第一章~出発前
「あなた、退院したら旅行にでも行きましょうね」
「ああ、そうだな」
小さく頷いた清が病室の窓から外を眺めると、晴れた青空に白い雲が漂い、温かくなってきた柔らかい日差しの中、大きな桜の木の枝が見えた。まだ花は咲いていない。先ほど見たテレビで、あと半月ほどすれば桜前線も関東にやってくるというニュースが流れていた。花見には何とか間に合いそうだ、などと清が考えていると、
「お酒は胃潰瘍に良くないんですから」
和子は清の心を読み取ったかのようにそう釘をさす。
「かなわないな」
苦笑いしながら今年の花見酒をあきらめた清は、かなり薄くなった白髪頭を掻きながら和子に顔をむけて、
「旅行はどこがいいだろうな」
と話を戻した。少し首を傾げながら考えて
「そうねえ。主だったところは色々行きましたから、今度はどこか変わった場所がいいわね」
和子は思いあたる場所がなかなか見当たらず、とりあえずそう答えていた。
今年八十九歳になる田端清は長年勤めあげた会社を六十歳で定年退職し、その後関連会社で五年働いてそこを辞めてから今年でもう二十四年になる。
仕事、仕事で家庭などを顧みず、趣味も持たずに馬車馬のように働いてきた清も仕事を完全リタイヤしてからは、それまでの償いをするかのように和子と様々な場所を旅行した。
北は北海道の稚内や根室、小樽に札幌、函館も行った。東北は青森のねぶた祭り、秋田は白神山地から十和田湖、岩手の三陸海岸や宮城の松島や仙台の牛タンも食べた。
松島といえば日本三景の一つである。残りの二つ、京都の天橋立、安芸の宮島も制覇した。南は九州、沖縄まであらゆる所を二人で旅したのだ。
清が会社を退職したのがバブルのはじける直前の一九九〇年。そして関連会社に再就職して世の中が不景気だと言い始めた頃の一九九五年に清は会社生活を終えた。
バブルの頃までに老後の資金をしっかり貯めに貯め、ローンで買った土地建物をバブルの絶頂期の頃に高値で売り払った清達は、その後マンションに移り住んだ。そしてさらにバブルがはじけて郊外に売りに出ていた安い土地を購入し、今の住んでいる家を建てたのが今から十五年前だ。
金利が良かった一九八〇年代に固定金利の長期金融商品を購入していた清は、退職後の今も老後の資金には何不自由することなく暮らすことができている。
清達の世代は年金もしっかりと給付され、加えて老後の為にちゃんと資産を残している人達は少なくない。
清は和子と二人で旅行をし始めて知ったが、ツアー旅行者は清達と同年代の高齢者が圧倒的に多い。今でも各旅行会社は清達の様な高齢世代を対象とした様々な企画が用意され、三十兆円といわれるタンス預金をあてにした、様々なサービス産業がしのぎを削っている。
和子は清より三つ年下の八十六歳。二人が結婚して今年で六十三年になる。和子は二十七歳で娘を一人産んだが、もともと心臓に持病があった和子にはこれ以上出産をさせるのは危険だということで、それ以降の子供をあきらめた分、一人娘の恵子に愛情を注ぎ、清達は一生懸命育ててきた。その娘も今はもう五十九歳だ。
恵子は三歳年下の銀行員だった田辺誠と結婚して、長い不妊治療の末ようやく産んだ十七歳になる孫がいる。しかも二人だ。名前は
他には犬が一匹、ケンという犬がいた。茶色い毛に黒が混じっている雑種だ。しっぽの先端は白く、機嫌のいい時に振り回すケンは愛嬌がある、とても賢い犬だ。小さい時は翔太と美咲が我先にと相手をして可愛がっていたものだが、今は一カ月前に会社を辞めて失業中の誠がケンの面倒を見ている。
エリート銀行マンだった誠は会社を去る二年前から心の病にかかっていた。約一年の長期療養の末会社を辞めた誠は、自宅療養しながら家事を行っていて今は完全な専業主夫だ。家の掃除洗濯や子供達の食事を作り、時々気分転換なのかパソコンに向かいながらなにやらやっている。自宅でもできる仕事を探しているのかもしれない。
