第525話 猫のお医者さん

 山葉は気を取り直して祈祷に取り掛かろうとしたが、御幣を手にした彼女の前に上門がアクリル製のケースに入ったものを差し出した。

「山葉さん、悦子さんが調教しようとしていた妖がこれです」

 山葉は何の気なしにアクリルケースを覗いて、その中で蠢いているのがアシダカグモの妖であることに気付いて思わず後ずさりした。

「ぎゃー、ク、クモじゃないですか」

 山葉はスプラッタな映像とゴキブリなどの不快害虫の類が苦手なのだ。

 それでも、山葉は気を取り直して上門に指示する。

「それは悦子さんと並べて部屋の中央においてください」

 上門が山葉の指示に従ってアクリルケースを畳の上に置いている時に、気配に感づいた山葉の母、裕子が二階から降りてきた。

「まあ、すごいけがをしているじゃないの。早く救急車を呼ばないと」

 悦子の状態を見た裕子は眉を顰めるが、美咲嬢が説明を始める。

「この怪我の原因は事故みたいなものなのですが、この子には物の怪が取り付いており、暴れるため治療もままならないのです。山葉さんが物の怪を祓ってくれたら直ちに治療に掛かります」

 裕子は陰陽師家の人間だけあって美咲嬢の話を聞くうちに状況を飲み込み、その物の怪こそが徹を連れ去った犯人だと推察したようだった

「山葉、これが問題の妖なのね。婿殿を元に戻すためにも全力を挙げてこの妖を折伏するのです。私に手伝えることが有ったら言ってちょうだい」

 普段は温厚な裕子が引き締まった表情で自分を励ますのを聞いて、山葉も落ち着きを取り戻していた。

「お母さんはウッチーと莉咲の様子を見ていてください」

 祈祷を始めるに当たって、気になっていたことを母に託すことが出来たので、山葉は自分が手にした御幣に意識を集中していざなぎ流の祈祷を始めた。

 いざなぎ流では神事を行う前に、その場にある呪詛や悪霊、妖の類を「とりわけ」と呼ぶ儀礼で一掃し、その場を清浄にする。

 それゆえ、祈祷を行ういざなぎ流の大夫は式王子と呼ばれる強力な霊的存在を召喚して「とりわけ」の儀に臨むのだ。

 山葉は徹を取り返す最後のチャンスと思えるこの場面に、最強の式王子である「高田の王子」を召喚することに決めており、いざなぎ流の神楽を舞いながら「高田の王子」の祭文を詠唱した。

 他の者が息を飲んで見守る前で山葉は緩やかに舞いながら祭文を詠唱し、徹が「いざなぎの間」と呼んでいた和室には、静かな声色の中に強い意志を秘めた山葉の詠唱と、悦子の唸り声だけが響いた。

 やがて、祭文の詠唱を終えた山葉は「りかん」を唱え、気を込めながら御幣で悦子の頭の上を祓った。

 山葉が動きを止めて悦子を見守る間、周囲の人々の呼吸音がきこえるくらいの静寂が支配する。

「悦子さんが暴れていませんわ」

 美咲嬢が指摘して皆は悦子が妖の支配を脱したことに気が付いた。

「えっちゃん。僕がわかるか?」

 事態に気付いて真っ先に悦子に呼びかけたのは隼人だった。

 妖しい金色に光っていた悦子の目は元に戻り、隼人の顔を認めるとか弱々しい声でつぶやいた。

「隼人君、私はあなた達にけがをさせてしまった」

「そんなことは気にしなくていいんだよ。早く美咲先生に治療してもらおう」

 隼人とその横にいた未来がが悦子を抱え起こそうとしそうな気配を見て、美咲はクールな声で静止した。

「二人とも下がって!今から彼女の手足を縫合します」

 美咲嬢は外科用手袋をはめた両手を持ち上げた状態で二人の後ろに立っていた。

 消毒した手袋を乾かしているのだ。

「ツーコさん、助手をしてください。黒崎と上門さんはサポートを」

 美咲嬢の指示で七瀬カウンセリングセンターの人々は統制のとれた動きを始めたが、山葉は彼らの意図を察して不安を感じざるを得なかった。

「こんなところで手足をくっつけるような手術をする気なのか?それに美咲さんは医師の資格を持っていないだろ」

 山葉の問いかけに、美咲嬢は薄笑いで答える。

「以前使っていた名前の時はちゃんとお医者さんをしていましたのよ。もっとも時代が時代ですから現在の野戦病院レベルの技術ですから、相手が人間だと気の毒ですがキツネさん達なら私の拙い技術で接合しただけでも自前の再生力で補ってくれるはずですわ」

「そうですよ、それに悦子さんを大病院に搬入してCTでもとられたら画像を見たドクターがパニックを起こしかねませんからね」

 ツーコも美咲嬢と同じように手袋を乾かす態勢を取っていたが、悦子はキツネの妖であり、人の姿をしてはいるがエックス線で断面写真を撮られてしまったら、人とはかけ離れた構造をしているかもしれないと想像していたのだ。

 そしてその横では黒崎氏が慌ただしく医療用器具を準備していた。

 山葉は美咲嬢の手術を受ける羽目になるのは遠慮したいと思いながら徹に目をやった。

 悦子から妖を祓った実感があり、徹が元の状態に戻っていることを期待していたのだが、彼は相変わらず頼りない雰囲気でそこに佇んでいる。

 裕子も同じことを考えていたらしく徹に繰り返し呼びかけているが彼は何の反応も示さない。

 何故だ、何故元に戻らないと自問しながら、山葉は頭の中で様々なケースを考えては却下し、有り得る事態とその可能性をすべて検討しようとしていた。

 その時、祥は傍らから山葉や徹の様子を見ていたが、以前徹からメールを受けとっていたことを思い出していた。

 隆夫と一緒に観音菩薩像を探すための小旅行に出かける前に、徹が人とのコミュニケーションが取れなくなっていることを失念してSNSのメールを送ってしまったのだが、彼からは思いがけず返信があり、その中にはアシダカグモの妖に関する記載も含まれていたのだ。

「山葉さん、私は徹さんからメッセージを受け取っていたのです。徹さんはあのアシダカグモの妖は恨みを持って死んだ人間の霊が融合したものなので気を付けろと書いてありました」

 祥の言葉を聞いた山葉は、自分が何処で間違ったか気が付いて茫然とした。

 山葉は派手に憑依されている悦子の様子を見て、彼女を浄霊することに集中したが、それは生霊として悦子を操っていたアシダカグモの妖を排除したのに過ぎない。

 徹を復活させるにはアシダカグモの妖そのものを祓うべきだったと気が付いたのだ。

 そして祥が教えてくれた徹のメッセージの内容は、これまでに遭遇したアシダカグモの妖が、巨大化しているとはいえアシダカグモの形態をしていたのに対して、徹を連れ去った妖は、人の姿を取っていたことに符合しているように思われる。

 山葉がアシダカグモの妖と対峙しようと思い、それが入っているアクリル製のケースを見た時、そこにはすでに先客がいた。

 居合わせたい大人たちの注意が悦子や徹に向けられている間に、莉咲は何か小さなものが中で動いているアクリルケースを見つけたのだった。

 そして、彼女はアシダカグモの妖が入ったアクリル製ケースのふたを開け、その中に手を伸ばそうとしていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る