ヒグラシが鳴く里

第474話 ブレンドコーヒーの味

 令和三年の七月に新型コロナウイルス感染症について東京都で四回目の緊急事態宣言が出された。

 それは飲食業界にとっては再び受難の時期が始めることを示していた。

「山葉さん、折角解除になっていたのに、東京都は八月二十二日まで緊急事態宣言らしいですよ」

 僕が良くない知らせを伝えると山葉さんは肩をすくめて口を尖らせた、

「緊急事態宣言でも、最初の時に比べたら人の動きがあるだけましだ。それに私は新型コロナウイルス感染症が蔓延する以前から経営の軸足を昼間の時間帯にシフトしていたし、夜間のアルコール飲料の提供が経営の中心でもない。どうにかしのいでみせるよ」

 僕は彼女が強がって見せているのではないことを知っているが、緊急事態宣言下では街を出歩く人の絶対数が減るため経営的に厳しい事に変わりはない。

 それでもカフェ青葉は賃借の物件ではないので、テナント料の支払いに経営を圧迫されないことが救いだ。

「とりあえず、営業時間短縮要請には応じるのですよね」

 カフェ青葉は朝から営業しているため従来から夜遅くまで営業はしておらず、新型コロナウイルス感染症に関連して営業時間短縮要請があった場合は閉店時間を前倒しする程度で応じることが出来る。

「うん、背に腹は替えられないから、七時半オーダーストップ八時までの営業に変更して要請に応じよう。背に腹は替えられないから協力金は貰いたい」

 山葉さんがぼそぼそとつぶやき、僕たちが重苦しい雰囲気でいるところに、聞き覚えのある声が響いた。

「山ちゃんご無沙汰やったね。僕も新型コロナウイルスは怖いので外出は控えていたのですよ」

 久々に顔を出してくれたのは常連客の阿部弁護士で、山葉さんは営業用という訳ではなく明るい笑顔を浮かべた。

「阿部先生、来ていただけてうれしいです。よもや私たちに心霊相談に来られたわけではありませんよね」

 阿部弁護士は山葉さんの言葉を受けて、用件を思い出したように表情を硬くした。

「それがよもやの話なんや。山ちゃんにそうだんにのってもらいたい案件があるのや」

 山葉さんは俄かに表情を引き締めると、阿部弁護士に告げる。

「ほう、それならばお話を詳しくお聞きしなければなりませんね」

 山葉さんは店舗内を手持無沙汰に眺めていた祥さんを手招きした。

「祥ちゃん、私とウッチーは阿部先生の心霊相談の対応をするからしばらくフロアを任せてもいいかな」

 祥さんは、僕たちに近寄り、阿部先生に軽く会釈しながら言った。

「大丈夫ですよ。ランチタイム後のお客さんは少ないですから一人でも対応可能です。夕方になれば小西さんがアルバイトに来てくれますしね」

 午後の時間帯にパンケーキセットを楽しんでくれるお客さんがいないとかなりの収入減なのだが、カフェ青葉の客層は情勢に敏感に反応する人が多いと見えて緊急事態宣言が発令されるなどの変化があれば如実に客足に響くのだった。

「うちの客層は用心深い人が多いのですね」

「むしろその方がありがたい、周囲の状況に無頓着な人がウイルスを持ち込んでスタッフが感染したら私達は終わりだ」

 山葉さんは神妙な表情でつぶやいたが、気を取り直したように笑顔を浮かべて阿部弁護士に顔を向ける。

「御覧の通り、店内に他のお客さんも少ないですからここでお話を聞きましょうか。飲み物は何にされますか」

 阿部弁護士はカウンター席のスツールに腰かけるとオーダーを告げる。

「ブレンドコーヒーをお願いします」

「わかりましたブレンドですね」

 山葉さんは午前中に焙煎したばかりのコーヒー豆をミルで碾き、ペーパーフィルターを使ったドリップスタイルで淹れ始めた。

 山葉さんは蒸らしが終わったコーヒーの粉に注ぎ口の細い電気湯沸かしでお湯を注ぎ、お湯を注がれたコーヒーの粉からは甘い香りが漂う。

 出来上がったコーヒーを温めたカップに注ぎ、カウンターテーブルにサーブすると阿部弁護士は早速カップを手に取って口に運んだ。

 山葉さんは話を聞く間、自分たちも飲むつもりでカフェラテを準備して僕の前にもさりげなく置いたが、そのカフェラテにはカップの縁に前足を掛けた猫のラテアートが描いてあった。

 そのラテアートは山葉さんの機嫌が良い時に出現することが多く、彼女がコロナウイルス感染症や営業時間短縮などという事象から、阿部弁護士が持ち込んだ心霊相談に関心を移せることを歓迎しているように思えた

「先代から変わらない味を引き継いでおられるのがうれしいですな」

 阿部弁護士はコーヒーを味わってから嬉しそうにつぶやくと、おもむろに依頼の話を切り出した。

「私は民事訴訟の被告を弁護する案件を引き受けているのです。遺産相続に関わる話なのですが、遺言状で定められた配分に偏りがあるため、取り分が少ない遺族が遺留分の引き渡しを求めている話なので、強いて言えば裁判までしなくても話し合いで何とかなる内容なのですよ」

 阿部弁護士はそこまでは良くある話だと言う様子で平穏な表情で話す。

「それでは、話し合いでは済まない何かが起きつつあるのですね」

 山葉さんが水を向けると、阿部弁護士は眉をひそめて話を続ける。

「そうなんや、今回の事案では亡くなったのが敷島太郎さんという方で、私の依頼者は奥さんの仁美さんと長男の優さん。原告側つまり私の依頼者を訴えているのが長女の里香さんなのやけど、法定の遺留分を受け取ってもらう方向で話を収めようとしても里香さんが納得しないため話が難航して民事訴訟にまで及んでいる」

 遺産の相続は親族の争いごとになるケースも少なくない。

 特に亡くなった人が遺言状を書いていなかった場合には法定の分配割合にするために不動産を処分する必要も出てくるため、現在住んでいる建物を明け渡したりする話になれば、トラブルに発展する可能性は高い。

 しかし、阿部弁護士が引き受けたケースでは遺言状がある訳で、遺言状の内容を不服として取り分が少ない人が遺留分を貰うことになれば、そこで話は収まりそうなものだった。

「原告側の里香さんが訴えている内容に問題がある訳なのですね」

 山葉さんが尋ねると、阿部弁護士はコーヒーカップを片手に持ったままゆっくりとうなずいた。

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