そして恵子は結婚を機に保険会社を一時辞めていたが、子育てが一段落した五年前に同じ会社に中途入社で再就職して復帰することに成功し、今では体を壊して失業中の夫に代わって家計を支えている一家の大黒柱だ。
これが清達、三世代にわたる田端家、田辺家の家族である。
「まあ、退院したらいつもの旅行会社からパンフレットを取り寄せればいいさ。お奨めのツアーで気に入るものが何かしらあるだろ」
和子の気のない返事に清がそう提案すると和子は頷いた。
「そうね。ミツコさんに連絡して揃えてもらおうかしら」
ミツコというのは今までにもよく利用している旅行会社の担当者だ。毎年いろんな所に出かける度にミツコの旅行社を利用するため、清と和子は彼女のお得意様となり新しく企画されたツアーが出る度に案内をしてくれる。最初の頃は二人で行きたい所を探して、そこから旅行のプランを探していたが、ここ最近は旅行会社の企画されたものの中から選ぶことが多くなった。
ここ数年清達が選ぶ旅行先には海外は入っていない。国内のみだ。海外が嫌いだと言う訳ではない。ハワイやパリにも行ったことがある。健康上の理由だ。年もとり、もともと心臓が弱い和子が一度モナコに行った時に体調を崩した。それ以来、海外で何かあっては困ると娘に泣きつかれたことから、旅行先は国内と二人で決めた。それに今回手術までした清の体のことを考えると、今度の旅行先は近場の温泉でゆっくりと、というお決まりのパターンになるかもしれない。
改めて会いたいと言う人も特にはいない。今までお世話になった方々、思い出に残るという人の多くは清よりも年上の方ばかりで、すでにほとんどの方が他界されている。清の親は勿論、兄も五年前に亡くなった。
趣味と呼べるものは和子との旅行を除けば今は本を読むことぐらいだ。だから気晴らし、憂さ晴らしとなれば結局和子と旅行することが一番なのだ。
「ああ、頼んでおいてくれ。ミツコさんなら新しいものを用意してくれるだろ」
「わかったわ、そうする。じゃあ今日は家に戻るわね。明日また来るけど、あなた何か持ってきて欲しいものある?」
「別にない」
「何か本でも買ってこようか」
「いいよ。病院の売店でも売っているし、今特に欲しいものはないから」
「そう? じゃあ、また明日ね」
和子はゆっくりと立ち上がり、汚れた衣服などの入った紙袋をもって病室を出て行った。
清は一人になった個室の天井を見上げた。まだ少し疲れがあるが、胃の痛みはかなり和らいできている。もうしばらくの辛抱だ。清はまた窓の外に視線を移し、しばらく桜の木を眺めていたが、知らない間に目をつぶりそのまま眠ってしまった。
突然の吐血だった。その少し前から食欲が無く、みぞおち辺りが痛みだしてはいたが、たいしたことはないと高をくくっていた。今まで大きな病気一つしてこなかった清はやはり油断していたのだろう。
朝食を食べ終えた清は、胃にむかつきを覚えトイレに駆け込むと、先ほど食べていたご飯やみそ汁の具などと一緒に清の口から大量のドス黒い血が吐き出された。あまりの血の多さに驚いた清は、トイレの床と上半身が血まみれになりその場に立ち尽くしていたが、異変に気づいた和子がトイレを覗くと
「どうしたの? 大丈夫? なにその血!」
と、戸を開けっ放しで血に染まった清を見て大騒ぎをした。
その後和子が救急車を呼び、病院に運ばれた清はすぐに検査をしてそのまま手術、そして入院。胃潰瘍だと聞かされたが、清はこの時ほど“死”を感じたことはなく初めてこれほど長い入院生活を経験したが、その間は暇で暇でしょうがなかった。
「おかえり〜、ジィジ!」
