百合の花はあまりに白く
遊月奈喩多
第1話 あなたの白を染めたくて
朝、教室に入った私を出迎えたのは、誰からともなくクラス中の空気に蔓延したクスクス笑いと、冷ややかな眼差しだった。
あぁ、また。
もう見慣れてなんとも思わないけど、それでも彼女が見たら心配するだろうから早めに片付けないとね。
『掃き溜め』
『売女』
『FOR FREE』
『トイレの雌神様』
『ゲロ女』
『千舌観音』
『シャブ
………………他にも、見るに堪えないような罵詈雑言がご丁寧に油性ペンで書き殴られた机に、シンナーの染み込んだ雑巾を走らせる。なかなか落ちないし、手もボロボロになるし、正直苦痛で仕方ない。消したってもっと酷いこと書かれるのは目に見えてるから、いっそ消さない方が楽だと思っていた――あの日までは。
「おはよう、
「……おはよ」
なんとか消し終わって、少し汗が滲んだ
だから、彼女――
* * * * * * *
『白野 皧です、よろしくお願いします!』
春というにはあまりにも寒くて震えそうな新学期初日、いかにも元気はつらつという挨拶をしながら、彼女は先生の隣に立っていた。
鈴を転がすような声、少し色素の薄そうなボブの髪に、色白な肌、程よく肉付きがあってみんなから「可愛い」って愛されそうな身体つき、そこに加えて印象的だったのはまるで星でも入っているのかと思ってしまうような瞳だった。
キラキラと輝いている――世界の綺麗なものしか見てこなかったような瞳があまりに眩しくて、ひと目見た私は、この子が嫌いだと思った。
それなのにどうしてか、先生はそんな転校生を私なんかの隣に座らせたのだ……もちろん場所が空いていたからだとはわかってるけど、そんなところにさえ作為的なものを感じずにはいられなかった。
『よろしくね、白野さん』
無難に済ませて、あとは関わらなきゃいいんだ――そう思いながら挨拶したときに、気付いてしまったのだ。
彼女の瞳が、私の机を見て戸惑ったように揺れていることに。そのあと、少し
* * * * * * *
考えてみれば、別にそれでもよかったはずなのだ。私も嫌いだし、彼女もよくない感情を持ったのなら、お互い関わり合いにならなくて済む。どうせ彼女も“あっち側”に加わるのだろうけど、別に今更ひとり向こうに増えたくらいで、私の生活は何も変わらない……そう思っていた。
「ねぇねぇ藍ちゃん、そろそろハロウィンだよね。なんか仮装したりするの?」
「いや、特にそういうのは思ってなかった……皧は、なんかするの?」
「うん! 猫とかやってみようと思うんだけど~」
けど、事実は小説よりも奇なり、とはよく言ったもので、彼女――皧が私から離れることはなかった。それどころか、なんの真似かは知らないけど、私と積極的に関わろうとさえし始めたのだ。
どうせすぐに飽きるだろうし、何か裏があるに違いないとは思っていた。だって私に優しくしてくれる人なんていない、いるわけなかった。
幼い頃に離ればなれになった父のことなんてもちろん知らないし、家に男を連れ込んで私を追い出しては近所迷惑な声で叫ぶだけの母はふたりきりになると嫌味と手ばかり出してくる。
告白されてフッた男子からは出会い系サイトに登録されるし、その男子のことが好きだったクラスのリーダー格の女子から漫画みたいな虐めを受けることになるし、優しくしてくれた人も結局は身体目当てだった。
親に殴られて痣だらけの身体を笑い者にされた。
勝手に登録された出会い系の男に粘着されて住所も特定されかけた。
教科書とか新品のカバンを持ち歩くのが怖くて忘れたふりをして、ノートも肌身離さず持ち歩いた。
襲われたときに顔を殴られて、そのことを親に問い詰められて更に殴られた……顔は売り物になるのに価値をわかってない、だって。子どもまで売るつもりだったの、最悪なんだけど。
そんなやつばっかりだ。
だから、この白野皧だって絶対に私を裏切る――そう思って接していたら、ある日泣かれた。
『どうして相談してくれないの?』
『どうして頼ってくれないの?』
『どうして信じてくれないの?』
『どうして我慢ばっかりなの?』
どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、うるさいなぁ。
そのときの私は、ただ捨て台詞みたいな言葉を吐いて逃げることしかできなかった。それで関係が切れたら楽だし、こんなにうるさいやつなんていなくなればいい――そう思っていたのに、なんでかその日は、私も久しぶりに泣いた。
その次の日、『昨日はごめん』と謝られた挙げ句に、『それでも友達でいたい』なんて言われたとき、私は観念した。
『勝手にすれば』
その言葉を口にしたとき、自分を取り巻く状況は何も変わってないのに、何故か心が少しだけ軽くなったようにも思えた。
そんなこんなで、出会ってから半年過ごしてきた。彼女の底抜けの明るさに時々疲れながらも、なんとなく悪くない気持ちもしていたし、彼女自身がクラスで人気なのもあったのだろう、私への扱いも多少はよくなった気がした……あくまで、多少だけど。
わかってはいる――皧のおかげで、皧が人気者だから、私も少し過ごしやすくなっている。そう、わかっている。だから、こんな気持ちを持つのはお門違いだし、きっと私の見間違いに決まっている。けれど自覚してしまったら止まらなかった。
なんとなく、他の人といるときの皧がどこか無理して見えるなんて、あっちゃいけないのに。気付いた途端、全部が都合よくそんな思い込みを肯定するものに見えて。だから、言おうと思った。
あんたこそ、無理してんじゃないのって。
私はあんたのお蔭で思ったよりも楽になったって。
それで、だから。
私のこと、もっと頼ってよ。
あぁ――たったそれだけのことを言うのが、こんなに勇気のいることだなんて、知らなかった。
もちろん、私が勝手に世界で一番不幸だと思ってるだけだなんて言わせるつもりはない。私は紛れもなく幸せとは程遠い場所にいて、それが辛くて辛くて、辛くて辛くて仕方がない。外野からよく知りもしない人と比べられる筋合いなんてない。
だけど、それは伸ばされた手を振り払っていい理由になんてならない。
だから言いたかった――あの日はごめん、って。
それで、伝えたかった、私が彼女に対して思っていること全て。
こんなに誰かのことを強く想ったのなんて、初めてかもしれない。少しだけ胸が苦しくて、訳がわからなくなりそうで、頭が焼けそうで、顔が熱くて、こんなこと、生まれて初めてだった。
だから、その日はたぶんチャンスだった。
皧が所属している応援部の練習があって、他のクラスメイトたちがみんな帰ってしまうような日。人の目があるところでもあんな風にできる彼女の勇気にはまったく及ばない私だから、そんな日を選ぶことしかできなかったけど。しかも教室で待っているのもなんとなく『待ってましたよ』という感じが出て恥ずかしくて、わざわざ図書室で読みもしない文学作品を読んでまで時間を潰してしまうことにも、我ながら苦笑が漏れてしまうけど。
それでも、何も言わなきゃ何も伝わらない――それよりも、絶対にマシだから。
応援部が終わった頃を見計らって、教室に戻る。
深呼吸しながら、ゆっくりとドアを開けようとしたときに、聞こえた。
『で、どうよ? 友達ごっこは?』
『……順調だよ、藍ちゃんも、ほんとにわたしのこと、信用してくれてるし』
…………皧の声だって気付けなければ、たぶんよかった。
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