第549話 沼ちゃんの悪魔祓い
沼は記憶の流れに同化するうち、ある朝の場面を体験し始めていた。
それは今までいた杉田家のリビングルームなのだが、微妙に雰囲気が異なっている。
「和貴ちゃん」
呼びかけられた声に反応して振り返るとそこには杉田さんらしき女性がいるがかなり若く見える。
そして彼女の視覚イメージに伴って「おかあさん」という認識が広がっていく。
沼はどうやら自分が体験しているのが自室からこちらに出てきつつある和孝さんの記憶だと気付いた。
徹が時折話してくれる、他人の記憶の追体験というものをじぶんが今まさに体験しつつあるに違いない。
和貴さんの記憶であるがゆえに、杉田さんのイメージには「おかあさん」という認識がタグ付けされているのだ。
「お腹の薬を忘れないようにしなさい。無断欠席なんてしないでちゃんと登校して授業を聞くのよ」
「おかあさん」の声が自分の気持ちを逆なでしていくのがわかる。
父を早くに亡くしたこともあり、「おかあさん」は関心の全てを自分に向けた結果として何かと干渉過多なのだった。
「おかあさん」が懸命に自分を育ててくれた認識はあるが、鉛筆を持っただけで口うるさく小言を言われるような生い立ちは確実に自分の心を蝕んで来たに違いない。
自分は中学生の頃から次第に人の目が気になるようになり、高校生になった今では学校に行くと猛烈な腹痛に襲われるようになっていた。
医師の診察も受けたが過敏性腸症候群というもっともらしい病名を与えられただけで、処方された薬を飲んでも腹痛は収まらない。
その原因はおぼろげに分かっているつもりで、たくさんのクラスメートが母親と同じように自分の挙動を見ているのではないかという強迫観念がお腹を痛くさせていると思える。
それゆえ、高校に登校して同級生と顔を合わせると腹痛がひどくなることから、いつしか同級生とコミュニケーションを取る機会も減り、孤立することが多くなっていた。
「おかあさん」の言葉を聞いて内心では不満や反発が渦巻いているのだがそれを口に出すことはできず、人と接しようとしたら腹痛に苦しむようでは進学や就職など無理だと考えて次第に無気力になっていく。
そして、腹痛のために何一つ前に勧めない苛立ちは次第に「おかあさん」に向けられて心の内で渦巻いて行くのだった。
沼は具現化した呪詛から伝わる憎悪の感情があまりに激しいので全力でそこから離脱しようともがいた。
自分の心が強い感情に飲み込まれそうな気がしたためで、沼は気が付くと具現化した呪詛の前に立っていた。
具現化した呪詛の姿は満身創痍だった。
背後から徹が刺し貫いた日本刀の先端が胸の中央辺りから突出しており、沼に切り裂かれた傷は首に大きな傷跡が開いている。
そして沼は彼の記憶から逃れるために、自分を掴んでいた彼の腕を切断したらしく、片腕の切断面からは新たに体液が滴っていた。
沼は彼の憎しみの源は何なのだろうと疑問に思って具現化した呪詛に尋ねる。
「あなたは和孝さんの意識の一部なのでしょう?なぜ自分のお母さんに憎しみを向けるの?」
具現化した呪詛は傷ついた喉元からパイプオルガンのような音を発したが、沼の頭には彼の思考が流れ込んだ。
「僕をこんな状態にしたのはあの人なんだ。あの人は僕を支配して外部の人との接触を遮断してしまったから僕は人とのコミュニケーションが取れなくなってしまった」
沼は自分を導いてくれた神父様がくれたナイフを握りしめながらもういちど具現化した呪詛に呼びかけた。
「あなたのお母さんは自分が癌に侵されても、あなたの生活を心配して自分の治療をあきらめてまでお金を残そうとしているのよ。あなたのことを愛しているからこそそこまでできるのだと思うわ」
沼の言葉を聞くと、具現化した呪詛は頭を抱えるようなしぐさを見せ、甲高い音をたてはじめる。
「僕が間違っているというのか?」
具現化した呪詛は仰向けに倒れて力なく足掻きはじめた。
沼は具現化した呪詛にとどめを刺そうかとナイフを握りしめたが、恐慌に陥ったように倒れたまま甲高い音を響かせている姿を見ると、攻撃することが出来ない。
その時背後から山葉の声が響いた。
「沼ちゃん大丈夫か!」
巫女姿の山葉は御幣を手に杉田さんの部屋に駆け込んできたところで、彼女と一緒に平安時代の貴族を思わせる水干姿の青年の姿も見える。
それは彼女が使い魔のように召喚する式王子の姿だった。
その式王子の名は沼も聞いたことが有り、確か高田の王子と呼ばれていたはずだった。
高田の王子は沼と並んで立つと横たわる具現化した呪詛を見下ろして呟く。
「これはすでに邪気を払った後のようだな。そなたがここまで仕上げたのならば見事な手腕。敬服いたす」
高田の王子は目を細めて温和な笑顔で沼を見つめている。
「でも、まだ止めを刺していません」
沼は山葉が使う最強の式王子に褒められて内心嬉しいのだが目の前に横たわる具現化した呪詛が気になっていた。
「仕上げをするのは式王子たる私の務めだ。お任せくだされ」
高田の王子は螺鈿細工の鞘から小刀を抜いて足元の具現化した呪詛に歩み寄ると、沼の考えを読んだように言葉を続ける。
「ご心配召されるなこちらの呪詛も、そちらにバラバラになっている生霊も祓ってしまえば本人の心に戻るだけのこと。山葉殿が祈祷で送り出すことすら不要」
高田の王子が具現化した呪詛に小刀を突き刺すと、具現化した呪詛は砂のように崩壊して崩れた端から消えていく。
それに呼応した様に、バラバラにされた生霊の身体は砂のように崩壊して消えていく。
ほどなく、沼は通常の時空に戻ったことを感じた。
高田の王子の姿は消え山葉が徹を助け起こしているところだった。
杉田さんは瞬時に部屋の中の人の配置がと感じた様子で目をしばたいており、和貴さんが不機嫌な表情でリビングルームに現れた。
彼は太り気味な体形で頭髪は少し薄くなっている。
そして、部屋の中に居る沼たちを見ると、苦痛の表情を浮かべてお腹を押さえた。
沼は和貴さんからかなり離れて立っていたにもかかわらず、お腹が鳴る音が聞こえたほどだった。
お腹が鳴ると言っても、空腹なわけではなく、町が異常な動きをして内部にたまった空気が動く音なのだ。
「う、いててて」
沼は、生霊や呪詛が支配する時空では彼の意思を反映して具現化した呪詛が炎の塊を飛ばし、あまつさえ自分と同じ成り立ちの生霊を食いちぎる暴れぶりだったのに本体の和貴さんが自分たちと対面しただけで腹痛に苦しむというギャップについていけない思いだった。
「和貴ちゃん、この人たちはあなたの腹痛を治してくれるために来てくださったのよ」
「腹痛を治したいなら帰ってもらった方がいいよ」
和貴さんは、それなりに理屈に合った意見を伝えるが、山葉はそれを遮った。
「いえいえ、私の祈祷を受けて頂けたら、きっとその腹痛は軽くなりますよ」
徹は怪我をした様子も無く山葉の横に立っており、山葉は自身のある表情で御幣を構えている。
沼は、原因となっていたはずの呪詛も生霊も私とあなたの式王子が退治してしまった後なのですけどと心の中で考えながら、山葉の意図を推測しようと試みていた。
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