第3話 どこにも行けず、歩き出せないまま

杣岡そまおか……、」

 彼女の死を知ったのは、朝のニュースだった。死体を近くの川に捨てようとしていた母親が現行犯で捕まったという、気分の重くなるニュースだった。


「あれ、この子の学校って歩美あゆみと一緒?」

「おんなじクラスの子だよ」


 のんきにトーストをかじっていた父の驚いた顔に見送られながら、私は支度を終えて家を出た。雨が降りそうな朝の空は優しい乳白色で、もっと重苦しい空模様だったらよかったのにと苦情のひとつでも叩きつけたくなってしまった。


   * * * * * * *


 杣岡――杣岡 あいを知ったきっかけは1年の夏、私が当時片想いしていた相手をフッたことだった。それまで、杣岡なんて教室の隅で縮こまって読書でもしているような、目立ちようのないクラスメイトに過ぎなかった。

 だけど、認めたくなかった――彼から見て、そんなやつに私が劣っているということを。そして彼女に選ばれなくなった彼が私を見ることなく、執着を続けることになるなんて。


 だから、彼女が憎かった。

 私より目立たないくせに私よりも美しかった彼女が、結果として彼に幻滅させることで私の恋を終わらせた彼女が、そんなことをしても尚、自分が路傍の石だと言わんばかりに伏し目がちで過ごしている彼女が。

 最初は、些細な嫌がらせをするくらいだった。友達数人とつるんで彼女を無視する――といっても、彼女には気にした様子はなかったけど。それでも、なんとなく気は晴れていた。


 だけど、誰かが言い出した。

『反応しないやつを無視してても意味なくね?』

 みんなすぐに賛同して、言い出しっぺの私なんて簡単に置いてけぼりになって。最後の最後に『歩美もいいでしょ?』と訊かれて、頷くことしかできなくて。

 それから、杣岡への態度は一変した――クラスの中心にいて影響力もあって、何より元々嫌がらせを最初を始めていた私の名前を使って。


 教科書を破るのは当たり前、机に入っていたコンビニのパンをトイレの水に浸けてから戻したり、机に彼女を貶めるような落書きまで始まった。

 でも、杣岡は私たちを一瞬睨むだけで、何も言いはしなかった。全部諦めたような顔で、黙って過ごすだけ。担任は事なかれ主義だったし、何より私に対して下心を持っていたから杣岡を助けるような真似もしなかった。どんどん孤立して、誰からも嘲笑の的になって、ウリをしてるっていう噂話を信じたやつから絡まれるようになっても、杣岡はその諦めたような顔のまま、ずっと教室の隅にいた。


 ……なんで。

 なんで、そんな風にしていられるの?

 私だよ、あんたの学校生活を壊した元凶は、あんたがすげなくフッたやつよりももっと大したことない、この私なんだよ?

 知ってるでしょ? どうせ誰かが私のこと売ってるだろうことはわかってるし、だったらもっと私を恨みなよ――そう叫びだしそうになることもあった。


 でも、滑稽そうに笑う友人たちの前では、そんなことできない。泣いてなんかいられない、笑っているしかない――そして杣岡は一度だけ、そんな私を見たことがあった。

 そして一言、聞こえるか聞こえないかくらいの声で『大変そうだね』と、呟いた。


 たぶん、きっかけがあるとすればそれだ。

 それ以来、私はずっと、杣岡のことばかり見ていた。


   * * * * * * *


 杣岡が死んだことは、クラス中に知れわたっていた。重苦しい空気のなかで1分間の黙祷を捧げる時間が設けられて、その間にもなんか手紙が回ってきたりしたけど、正直目を通す気にはなれなかった。

 ただ、杣岡に訊きたかったのだ――あんたはそんなに、白野しらののことが好きだったの?


   * * * * * * *


『やだっ、やだぁっ、やめてよ、ねぇ! 離してよぉっ!!!』

『無駄だよ、こいつ歩美の奴隷だから。歩美のいうことはなんでも聞くの。ていうか、お前うるさいし』


 2年の始めに転校してきた白野あいをクラスのやつに襲わせたのは、見てしまったからだ。白野が杣岡の机を見て動揺しているのを――そして、そのときの杣岡があからさまに表情を曇らせたのを。

 頭を殴られたような痛みが走った。


 ねぇ、なんで?

 私たちが今まで何をしても大して表情も変えずにいつも通りだったくせに、なんでそんな今日きたばっかりのやつの反応に、そんな顔するの? ……私は、また余り物になるの?


