第472話 その姿人ではなく

 山葉さんは高田の王子の式王子を使っていざなぎ流の祈祷を始めた。

 いざなぎ流の祈祷における式王子の役割は、本格的に神々を召喚するのに先立ち、その場に存在する呪詛や狐狸、邪霊の類を排除しその場を清めることだ。

 それ故に法文を唱えて召喚する式王子は強い霊力を秘めており、人の負の想念を集めた呪詛や悪霊といえども制圧することが出来る。

 山葉さんは法文を唱えながらゆっくりとした動きで舞い、病院の待合室で御幣を持って踊る様子は少なからず目立っているはずだが、待合室の患者たちは見て見ぬふりをしている。

 妙な人間には関わりたくないのは皆同じで一般の患者が僕たちを見とがめて何かするとは思えない。

 病院のスタッフが迷惑行為と判断して止めに来るには少し時間があるはずなので、山葉さんはその隙に付け込んだ格好で祈祷を進めていた。

 待合室の隅のソファにいる詩織さんは僕たちをじっと見つめているが、その横にいた黒い影は次第に山葉さんに接近を始めていた。

 もしかしたら僕たちが敵対的な行動をとっていることに気が付いて、何らかの方法で攻撃しようとしているのかもしれなかった。

 黒い影が次第に山葉さんに迫るのを見て、僕はやむを得ず黒い影と山葉さんの間に割って入る。

 これまでの経験から言って、霊と接触したら霊感を持つ僕や山葉さんはその霊が存在している時空に引き込まれて通常の世界から隔絶されてしまい、その空間で霊と戦う羽目になる可能性が強い。

 山葉さんが唱える高田の王子の法文は、エッセンスの部分を取り出した短縮版なのだが、それでも「りかん」の言葉で効力を発動させるまでにはまだ時間が必要なはずだった。

 僕は山葉さんを守るように立ちふさがっていたが、黒い影はさらに接近する。

 接近してみるとその黒い影は通常の霊とは少し異なる形態に思えた。

 それは立っている人の形と言うよりは、直径が二メートル高さ一メートル程度の平べったい形状の黒い影で、それが蠢きながら接近してくるのだ。

 やがてその一端が僕の足にふれ、僕は当りが白い閃光に満たされるのを感じた。

 閃光が収まると待合室に満ちていた低いざわめきが消え、待合室の人々が彫像のように動きを止めたことが見て取れた。

 日ごろは気付かないが東京の街中には大都市が活動するときに発生する低いノイズが絶えず流れており、それさえも聞こえなくなった静謐な空間はそれだけで違和感を覚える。

 僕に接触した黒い影はその姿をあらわにしたが、それは近くで見たり接触したい代物ではなかった。

 それは巨大な蜘蛛の姿をしていたのだ。

 蜘蛛にもさまざまな種類があるが、それはアシダカグモに酷似した姿をしていた。

 アシダカグモは巣を作らずに敏捷な動きで餌を捕えるタイプで、毒蜘蛛として有名なタランチュラと同様だが、アシダカグモはタランチュラに比べて足が細く長いのが特徴だ。

「ぎゃあああああああ」

 僕の背後から山葉さんの声が響き、僕は思わず振り返った。

「どうしたんですか山葉さん」

「ク、クモ嫌。私はその蜘蛛は苦手なのだ」

 山葉さんは式王子を召喚する法文を唱えることも忘れて後ずさりしながら僕に告げ、その横には山葉さんの遠い祖先の亮吉という名の武士の姿があったが、彼は山葉さんをたしなめるようにつぶやいている。

「図体が大きいとはいえ、たかが蜘蛛ではないか。もう少し精神の修養を積まぬと先が思いやられる」

 亮吉さんは面白くなさそうな表情を隠しもしないが、山葉さんに自分の意志を強要することは出来ないらしく、自分の刀を僕に差し出した。

「わしはこの者を守護しておるが、意のままに操ることは出来ぬ。この者が気を取り直して式王子を呼ぶまで時間を稼いでくれ」

 僕は受け取った日本刀を鞘から抜いて巨大アシダカグモに向けて構えたが、巨大アシダカグモは八本の脚のうちの二本を高く上げユラユラと威嚇するように動かした。

 その脚は先端部分でも直径が五センチメートルを越え、振り上げた高さは二メートルほどに達する。

 僕は緩く動かしているように見える脚先をかわし損ねて頭に受けてしまったが、軽く当たったように見えて、それは棍棒で殴ったような衝撃を僕に与えた。

 巨大アシダカグモは僕がよろめいたところに振り上げた二本の足を一気に振り下ろし、僕はかろうじて交わしたものの、立て続けに振り下ろされた二本の脚は床を打ち据えて地響きを立てる。

