第2話 狂おしいほどの群青を、抱き締めたくて
「やだっ、やだぁっ、やめてよ、ねぇ! 離してよぉっ!!!」
「無駄だよ、こいつ
「――んむっ、んっ? んぅ! …………っ、」
「ほんとありえない、
嫌だ、汚い、怖い、気持ち悪い、やめて、離して、許して、やだ、やだ、やだ、やだ、やだ、やだっ!!
痛い――え、うそ、なんで?
なんでこんなことされてるんだろう、なんでこんな目に遭ってるんだろう? なんで、なんで、なんで?
新しい高校で迎えた、最初の日。
すごく楽しみにしてたのに。
新しい環境で、新しい人と出会って、新しい友達を作って、もしかしたら恋人なんてできてしまったりして??
そんなこと、思ってたのに。
春と呼ぶにはまだ寒過ぎる、転校初日。
わたしは、クラスメイトの女の子に嘲笑われて、その奴隷だとか言われてもなお血走った目をわたしに向けてくる男の子に押さえ付けられながら、人生最悪の放課後を迎えていた。
口に咥えさせられた雑巾は臭くて、お腹の奥がずっと痛くて、揺さぶられた頭は気持ち悪くて、埃と変な臭いのついた制服が悲しくて、それでも、涙が出てこなかった。
ただぼんやりと、それが終わるのを待っていた。動物みたいな生温かい息が髪にかかって気持ち悪い、自分じゃないものが自分のなかを行ったり来たりするのが気持ち悪い、気持ち悪いことだらけだ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ。
暗くなる、お母さんが心配しちゃうかな……そんなことを思っていたら、お腹にすごく熱いものが流れ込んできて、それは終わった。
泣く気にもなれなくて呆然としていたわたしの頬を蹴りつけながら、歩美さんは命令した。
「ねぇ
「……ぇ、」
「明日から、杣岡と仲良しになりなって言ってんの。あいつ最近何しても反応薄くてつまんないから、仲良くなって仲良くなって仲良くなって、最後にネタバラシしなよ」
「え、なんで、そんなの……、」
そんなの、ただのいじめじゃ……
「じゃあ杣岡にしてたようなことも、あんたにしてやろうか」
抵抗しようとした言葉は、低く落とされた声に握り潰された。可哀想だとか酷いだとか、そういう言葉すら、もう言えなかった。
杣岡さんと……同じ?
あんな机に酷いことばっかり書かれてたのに、隠すことすらせずに普通に座っていた姿を思い返してしまったから。きっと、あんなものじゃない。彼女と同じ目に遭うっていうのは、きっとそういうことだから。
だから、わたしはその次の日から、杣岡さん……
* * * * * * *
藍ちゃんは無口で表情も大して変わらない子だったけど、毎日一緒にいると少しずつ彼女の思っていることがわかるようになってきた。
学食のカレーうどんライスが大好きで、トッピングに福神漬けマヨネーズナンがある日はすごくご機嫌になる。あとうさぎが好きで、休みの日にうさぎカフェに行くと終始デレデレしている――それをわたしには気付かれていないと思っていそうなところが、とても可愛かった。
それと、制服を着て俯いているとわからないけれど藍ちゃんはとても綺麗な子だった。サラサラの黒、というより濡羽色と言った方がいいような髪の毛に、黒真珠のような瞳、それにぬけるように白い肌。なんていうか、きっとちゃんとした服を着ていればクールビューティーなんて言われるような子なんだと思った。
けど、わたしに対してはなんだか冷たかった。最初は人見知りとかで警戒されているのかな、と思っていた。そのうち、クラスの人たちにも虐められていたうえに、先生もそんな彼女を助けてくれないことも知った。
だから、人を信じるのが嫌になるのも仕方ない……そう理解はしたつもりだった。
けど、限界が来た。
「じゃあ藍ちゃん、また学校でね!」
帰ったら歩美さんたちに藍ちゃんとのことを報告しなくちゃいけない――だから、彼女との時間はここまでだ。
いつからか、ただ強制されていただけだった藍ちゃんとの時間が終わってほしくないほど大切なものになっていることに戸惑いながら帰ろうとしたとき。
「そろそろそういう演技鬱陶しいんだけど」
「え、」
真正面から投げつけられた言葉は、あまりに痛かった。
「ま、いいや。じゃね」
そのあと、どうでもよさそうに帰っていく彼女の背中が、あまりにも苦しくて――そんな資格なんてないのに、わたしは藍ちゃんを引き留めていた。
「どうしてわたしを頼ってくれないの!?」
悔しかった。
もう友達ごっことか歩美さんのこととか、どうでもよかった。ただ、一緒に過ごして本当に楽しかった時間を全部否定するようなその呟きだけは、放っておきたくなかった。
学校だとわたし以外誰からも相手にされないくせに、酷いことされてるだけのくせに、全部諦めたような顔してれば幸せになれるなんてこともないのに、どうして目の前の楽しい時間をそうやって否定するの!?
