第550話 低フォドマップ療法

 山葉は沼の疑念など知る由も無く祈祷を始めようとするが、和貴さんは何度か口ごもった後に重い口を開いて抵抗する意思を示した。

「やめてください。お祓いしたくらいで腹痛が治るわけないでしょ」

 山葉は少なからずイライラした表情で和貴さんの顔を見つめており、沼は彼女が剣呑な言葉を口にする前に何とか仲裁しなければと考えた。

 山葉は自分の祈祷の効果に疑念を示されたり、いざなぎ流を見下されるとむきになる傾向があるのだ。

「和貴さん、何もかもお母さんのせいにするのではなくて、自分で生きていくことを考えてください。お母さんは癌の宣告を受けたのに、あなたに生活費を残してあげるために治療を断念しようと考えているほど思い詰めているのですよ」

 山葉の暴走を抑えることを優先したあまり、沼は先ほど具現化した呪詛に言ったのと同じようなことを和貴さんに言い放ってしまった。

 沼は和貴さんに言ってしまった後で彼が母親以外の人とほとんど接触すること無く過ごしていることを思い出し、それが彼に与える衝撃の大きさに思い至ったが時すでに遅かった。

「お母さんが癌に罹っている?」

 和貴さんは独り言のようにつぶやくとそのまま立ち尽くしている。

 山葉さんは和貴さんを無理やり部屋の中央に座らせると、子供に言い聞かせるように話す。

「あなたのお母さんは一重にあなたの行く末を案じているのだ。私達も手を貸すから過敏性腸症候群など早く治して自分の能力で未来を切り開くんだ!私の祈祷はその第一歩だと思って大人しくしていなさい」

 山葉は困惑した表情の和貴さんを無理やり座らせると、いざなぎ流の祈祷を始めた。

 巫女姿の山葉は緩やかに舞いながら、沼にとっては意味不明の呪文を澄んだ声で詠唱している。

 沼は杉田さんの病気を本人に断りもなく息子である和貴さんに告げてしまったことに気づき、杉田さんに小声で謝った。

「申し訳ありません。勝手に息子さんに病気のことを告げてしまって」

 沼は杉田さんの表情を窺うが、杉田さんは意外に平静な表情で沼の顔を見返した。

「いいのよ。私は自分の病気のことを告げたら和貴がパニックに陥るのではないかと心配していたの。時々聞くでしょう?高齢の親と暮らしていた子供が親の死後も葬儀もせずに死体と一緒に暮らして親の年金を受け取り続けていた事件を。私は和貴がそんな風になるのではないかと心配していたの。でも、見た限りでは意外と落ち着いているから安心したわ」

 杉田さんの答えを聞いて沼はなんと返事をしてよいか途方に暮れたが、沼の代わりに徹が口を開いた。

「彼は自分の現在の境遇があなたに責任があると思い込んで乱暴な口をきいたりしている反面、生活の全てをあなたに頼っている上に母であるあなたが好きで離れることが出来ないでいることを潜在意識レベルでは自覚していたのに違いありません。これをきっかけに自立出来たらいいですね」

 杉田さんは黙って佇み、祈祷を受ける息子を見つめている。

 徹は振り返ると沼に穏やかな笑顔を向けた。

「さっきは頑張っていたね。僕がやられたのに高田の王子が来るまでにほとんどけりをつけていた。その上和貴さんの心情を読みとって自立を促すなんて沼ちゃんも成長したね」

 沼は最近自信を失いがちだった自分の心にふわりと温かい風が吹き込んだような気がした。

「いえ、そんな大したことはしていませんよ」

 沼は謙遜して答えるが、徹は和貴さんの前でいざなぎ流の祭文を詠唱する山葉の姿を見ながら言った。

「どんな悪い境遇にいる人でも、何かきっかけを与えられたたらそこから立ち直る力を持っているはずだ。僕たちは自分の能力を頼りに邪なものを排除するだけではなくて人の中に眠っている力を引き出すことも必要なんだね」

 沼は彼の話を聞きながら、この人は全身タイツでトナカイさんを演じるだけが取り柄ではないのだなと、尊敬の念を新たにするのだった。

 徹と沼が見つめる前で山葉が祭文を詠唱する声が響くが、沼はいつの間にか長髪の男性がリビングの中央に佇んでいることに気づく。

 その男性は山葉の祈祷に合わせて、和孝さんの頭に手を伸ばして祝福を授けているように見えた。

「ウッチーさんあれは」

 沼は徹に話しかけるが、彼は静かにするように仕草で示しながら小声で答える。

「あれは彼女が山の神様と呼ぶ存在だ。姿を見ることは僕たちでもまれだよ」

 しかし、沼の目に映る彼は山の神だとは思えなかった。

 長髪と髭の容貌は沼にとっては特別な意味を持っており、沼は彼がイエス様だと確信していたのだ。

 やがて、山葉の祈祷が終わると彼は唐突に消えたが、その姿は沼の記憶に鮮明に刻まれた。

 山葉は和貴さんを立たせると穏やかに彼に告げる。

「私の祈祷を信じなくとも、私たちがあなたのために懸命に祈ったことは覚えておいてくれ。あなたの腹痛は祈祷だけでは簡単には治らないかもしれないが、私の知り合いのカウンセラーを紹介するからそこで徹底的に治してもらいなさい。そして、お腹の具合が良くなったら自分で働くことを考えるのです」