誠の運転する車に乗せられて、久しぶりの我が家に着いた清を玄関先で孫の美咲が元気な明るい声で迎えてくれた。
ちょうど学校から帰った後だったのだろう。美咲は制服である紺のブレザーに下着が見えそうなくらい短いチェックのスカートを履いていた。その顔には化粧が塗りたくられ、異常に長いまつげが派手なメイクに負けないくらい目立っている。
清は一度美咲にその化粧や格好を注意したこともあったが、いつも清のことをジィジと呼んで懐いてくれている美咲がしばらく口を聞いてくれなくなったため、清はその後何も言えなくなった。可愛い孫にはかなわない。変な格好をしていても、愛する孫に無視されることと比べればなんてことはない。
庭にいた犬のケンもワン! ワン! と元気に尻尾を振って清を迎えてくれた。
「ただいま」
美咲とケンに声をかけ、和子と誠に支えられながら清は家に入り、玄関を上がって短い廊下の突き当りのドアを開け、リビングにあるソファに腰をおろした。いつも座っている清の指定席だ。後から美咲もついてきた。
「ジィジ、疲れた?」
あどけなく聞いてくる美咲に、清は首を横に振った。
「大丈夫だよ。ありがとう。それと、入院中、毎日メールを送ってくれてうれしかったよ」
清は入院中、美咲と携帯でメールのやり取りをしていたのだ。美咲は清が入院していてもお見舞いは一度だけしかこなかったが、毎日メールで色んな事を書いて送ってきた。
「今日は、ユッ子達と渋谷でタピオカ!」
というメールに、歌っている美咲とその友達との画像が携帯に送られてきたかと思うと、
「今、マックで勉強中!」
という文字と一緒に添付されている画像には、ふざけた顔をして真っ白なノートを広げてポーズをとり、明らかに遊んでいるとしか思えない美咲が写っていたりする。
そんなものでも退屈な入院生活を送る清にとっては、しょうがない奴だなあといいつつ顔が緩んでしまう。
この歳になって携帯の小さなボタンを押して文章を打ちメールを送り返すことができるようになるにはかなり苦労したが、毎日美咲から送られるメールを清は楽しみにしていたし、送られたメールには短いながらも感想や返事を打っていた。
とはいっても清は、美咲、翔太、など登録してある家族の名前以外は全て、ひらがなでしか送れないのだけれども。
美咲は照れくさそうに笑って、
「じゃあ、友達と約束あるから」
と、さっさと部屋を出ていった。隣の自分の家に戻るのだろう。
「まあ、あの子ったら」
和子はあきれながら奥の台所でお茶の用意をしている。誠は所在なさげにまだ居間の入口に立ったままぼんやりとしている。
「誠くん、今日は迎えに来てくれてありがとう。どうだ、そこに座ってお茶でも飲んでいきなさい」
清が声をかけると、誠は手を横に振りながら
「ああ、私はいいです。お義父さんもせっかく家に帰ってきたんですから、お義母さんとお二人でゆっくりしてください」
と言い残し、美咲と同じように隣の家に戻っていった。
「あら、誠さんも行っちゃったの? 親子そろってまあまあ」
台所から戻ってきた和子はそう言って清の分と自分のお茶を置き、清の横に座った。
清の退院日が決まった時、和子と二人で病院からバスやタクシーを使って帰ってくるつもりだったのに、平日のその日は仕事を休めないと言いだした恵子は、いつも家にいる誠に
「まこっちゃん、車でお父さんとお母さんを病院まで迎えに行ってくれる?」
と年下の夫を半ば強引に清のお迎え運転手に指名したのだ。
いいよ、と断る清に、たまには誠も外に出てもらわなきゃ、という恵子の思いも汲んで清は甘えることにしたが、車の中では何も話さず、ずっと黙っていた誠には窮屈な思いをさせたのだと清は後悔した。
誠は、体の調子が思わしくない時に車の運転をすると、後で疲れもたまって寝込んでしまう事もあるそうだ。