わたしは、救われていた。
彼女の姿に、ふたりだけの時間に、ふたりでいるときには楽しそうにしている藍ちゃんに、毅然としている姿に、救われていたのに。だから、藍ちゃんにとってもそうであってほしかったのに。
身勝手さに涙が溢れる。こんなこと言ってるやつとなんか、いたくないよね、ごめんね、そう思っているのに、口から出てくるのは「どうして」という言葉ばかりだった。
信じてほしかった、『
「お前、うざいんだけど」
その一言が、わたしの喉を萎縮させて。
世界から、色が消えた気がして。
その次の日から、わたしはより一層藍ちゃんに付きまとうようになった。少しずつ気を許してくれているのが伝われば伝わるほど胸は痛かったけど、けど、前ほどじゃなかった。
* * * * * * *
「で、どうよ? 友達ごっこは?」
「……順調だよ、藍ちゃんも、ほんとにわたしのこと、信用してくれてるし」
歩美さんとこういう話をするのも、何度目だろう? 藍ちゃんはわたしが部活の日は別に待ったりしないで先に帰ってしまう。それに応援部は終わるのが遅い日も多いから、その頃には周りの子たちもわりと帰っているのだ――そういう日こそ、“作戦会議”にぴったりだった。
最近になって気付いたけど、歩美さんはひとりきりだととても穏やかな人だった。もしかしたらクラスメイト――あの男の子も含めて――がいなければ、わたしはあんな目に遭わなかったんじゃないかというくらいに。
それと、こっちの方が重要なことだけど。
歩美さんは、作戦会議と言いつつもずっと藍ちゃんのことを訊いてくるばかりだ。次は次はとせがんでくるその姿は、どこか小さい子どものようで。
作戦なんて、ただわたしと藍ちゃんが仲良くなっていくだけのことだし、ひょっとしたら……。
「もしかして歩美さんって、藍ちゃんのこと、」
尋ねかけた言葉は、教室のドアを開ける音で
「やっぱりそうだったんだ、だよね……そりゃそうだ、当たり前だよね、そうだと思ってたよ、ふふふ、ははっ、あー、すっきりしたっ」
赤く縁取られて濡れた黒真珠は、その輝きを喪って淀んだ色をしていた。それなのに、口調や声音は今まで聞いたどんなものよりも晴れやかで、軽やかで。
「あ、藍ちゃん、」
「じゃあね、皧。今までごめんね、…………、私は楽しかった」
言い訳すら、させてくれなかった。
追い駆けようとした足は
引き留めようとした喉は萎縮して。
だって……わたしに何ができるの?
ずっと藍ちゃんと……わたしを騙してきた、わたしに。
夕焼けが、次第に宵闇に飲まれていく。
空を染めていく藍色が、胸を締め付けた。
久しぶりに、涙が溢れて止まらなかった。
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