第465話 ウッチーの苦難

 待合室の亡霊は僕をまっすぐに見つめつつ歩みを進める。

 その霊は女性で一見して高校の制服だと判るブレザーとスカートの組み合わせを身に着け、ショートボブの黒髪と、二重の大きな瞳は生身の女子高校生ならば美人だと思うかもしれなかった。

 しかし、幽霊の類は嫌いな僕から見れば怖い存在以外の何物でもない。

 僕は待合室のソファから腰を浮かせ、逃げようと身構えたが、その霊は彼女が最初にいたソファから5メートルほど進んだところで忽然と消えた。

 僕は目をしばたいたが、その霊の姿は瞬間始動したように、最初に彼女の姿があったソファに戻っていた。

「内村徹さん」

 診察室から顔を出した看護師さんが僕の名を呼んだので、僕は足早に診察室に向かい横目でソファに座る霊を眺めたが、彼女は僕に向かって何か話しかけるように口を動かしている。

 僕はあえてそれを見ないようにして診察室に入った。

 一連の動きを見た限りではその霊は何かの理由で待合室のソファの界隈に縛り付けられた地縛霊だと思えた。

 たとえその霊がその場から離れようとしても、彼女を縛る不可思議な束縛が元の場所、つまり最初にいたソファに引き戻してしまうに違いない。

 診察室に入ると、診察に当たる中年の医師はぼくに穏やかに尋ねた。

「どうしました」

 無論それは僕が来院する理由となった体調の不良について問いかけている訳で、僕は妹の則子や山葉さんのアドバイスを思い出しながら食事の直後に背中が痛むことなどを中心に症状を訴えた。

「そうですか。それでは内視鏡を使ってみましょう」

「い?」

 不覚にも僕は胃の不調を訴えたら通称「胃カメラ」と呼ばれる内視鏡を口から胃に到達するまで挿入して診察される可能性があることをすっかり失念していたのだった。

 前日に予約した際に前夜から何も食べないように指示されていたのだから気が付いてしかるべきだったかもしれない。

「咽喉から入れるのが苦手だったら鼻の穴から挿入するタイプもありますよ。そちらにしますか」

 医師は親切にも彼から見たら苦痛が少ないオプションを勧めてくれるが、僕は鼻の穴から内視鏡を挿入されるのも微妙に気が進まない。

「普通のタイプでお願いします」

 僕は情けない声で医師に答えるしかなかった。

 診察室から処置室に移された僕は、看護師に渡されたドロッとした麻酔薬を喉の奥にとどめておくように指示される。

 喉の奥の粘膜から麻酔薬を浸透させて、内視鏡を通しやすくするためのものだ。

 粘度が高く冷たい液体を喉の奥にとどめてじっと待つ間、僕は先ほどの幽霊のことを考えていた。

 待合室に縛り付けられていると言うことは、何かの病気で来院してそこで待っている間に容体が急変して亡くなったのだろうかなどと考えているうちに、僕の喉の奥は次第に感覚がなくなっていく。

「そろそろ行ってみましょうか」

 頃合いを見て顔を出した医師は淡々とした中にも陽気な雰囲気を漂わせているが、僕は身を固くすることしかできない。

 医師が手にしたチューブ状の内視鏡の直径を見て、僕は鼻から入れるタイプにしてもらえばよかったと後悔したが、時すでに遅しだった。

 処置用のそっけないベッドの上に横たえられた僕の咽喉に容赦なく内視鏡が押し込まれていく。

 僕は自分の咽頭が異物に対して拒絶反応を起こして悶絶することを予期したが、意外にも内視鏡の先端はのど元を過ぎてさらに奥へと突き進んでいく。

 慣れない経験に耐える僕は横になった状態で僕の目に入る位置に置かれたモニターに気が付いた。

 そのモニターには、赤黒い洞窟を奥へと進んでいく動画が映し出されており、僕はそれが自分の食道内を進入しつつある内視鏡の映像だと悟った。

 やがて、映像は洞窟から大きな空洞に変わり、モニターの画面は高速度でその壁を見渡していく。

 やがて、画像の動きが止まると、医師は嬉しそうに僕に告げた。

「見事な胃潰瘍が出来ていますね」

 画面には先ほど何気なくみた処置室の壁に貼ってあったポスターの「活動期の胃潰瘍」の写真とそっくりな映像が静止している。

 僕はそれ以上見たくなくて目を閉じたが、今度は待合室で見た幽霊の瞬きをしない大きな目が鮮明なイメージで思い浮かぶのだった。

 自分の胃潰瘍の画像と幽霊の鮮明なイメージの究極の選択を迫られた僕はやむなく目を開けて自分の胃潰瘍画像と対峙する方を選んだ。

 僕が、人生の中で散々な日があるとすれば今日かもしれないと思っていると、医師は明るい声で僕に告げた。

「これからピロリ菌検査のために胃壁のサンプルを取りますね」

 画面の中ではマニピュレーターというか、棒の先にワニ口的な金具がついた物体が現れ、僕の胃の壁に進んでいくと、ワニ口金具が僕の胃壁にかじりついて、その表面をむしり取るのが見えた。

 胃壁をむしられた後からはジワジワと血がにじんでいく。

 胃潰瘍なのにさらに胃壁に穴をあけて大丈夫なのかと僕が心配になっていると、医師は事も無げに告げた。

「終わりましたよ。これから内視鏡を出しますからね」

 医師の声と共に僕の咽喉元から太い物体がずるずると引き出される感覚があり、僕の内視鏡初体験は終わった。

 僕が処置室の椅子に座って、内視鏡のダメージから立ち直ろうとしていると、医師は小さなチューブを僕に示した。

「やはり、ピロリ菌がいるようですね。最初胃酸を抑える薬を使って胃潰瘍を治療し、その後で抗生物質を使ってピロリ菌を除菌します。投薬治療だけなので心配はいりませんよ」

 医師は妙に陽気だが、それはきっと彼にとっては胃癌のような重篤な病気に比べたら胃潰瘍はくみしやすい病気のためなのだろう。

 医師は治療の終了を告げ、僕は再び待合室に放り出された。

 薬の処方を待つ間、僕は先ほど地縛霊を見た界隈から広い待合室を隔てた反対側に座り、受付のカウンターに呼び出されるのを待った。

 やがて名前を呼ばれ、治療費の精算を済ませた僕は一目散に病院を後にした。

 処方された薬は病院の駐車場の向かいにある処方箋薬局で受け取らなければならない。

 僕は処方箋薬局に入るとほっと一息ついて病院を振り返った。

 他の時ならまだしも、苦手な病院の診察を受けつつ幽霊と対決するのは避けたかったのだ。

 僕は処方された薬を受け取って足早に病院を後にしたが、病院から離れるにつれて待合室で僕に向かって何かを訴えていた幽霊の顔を思い出し、次第にそのことが気になり始めたのだった。



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