 和貴さんは山葉さんの言葉をかみしめるように俯いていたがやがてゆっくりと言った。

「わかりました。治療に取り組んでみます。僕は母に迷惑をかけ通しの駄目な人間だったがせめて自分で生きて行けるように頑張ります」

 彼の言葉を聞いて、杉田さんが両手で顔を覆って涙を流していることに気づき、沼は自分たちがなにがしかの成果を上げたのだと思えたのだった。

 数日後、沼は普段の自分なら素通りしてしまうはずの高そうなフレンチレストランで畏まって座っていた。

 ここ数年付き合っている勇二さんに夕食を一緒にと誘われ、悩んだ挙句に質素系のコーディネートを選んで出かけて来たものの、相変わらず自分の容姿には自信が持てない沼だった。

 ウエイターに連れが来るまで待つと告げ、手持無沙汰に待つうちに沼は先日の生霊退治のその後を思い浮かべていた。

 山葉が紹介したカウンセラーは沼の予想通り美咲嬢だった。

 美咲嬢は和貴さんにカウンセリングを行うのと同時に低フォドマップ療法を施すと宣言して、それ以来、和貴さんは七瀬カウンセリングセンターで泊まり込みの食事療法を受けている。

 美咲嬢の話では対人関係を作るのが苦手な人が無理に人と接することで胃腸の働きが低下し、小腸で吸収されにくい糖類等が大腸に溜まり発酵してガスが溜まるのが過敏性腸症候群の原因の一つなので、心理的なカウンセリングと並行して原因となる物質を含む食品を摂取しない食事療法が有効なのだそうだ。

 そして、杉田さんは和貴さんの心境の変化に安心し、入院して手術を受けることになっていた。

 沼は杉田親子の今後がすべてうまく運ぶと信じて疑わなかった。

 なにせ、彼らの元にイエス様が降臨したからだ。

 沼は迷った末に自分がイエス様の降臨を見たと思う事を山葉に告げたが彼女は沼の信仰を否定せずに、つぶやいたのだった。

「人間は自らが理解できないものを見た時そこに自分が理解可能なラベルを張ってしまうのだ。私が信奉する山の神も沼ちゃんが見たイエス様もその本質は同じものなの子も知れないね」

 沼は山葉の言葉を反芻するほどに、彼女が得体のしれない真実を知っているのではないかと思えて薄気味悪く感じられたのだった。

 その時、沼が待ち受けていた勇二が現れた。

「沼ちゃん待たせてごめん。途中で寄るところがあったから思ったよりも時間が掛かってしまった」

 息を切らせた様子から、彼が急いできたのは一目瞭然だ。

「そんなに待ったわけではないから大丈夫。そんなに急いで事故にでもあったら大変よ」

 沼は出来るだけさりげない雰囲気に見えたらいいなと思いながら自分のバッグからプレゼントの包みを取り出すと彼に手渡す。

「メリークリスマス」

 沼のプレゼントを受け取った彼は、子供っぽく箱を掲げて沼に聞く。

「今開けても明けてもいいかな」

 沼がうなずくと、彼は包装を開けて中身を取り出した。

 それは、バッテリー式のLEDランタンでアウトドア用のアイテムだった。

 勇二は兄の勇作と試行が似ているらしく一人でテントを持って登山に出掛けることがあり、沼は彼がキャンプをする時に使えるようにと選んだのだ。

 勇二は嬉しそうにランタンを見ていたが、今度は自分のカバンから小さな包みを取り出す。

 沼がプレゼントの包みを開けるとそれはケースに収まった指輪だった。

 シンプルなプラチナ台にダイヤをあしらった指輪は相当な値段なはずだ。

「これ、高いんでしょう」

「プレゼントを何にするか迷ったので、ちょっと背伸びして買ってみた」

 勇二は屈託のない雰囲気で沼に告げると、料理のオーダーを始めている。

 沼は目前に現れたイエス様が祝福してくれた結果のような気がしたが、彼の正体を考えさせられる山葉の言葉には拘泥しないことにした。

 内村夫妻との関係は良好であり、沼自身も生身の身体で幸せな人生を送りたい。

 神様の探求は時間をかけてゆっくりと進めたらよいにちがいないと沼は自身に言い聞かせていた。

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