運転というのは集中力が必要であるため、思ったよりも神経を使う。だから今日は誠を早めに返してあげたほうがよかったのだと清は思っていた。
「まあ、いいじゃないか」
清は温かいお茶をすすり、ホッと一息ついた。ようやく帰ってきた、という実感がじわじわと湧いてくる。
和子も静かに座ってお茶を飲んでいた。いつも座っているこのソファで和子の入れてくれるお茶を二人で飲むという、ただそれだけのことが清にとってとても大切な時間だと感じた。
一時の静けさを壊すかのように玄関でガチャガチャと音がしたと思うと、パタパタという足音と一緒にもう一人の孫、翔太が慌ただしく入ってきた。
「爺ちゃん、お帰り」
ひょろりとした細い体に鼻の頭まで伸びた前髪の間から母親の恵子に似たクリッとした二重の丸い目を覗かせ、顔立ちの整った翔太は、ジーパンにTシャツ、ダウンジャケットを羽織ったラフな格好をしていた。
「おう、ただいま。翔太もいたのか」
「うん。爺ちゃんが今日帰ってくるっていうから部屋で音楽聴きながら待ってたら、車の音とか気付かなくてさ。さっき美咲から帰って来たって聞いて。爺ちゃん、結構元気そうじゃない。顔色もいいしさ」
少し茶色がかった頭を掻きながら、翔太はソファに座らず床にそのまま座った。翔太も美咲と一緒に一度病院に見舞いに来ただけで、それから会っていなかった。
美咲からのメールで、翔太も心配しているよ、と書いてきてはいたが、翔太の顔を見る限り心配していてくれたことはまんざら嘘でもなさそうだ。
美咲と違って清のことを爺ちゃんと呼ぶ翔太は、昔から感情を素直に表に出すことが苦手のようで、照れたり、ごまかしたり、強がったりする。それでも本当は気持ちの優しい、いい子なのだ。
「ああ。ただの胃潰瘍だから。もう大分いいよ。心配してくれてありがとう、翔太」
翔太はまた頭を掻きながら俯いた。
「元気そうだから安心したよ。じゃあ俺、友達と約束あるから婆ちゃんとゆっくりしてなよ。今日はうどんすきだってお母さんが言ってた。俺も夕飯までには帰るから」
翔太はそう言って立ち上がり、さっさと出て行った。
「まあ、あの子まで」
和子がそう怒ると、清は、まあまあ、とまた宥めてお茶をひとくち口に含んだ。
その日の晩御飯は翔太が言ったようにうどんすきだった。普段は清達とは別々に食事を取る恵子夫婦とその子供達も、今日は清の家の台所に皆が集まった。
野菜やえび、つくね、鶏肉などがたくさん入った鍋をつつきながら最後には卵をかけて食べる。薄味で胃の消化が良いものばかりを集めた、清の為に作ってくれた鍋だ。
うどんすきとはうどんを中心とした寄せ鍋で、旅行で大阪に行った時に食べたこの料理を清と和子はとても気に入り、冬になると店の味をまねて作り、家でも二人でよく食べる料理なのだ。
もう三月も終わりに近づき、鍋の季節も終わりつつあるが、今日は幸い気温が低い。桜の咲く前には急に朝晩が冷え込む時がある。今日はまさしくその日なのだろう。鍋を美味しく味わうにはとてもいい夜だった。それにやはり鍋は大人数で食べたほうが美味しい。
体は細いが黙々と食べる翔太や、食は細いが一つ一つ味わいながら美味しそうに食べる美咲の姿を見ながら食べる夕食は、話題が少なくても清にとっては心温まる空間だ。
「ジィジ、食べてる?」
「お父さん、鶏肉食べた?」
「お義父さん、お酒は飲めないんですよね」
「爺ちゃん、もっと食べなよ」
「あなた、うどんは消化にいいわよ」
時々、皆それぞれが清を気遣いながらも、食事が淡々と進められる。清は、うんうん、と頷きながら少しずつゆっくり噛みながら野菜とうどんを中心に食べていた。
久し振りに食べるうどんすきは旨かった。胃にも優しく染みわたる。食卓を囲む皆の優しさも心に染みた。
食事が終わると、和子と恵子は台所で後片付けをしながら、清達はリビングに移動してテレビをつけてニュース番組を観ていた。
