 そのまま不思議な一日を過ごした清達は深い眠りについたのだった。清の胸に潜り込むように眠る和子に欲情する下半身をなんとか宥めた清も、一日の疲れとお酒のせいもあって思ったより早く寝ることができた。

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