 もしも振り下ろされた脚に当たれば、僕は頭蓋骨の陥没骨折を免れないに違いない。

 僕は振り下ろされた脚に日本刀で切りつけたが、分厚いキチン質に包まれた脚は日本刀の刃先をはじき返す。

 その間にも巨大アシダカグモは、僕との距離をさらに詰め、何者かの思念が言葉となって僕の頭の中を走った。

「もう少しであの娘が死にそうなのに、なぜ邪魔をするのだ?」

 それは音として発せられたものではなく、何者かの思念を僕が捉えて言葉として理解したものだった。

「あなたは詩織さんに追突した交通事故の加害者ですよね。何故そんな姿をしているか説明してもらいましょうか」

 僕は話が通じそうなのを幸いに、コミュニケーションをとって時間を稼ごうと画策したのだった。

「姿などどうでもよい。あの娘が意識を取り戻さないで永眠してくれることを祈っていたら、私に手を貸してくれる存在が現れたのだ」

 僕は彼の発言が根本的に理解できなくて重ねて質問する。

「どうして?交通事故の相手が回復してくれた方があなたも罪が軽くなるのではないのですか」

 巨大アシダカグモは僕の質問に答える前に二列目の脚を振り上げて僕めがけて振り下ろし、僕は横に跳躍してかわしたが、態勢を整えた時には今度は一列目の脚が振り上げられていた。

 八本もある脚の後半四本で体を支えて、前半の二本を交互に使って攻撃されたら僕は反撃する暇さえなさそうだ。

「顧問弁護士に相談したら、彼女が重度の障害を負いながらも意識を回復して私の過失を訴えた場合より、彼女が死んでなおかつ私が仕組んだ自分の過失を少なくする工作が露見しなかった場合の方が、罪が軽く私が支払う補償金は少なくなると言われたのだ。それ故、被害者の少女の死を願っていたら、私の願いを聞き入れると言うものが現れたのだ。それは自分では生身の人間に手出しができないが、生きた人間が強く念じて手助けをすれば人の命の火を消すことが出来ると言うのだ」

 その間にも巨大アシダカグモの脚は次々に僕に向けて振り下ろされ、僕はそれを辛うじてかわしている。

「物の怪の類に手を貸したら自分も無事では済まないはずだ。現にあなたはここでは蜘蛛の姿をしている」

 僕が指摘すると巨大アシダカグモは動きを止めた。

「そうか、この身体はクモだったのだな。私の願いが奴の力となり、奴は意識不明の少女から魂を運び出してここに縛り付けた。いずれ彼女の身体が衰弱して死に至れば、私の願いは叶い、少女の魂は私の連れが貪り食う予定だった」

 僕は自分が追体験した詩織さんの感情を思い出し、次第に怒りがこみあげてくるのを感じた。

 次々と繰り出される巨大アシダカグモの攻撃をかいくぐると僕は日本刀を頭上振りかぶって構えた。

「そんなことは許さない」

 僕は振り下ろされる太い脚に向けて再び日本刀を振り下ろし、日本刀の刃はキチン質の表面に食い込みそこから速度を増して斬り進んで脚の一本を両断していた。

 太い脚の切断面からは透き通った緑色の液体が滴り、巨大アシダカグモはたじろいだように後ろに下がる。

 僕は相手に傷を負わせたことで少し気を緩め、もう一度攻撃しようと日本刀を構えなおした。

 しかし、そこには多少油断が生じていたのかもしれない。

 巨大アシダカグモは一気に跳躍すると僕を押し倒していた。

 僕が持っていた日本刀はどこかに弾き飛ばされ、押さえつけられて身動きのできない僕の上に巨大な牙を備えた蜘蛛の口が迫っていた。

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