清はソファのいつも座る場所に陣取り、自然と静かに目を閉じていた。しばらくすると周りは静かになり、清がこっそり目を開けると横には和子が一人座ってテレビを見ている。恵子達はいつの間にか隣の家に戻ったようだった。
「あいつら、もう帰ったのか」
清が和子に聞くと、驚いたように清の顔を覗き
「あら、起きてたの? 大丈夫? あなたが寝ちゃったからってみんな気を使って帰っちゃったわよ」
心配そうにしている和子をよそに清は笑いながら舌を出した。
「寝たふりでもしておけばあいつらも無理してここにいなくて済むだろう?」
「な〜んだ、ふりだったの。心配したじゃない」
和子は笑いながら清の腕を叩いた。
「まあ無理して一緒にいてもらっても息苦しいだけですからね」
和子も清に賛同してそう頷いた。また穏やかな二人だけの時間が流れ始める。家族が全員揃うのは時々でいい。
お互いの生活を干渉しないようにと入口も全く別々の家を建てたのだから。特に今は和子と二人の時間を大切にしたいと清は思っていた。
和子がすっと席を立ち、耳かきを持って来てまた清の横に座る。そして清の右耳の穴を掃除し始めた。清は時折和子のやりやすいように頭を動かし、黙ってされるままにしている。
これは結婚当初からの習慣だ。耳の穴がかゆいと清が言った訳でもないのに、二、三日に一回、黙って和子は清の耳掃除をしてくれる。わざわざ寝転がって膝枕をするのではなく、清が座ったまま、テレビを見たり本を読んだりしている横で、和子が中腰になったり膝で立ったりしながら清の耳の中を覗き込むのだ。
和子に言わせると、したいからしているという。和子は何かにつけて清の面倒を見たがるのだ。特に嫌がる理由もないため、清は和子のしたいようにさせてきた。それがもう六十年以上続いている。
夜になり約三週間ぶりの我が家のベッドに潜り込んだ清は、隣で寝息を立てる和子の横顔を見ながら安心して眠ることができた。
桜も咲き始め、清が退院して一週間ほど経ったある日、清がリビングでくつろいで本を読んでいると、ドタバタと和子が帰ってきた。
「あなた、パンフレット貰って来たわよ」
和子がリビングのソファにどっかりと座り、旅行会社のロゴの入った封筒を取り出すと中身をテーブルの上に広げた。
手に持っていた本を脇にどけ、十数部ほどあるパンフレットの中から一つ手に取った清は和子に尋ねた。
「ずいぶんたくさん揃えたね。これ全部ミツコさんが用意してくれたのかい?」
「そうなのよ。退院したお祝いと療養も兼ねて、いいのが無いかお願いしてあったの」
良く見れば確かに温泉地が多い。清が手に取ったものも箱根、湯河原の美食と露天風呂を売りにしているものだった。
「でも箱根も熱海も近くの温泉地はたいてい行ったことがあるからなあ」
「場所はそうでも泊まる旅館やホテルが違うからいいんじゃない? 今は長期滞在型のいいホテルができているからゆっくり温泉に浸かって美味しいもの食べて、部屋の中でのんびりするのもいいと思うけど」
和子はそう言いながらも他のパンフレットを見比べている。もう一つパンフレットを手に取るが、いかにも雰囲気はよさそうだが高級旅館で結構な値段のするものだった。
「結構高いプランのものが多いな」
「そうなのよ。最近旅行会社も不況で厳しいみたいだから、ミツコさんもちょっと営業トークが入っていたのが気になったのよね」
清達は旅行に行く時、あまり値段にこだわらない。良い所にはそれだけの価値があるからと一人一泊五、六万する旅館に泊まったことだって何度もある。
ミツコさんにとって二人は上得意のお客だからであろう。せっかくのチャンスとばかりに成績の上がる値段が高めなものを中心に勧めてきたようだ。
