第500話 黒い服の女

山葉さんは古い本に挿まれていた写真を眺めながらつぶやいた。

「住所と氏名がわかっているのだから、どうにかして遺族の所在を突き止められないものかな?」

住所と氏名と言ってもそれは第二次大戦中の話なのですでに七十年以上の歳月が流れている。

そのうえ、東京の市街地は大戦末期の空襲で大半が焼失しており、当時の住所にその遺族がそのまま住んでいたらそちらの方が不思議なくらいだ。

しかし、鳴山さんは明るい表情で僕たちに言った。

「遺族ってここにいた霊に関わりがある人のことでしょう。どうせ質の悪い悪霊だったはずなのにお祓いした後はちゃんと家族のもとに返してやろうとするなんて内村夫妻のそういうところが好きなんですよ。その遺族探しは是非俺にも手伝わせてください」

鳴山さんはサービス業界では顔が利き、情報収集に適した人なので、僕は山葉さんが本気で遺族探しをするのならば鳴山さんが手伝ってくれるのは心強い限りだった。

しかし僕たちが霊と対峙している間、鳴山さんは時間が止まった状態だったはずなので、なぜあの霊が質の悪い悪霊だったと思えるのか不思議だ。

「鳴山さんは何故あの霊が質の悪い悪霊だったと思うのですか?」

僕が尋ねると、鳴山さんは僕の顔を見てにやりと笑った。

「それはウッチーさんがものすごく顔色が悪くてやつれているから察っしたんですよ。ちょっと前までそれほど顔色が悪くなかったのに一瞬の間に倒れそうな顔に変わっていましたから」

「そんなに顔色が悪いのですか?」

僕が尋ねると、鳴山さんと斎藤さんは同時にうなずき、僕は霊が支配する時空内で銃撃されて重傷を負ったことが現実にも波及していることを知った。

斎藤さんはとりあえず妙な気配は感じなくなったと喜び、僕たちに相当な額の謝礼を支払ってくれたのだった。

「克己、ウッチーさんは経営コンサル料で領収書を書いてくれるから経費で落とせるんだぜ」

「本当ですか?祈祷料が高いけれど薄気味悪いから止むを得ないと思っていたのですごくありがたいですね」

僕は前もって用意しておいた領収書に印紙を貼って斎藤さんに渡すと、山葉さんと共に斎藤さんのお宅を後にした。

鳴山さんはミニヨン二号館に戻ると言うのでその場で別れることになったが、彼は名残惜しそうに言う。

「精進落としでも打上げでも名目は何でもいいからお礼がてら会食にお招きしたいところですが、このご時世ですからご容赦ください」

「そうですね。いつか普通に会食が出来るようになればいいのですけど」

僕は鳴山さんに答えると会釈をしてWRX-STIに乗り込んだ。

カフェ青葉に返る道程の途中で、山葉さんはおもむろに僕に告げる。

「ウッチー心配させてすまなかった。私はがんの切除手術を受けようと思うのだ。ただし、子供は諦めないから抗がん剤の治療は子供が生まれるまでなしだ。こんなわがままな患者の言い分をドクターは聞き入れてくれるだろうか」

僕は彼女が相談してくれたのがうれしかったし、問題の黒い影が消えたことから、彼女の選択によって癌が治癒する可能性も高いことが推測できる。

「一緒に病院の先生にお願いしますよ。その代わりがんの手術は出来るだけ早くうけてくださいよ」

WRX-STIのステアリングを握っている山葉さんは微笑を浮かべて隣に座る僕を見た。

「ウッチーならそう言ってくれると思っていたよ。帰りに病院に寄って先生に相談しよう」

結局、僕たちは医学部付属病院に寄り、担当のドクターに会い、治療のプランについて同意を得ることが出来た。

カフェ青葉に到着した時、僕はここしばらく頭を悩ませていた懸案事項が全て解決した気がしてすっきりした気分だった。

山葉さんが着替えている間、僕はベビーベッドで眠る莉咲の顔を何となく見つめていた。

本来なら一歳になったら保育園に行かせるつもりだったのだが、コロナウイルス感染症が収まらない上に乳幼児はワクチン接種も受けられないため裕子さんにお願いして日中は世話をしてもらう状態だった。

二番目の子供を授かり、山葉さんが手術を受けることもあるため裕子さんにはもうしばらく莉咲の世話をお願いしなければならないなどと考えていると、僕の背後から聞き覚えのある声が響いた。

「お客さん食い逃げは困りますよ。満足する結果が得られたのならば相応の対価をいただきたいですね」

女性の声は皮肉な雰囲気で僕に債務の支払いを求めている。

「夢ではなかったのか?」

僕が振り返るとそこには黒ずくめのコーディネートの妖艶な女性が佇んでおり、僕の言葉にクツクツと含み笑いをしているところだった。

僕は恐慌に捕らわれそうになり、女性を見つめる。

「あなたは本当にアシダカグモなのか?」

「そのとおり、クモですが何か?人間の表現を借りるとアシダカグモの精と思っていただけたら間違いないでしょうね」

平然と答える女性を見ながら僕は山葉さんや彼女が使役する式王子を思い浮かべたが、僕が思い浮かべた事は彼女にも伝わっていたようだった。

「おやおや、居直って踏み倒そうとはおだやかでありませんね。夢などではなく、この通り契約書にはあなたの署名が残っていますよ。さあ、あなたの願いを叶えた対価を支払っていただきましょうか」

僕が逃げようとした瞬間に女性は指をパチンとならし、僕の身体は意思に反して動きを止める。

アシダカグモの精は動けなくなった僕の肩に手をかけてしなだれかかるが、その顔は先ほどまでの美しい女性の顔から、八つの単眼が並び大きな牙が顔の下半分を占める恐ろしいクモの顔に変わっていた。

僕は絶叫をあげようとしたが、麻痺した身体は声すら上げることが出来なかった。


着替えを終えた山葉は、リビングルームから響く莉咲の鳴き声に気が付き慌ててそちらに足を運んだ。

莉咲は一歳の誕生日を過ぎてから大泣きすることは少なくなっていたので、何事かと訝しみながら抱き上げるが彼女はなかなか泣き止まない。

莉咲の傍にいたはずのウッチーの姿は無く、廊下に続くドアは開け放たれていた。

「ウッチー?」

山葉は夫を呼んだが答えは無く、リビングルームには莉咲の鳴き声が響くばかりだった。

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