第471話 異形の黒い影

 山葉さんは物憂げな表情を浮かべて僕に言う。

「私はウッチーのことをお人好しと笑っていたが、行きがかり上詩織さんの件は何としてあげたいものだな。もう一度あの病院を訪ねて待合室の近辺を調べてみようか」

 山葉さんは新型コロナウイルスの感染症が蔓延している状況下で病院に行くことは気が進まないと言っていたので、この件に乗り出すのはよほど気になっているからに他ならない。

「僕たちが次にあの病院に行くとしたらもらった薬が無くなるころなので、三週間後くらいですよね」

 僕が遠慮がちに切り出すと、山葉さんは首を振った。

「詩織は昏睡状態で病院にいるのだ。私たちの手で状況を改善できるのならば、できるだけ早くしてあげるべきだろう」

 僕は山葉さんがやる気モードになっていることを確認して嬉しくなった。

「それではいつ、病院を再訪しますか」

「私たちが出かけるには、仕事のシフトの調整をしなければならない。今日一日は、私の診療が長引いても大丈夫なように、沼さんと小西さんに早めにアルバイトにはいってもらうように調整しているのだから、行くならば今日だな」

 僕は思いがけない展開に、裕子さんの顔を見るが彼女もゆっくりとうなずいた。

 僕と山葉さんが再び病院に行くことになり、準備を始めていると僕のスマホから通話が入っていることを示す着信音が鳴り、スマホアプリは坂田警部の部下である室井さんからの通話であることを表示していた。

 僕が通話に応じると、室井さんの慌てた雰囲気の声が流れ出る。

「内村さんですか?先ほど奥様から坂田警部に交通事故の件で情報提供いただいたようですが、差し支えなかったらその件でお話を伺えませんか。坂田警部が内村さんが事故当時の状況を知っているらしいと言うのですが」

 僕は何事だろうかと思って少し身構えながら彼の問いに答えた。

「ええ、ただし知っていると言っても心霊的な方法で知り得た情報なので証拠能力は皆無ですよ」

 室井さんは僕の答えを半ば予期していた様子で、彼の腸面している状況を話し始めた。

「実は、お話が有った交通事故について少し不審な点があるのです。事故の加害者であるドライバーは青信号で直進していたらドライバーから見て左方面から信号を無視した被害者が左折して車道に進入したため、ブレーキが間に合わなくて追突したと証言しているのですが、現場にブレーキ痕がないし目撃者もいないことから事故の現場や状況がドライバーの証言と異なる場合が考えられるのです」

 僕は彼の言いたいことが理解できた。ドライバーの証言と僕が追体験した事故直前の詩織さんの記憶には食い違いがあったからだ。

「僕が知り得た状況では、詩織さんは都道420号線を直進していて事故に遭っています。よれゆえ、信号を無視して左折したという事実はありませんし、事故現場も信号がある交差点を通過した場所でした」

 僕の答えを聞いた室井さんは勢を得た様子で僕に話す。

「やはりそうだったのですね。坂田警部が奥歯にものの挟まったような言い方で私に内村さんに聞いてみろと言っていたのですが、彼は相変わらず心霊がらみの手法を操作に持ち込むことを嫌っていますからね。それでも、目撃者がいないために立証困難ではあるが加害者が偽りの証言をしている疑いがあるため、私が困っているのを見かねて知らせてくれたのだと思います」

 室井さんは嬉しそうに話すが、僕が被害者の生霊に接触して事故当時の状況を見てきたと言っても何の証拠にもならないのは自明だ。

「もしも、詩織さんが意識を取り戻してドライバーの証言が間違っていると言えば状況は変わる訳なのですね」

「その通りですが、彼女は意識不明の状態が続いていますから、内村さんの話に基づいて私たちが新たな証拠物件を探さなければなりません」

 室井さんはそれでも明るい声で僕に告げる。彼にしてみれば自分の考えを支える証言があれば証拠集めに力を注ぐきっかけになるに違いない。

 僕は通話を終えてから事故現場周辺の写真とその周辺の地番を記した電信柱の写真を室井さんにメールで送り、彼が証拠物件を見つけることが出来れば良いのだがと思うしかなかった。

 その後、僕たちは昼食をとってから再び病院に向かった。

 山葉さんは行きの車内で式王子や式神の調製をしたいと言うので、ぼくがWRX-STを運転し、山葉さんは後部座席で式王子の形を整えている。

「詩織さんの霊が普通の霊と雰囲気が違うと感じたのは生霊だったためかもしれませんね。山葉さんの祈祷で姿が消えたのは彼女の霊が自分の身体に戻ったためではないですか?」

 僕が運転しながら発した問いに、山葉さんは淡々とした口調で答える。

「確かにそう考えても理屈には合うのだが、それならば彼女が何故待合室に出現したのかが説明がつかない。私は第三者の関与も含めてもう一度あの場所を調べて見ようと思う」

 僕は彼女が高田の王子の式王子を病院に着いた時に使えるように準備しているのを見て彼女の意図がそれとなくわかってきた。

 式王子とは神ではないが超常的な存在で、いざなぎ流の儀式の前にその場に存在する呪詛や邪霊の類を除去するために使われる。

 山葉さんは今回の一件を何者かが詩織さんが肉体から離れた状態に置こうとしていると考え、その影響を排除するために式王子を用意していると思えるのだった。は

 病院の駐車場にWRX-STIを止め、ロビーに入った僕たちは待合室の隅にある、詩織さんを見かけたソファに向かった。

 そこには、午前中にいざなぎ流の祈祷をした際に姿を消した詩織さんの霊が再び現れていた。

 その姿は当然山葉さんにも視認されているはずだが、彼女は眉間にしわを寄せて周囲のロビーに視線を走らせる。

 病院という場所の常でそこかしこに黒い影も見えているのだが、山葉さんはそのうちの一つを指さした。

「ウッチー、あの影を見ろ。あれは死期が迫った人間の前に出現する黒い影ではない。かかわりがあるはずの人の姿がない事がわかるはずだ。むしろ、呪詛や負の想念のようなものが、私たちの目に見えているのではないかな」

「それでは、あの影が詩織さんが地縛霊化していることの原因となる存在なのですね」

 僕はその黒い影も、死期が迫った人々の前に現れる死神を思わせる影の一つだと思っていたが、言われてみると少し様子が異なっている。

 死期が迫った人の前に現れる黒い影は、僕たちが何をしようとも機械的に目的の人に少しずつ近寄っていくのだが、その黒い影はむしろ待合室の後ろの壁際にぽつねんと存在しており、寄り付いている人の存在が確認できないことが明らかな相違点だった

「私達は死期が迫った人の前に現れる黒い影に気を取られて、あれを見落としていたわけだな」

 山葉さんは式王子や式神を紙袋に入れて目立たないように持ち歩いていたのだが、紙袋から式王子を取り出し、高田の王子の法文を唱え始めていた。

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