清は何となく気に入らなかった。今更ケチるわけではない。ただ、そういう場所で本当の安らぎが得られるかどうかが疑問に感じただけだ。
和子もなんとなく同じように思っているらしい。さっきまでそういうのもいいんじゃない、と言っていたのにパンフレットを見ながら和子は盛んに首を傾げている。
一つ一つ見ていく中で、清はキチッとした厚いパンフレットの中に、一枚だけ安っぽいチラシのような紙で手書きのツアー案内が目に付いた。
それを手に取り目を通していると、
「ああ、それは今新しい企画のものとか変わったものはないの、って聞いたら一応ってミツコさんがいれてくれたのよ」
と和子が身を乗り出してチラシを覗きこんできた。そこには
― 『ミステリーツアー! 行き先はヒ・ミ・ツ! 今、青春を取り戻したいと思っている六十歳以上の方々にオススメ! 「あの頃君も若かった」ツアー大募集! 』―
と書かれている。値段は三泊四日で一人参加費として一万円と超格安だが、たくさんのオプショナルツアーがあり、その費用は別途必要となるため現金などを事前に多めに用意してください、と注意書きがされている。
「なんだこりゃ?」
「面白そうでしょ? 変わったものって言ったらミツコさんが渋々奥から出してきたのよ」
「確かに変わってはいるけど怪しくないかい?」
「そうでもないらしいのよ」
和子は思い出し笑いをしながら説明してくれた。
最近ミツコの旅行会社の本社が企画した特別格安ツアーらしく、評判はいいのだがミツコにとってはあまり売り上げに貢献しない企画ものらしい。業界の中堅旅行会社とはいえ、その本社が企画していてそれなりに評判がいいのなら詐欺まがいのものではなさそうだ。
チラシをもう一度よく読むとさらに注意事項が書いてある。
・出発日の集合時間は時間厳守。最終日の集合時間も時間厳守。その間の行動は自由
・当日は若い人が着るような服、着替えを持参すること。
「良く判らんな。集合時間厳守なんて当たり前のことを書いていると思ったらその間は自由っていうのもなあ。それに若い人が着る服を用意しろってどういう事だ?」
「そういう事を含めてミステリーツアーなんだって。面白そうじゃない?」
珍しく和子はこんな格安ツアーなのに興味津津のようだ。いつもならあんまり安すぎる旅館は食事がまずそうなどと嫌がるはずなのに。
「食事とかはオプションで選べるらしいのよ。美味しいものを食べたければ高い値段を払うことになるみたい」
和子はその点もちゃんと確認済みのようだった。おそらく一万円というのは単なる交通費程度で、宿泊先や食事は出すお金で自由にランクを選ぶことができると聞いたようだ。
「自由に選べるというのはどの程度か判らないが、確かに面白そうだな」
だんだん清もこのツアーの不思議な魅力にひき寄せられてしまっていた。和子もすでに乗り気十分のようだ。
「じゃあ、これにする? いい? 明日にでもミツコさんに連絡して日程を相談してこようかしら。服はそうね。恵子達に借りるか、思い切って美咲達に借りる?」
和子の頭ではもうすでに決めてしまったかのようだった。
「ああ、日程はいつでもいいよ。服は念のため両方から借りてくればいいよ」
清は和子の機嫌を損ねないように、全て任せることにした。と言ってもいつも旅行の準備などはすべて和子任せだ。
着ていく服や下着など様々なものを、和子は事前にきっちり用意している。清のやることと言ったら旅行の行き先を決める時に、いいよ、と賛同することと、出発日当日に旅行中に読む本を自分で選んでカバンに詰めることだけなのだ。
「うん、わかった」
そう元気に返事をした和子は翌日、さっそくミツコさんの所に行き、申し込みに行った。
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