 頭が真っ白になっていて、気付いたら白野が放課後の教室で泣き叫んでいた。きっと今まで綺麗なものしか見てこなかっただろうその目を大きく見開いて、やがて何も言わなくなって。

 ……いい気味だと思う暗い喜びと、それを嬉々として実行する男への嫌悪とがない交ぜになった気持ちのまま、その様を見続けていた。

 内腿を伝い落ちるものも気にすることなくただ呆然としている白野に、私は吐き気を堪えながら、杣岡と仲良くなるように命令した。


『明日から、杣岡と仲良しになりなって言ってんの。あいつ最近何しても反応薄くてつまんないから、仲良くなって仲良くなって仲良くなって、最後にネタバラシしなよ』


 杣岡の表情が変わるなら、私がよかった。

 私のせいで変わってほしいと、そのときはっきりと思ったのだ。この転校生が絡むことで杣岡の顔を歪ませられるなら、私がこの女を使う。そうすることで、杣岡に影響を及ぼせる自分に満足する一方で、どうしてだろう、虚しさも覚えた。

 そして、杣岡と白野が距離を詰めていく様を、ずっと見てきていた。白野が『目的』を忘れてしまわないように、1日の終わりには絶対に報告させるようにした。杣岡の様子を知ることもできたし、白野にも、ふたりの間には本当の友情なんて芽生えていないんだという自覚を持たせることができると思っていたから。


『……っ、っく、うぅぅ……』

『泣いてたって何も変わらないでしょ……。あの、明日からできなくなりそうなら、』

『ううん、やるよ』


 1度、杣岡から強く拒絶されたと白野から泣きつかれたことがあった。いっそ白野は杣岡から離して、私とかが代わってもいいかもというくらい。あとでネタバラシするという前提で、周りだって納得させてみるつもりだったけど、その提案は拒否されてしまう。

『今度ね、ハロウィンの仮装パーティーに誘うつもりなんだ。そのときにね、ふふふ』

 電話越しに聞いた白野の声はその直前とはうってかわってどこか楽しそうで、それからはなんとなく、白野からの報告とか、次はどうやって“仲良く”なるかという作戦会議とか、ずいぶん積極的になっていて……、少しだけ怖かった。


   * * * * * * *


 杣岡は、どうやら自殺だったらしい。

 彼女を捨てようとした母親は「葬式をあげるのが面倒だった」とか言っていたらしくて、杣岡自身は、どうやら『自殺とみられる』らしかった。


 私が何をしてもなんの反応もしなかった杣岡は、数日前に私と白野が話しているところを見てから、目に見えて変わってしまった。

 感情の起伏が激しくなって、授業中に突然泣き出したりするようになった――慌てて白野がフォローしていたけど、どこかよそよそしさの窺えるものでしかなくて、ふたりとも辛そうに見えた。かと思えば、前にも増して反応が鈍くなり、時々調子に乗った男子がぶつかったりして転んでも、何も感じていなさそうに見えるときすらあった。

 身体の痣も隠さなくなって、時々上機嫌になって、泣いて、笑って、クラスのみんなから怖がられるようになって。


『また明日』

 普段絶対に言わないことを、遠巻きに見つめていた私たちに向けて言ったあと、杣岡は自殺した。

 そして、クラスの空気は一変した。


「これってさ、歩美のせいだよね」

「あそこまでやらなくてもよかったんじゃない」

「杣岡さん可哀想だったよね」


 わかっていた。

 そんなことが起きれば、こうなるよね。

 あんたたちだって一緒になって、しかも私よりももっとえげつない提案とかしてたじゃんか。私の名前使ってどんなことさせてたか、知らないわけじゃないんだよ。


 ……言い訳でしかないか、こんなの。

 私だって、杣岡のことは嫌いだった。

 杣岡なんていなければいいと思った。

 だから、これは私のしたことなんだ。

 わかってるけど、胸がひどく痛んだ。


   * * * * * * *


 杣岡が見つかった川の近くには献花台のようなものが置かれていて、そこには色とりどりの花が手向けられていた。こんなので罪滅ぼしになるはずなんかないのに、クラスメイトたちの花が目立つように置かれているのに笑いが漏れそうになった。

 杣岡が死んで間もなく、私はクラスで孤立した。別にそんなのは辛くなかった――いつかはこうなると思っていたし、私にはそうなるだけの理由もあったから。

 けど、杣岡は?


『大変そうだね』


 あの日向けられた冷めた目が、今でも鮮明に蘇る。あんな目を私に向けるのは、彼女しかいなかった。私を見破ったのは、彼女だけだった。

 白野から聞いた彼女の好きな物事はいくらでも思い出せるのに、もうその彼女はどこにもいない。


 当たり前だ、私たちが壊したんだ。

 私の望んだ通りに、願った通りに。

 それなのに、涙が止まらなかった。


「ごめん……、ごめん、杣岡……っ」

 我ながら反吐が出る……本当に、最低だ。

 虫がいい、赦しを乞う資格なんてない。

 止められなかった、いや違う、そんなの違う!

 止める機会はあったし、彼女への気持ちが少しずつ変わっていたことだって、気付いていたはずだった。だけど、認めなかっただけだ、いろんなものが怖くて、背を向けただけだ。

 もう全部が手遅れで、もう全部遅くて、そんな私は、


 ずぶ――――――。

 変な感触が伝わって、脇腹が急に熱くなった。


「え、……ぁ、」

 世界が暗くなる、色が、なくなる。

 藍色に染まっていく茜空が、黒く染まっていく……痛い、冷たい、あれ、おかしいな、あれ、あれ。

 世界は傾いて、どんどん色を失って。

 誰かの足が、目の前に見えて。

 見上げた私は、納得した。

 だよね、そうなるよね。


「謝ったからって何になるの? 藍ちゃんがいないからって今更都合のいいこと言ってんじゃねぇよ、くそ女」


 最後の景色は、見たこともないような憎悪に燃える、白い星だった。

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百合の花はあまりに白く 遊月奈喩多 @vAN1-SHing

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