地縛霊の帰る場所

第464話 待合室のソファにて

僕は久しぶりに赤羽の実家を訪ねていた。

僕は結婚して以来、妻の山葉さんが経営するカフェ青葉の二階に彼女と一緒に住んでいるが実家はそう遠い距離ではないし、自分の勉強部屋に参考書等もあるので本来なら頻繁に訪れるつもりだった。

しかし、新型コロナウイルスの感染症の蔓延によって状況が変わり、接客をしている自分たちが両親にウイルスを持ち込まないように気を使う上に、両親にしてみれば同じ理由から新生児がいる家庭に頻繁に足を運ぶことを遠慮したため、僕が両親に会う機会は確実に減っていた。

その分、ウエブ会議システムでも使って様子を見ればよさそうなものだが、我ながら薄情なもので、実の親に対して新しいアイテムを使ってまで面談の機会を持とうとまでしないままに一年以上の時間が流れていたのだ。

そんな折に妹の則子が僕に連絡を取ってきた。

都内の大学に通う妹は、ご多分に漏れずキャンパスの閉鎖や授業のオンライン化のために実家で時間過ごす時間が長くなり、結果的に両親の健康管理もしてくれていたに等しい。

その妹が言うには、母が体調を崩したと言うのだった。

僕は陥穽を突かれたような気がして、慌てて実家を訪ねたのだった。

幸いなことに、母の体調不良は深刻なものではなかった。

妹と父の証言によれば母は時折背中が痛いと訴えていたらしいが、都の健康診断の案内を契機に人間ドックを受診したところ、活動期の胃潰瘍だと診断されたのだと言う。

僕がとりあえず、お見舞いの品としてフルーツなど買って実家に帰ったら、母は笑顔を浮かべて僕を迎えてくれた。

「お見舞いなんてわざわざ買わなくてもよかったのに。私は徹が顔を見せてくれるだけでうれしいよ」

母にしては殊勝な言葉で迎えてくれたので、僕はむしろ居心地が悪いくらいだった。

「徹兄、お母さんは胃潰瘍で痛い思いをしたけれど、結果的にはそれでよかったのよ。お母さんの胃の中からピロリ菌が見つかったので胃潰瘍の治療が終わったら除菌もすることになったのだけど、もしも除菌しないで放置していたら胃がんになっていたかもしれないのだって」

妹が話す内容を聞いて、僕は驚いた。

「ピロリ菌って放置したら癌になるの?」

「そうなんだって、だからお母さんは不幸中の幸いだったのよ」

そこまで言ったところで、妹は僕の顔を見据えた。

「知っている?ピロリ菌って家族内感染している可能性が高いんだって。徹兄も一度ピロリ菌検査をしておいた方がいいわよ」

僕は自分の考えを見透かされたような気がして少なからずギョッとした。

実は僕も、食事の後などに左の背中に疼痛を感じることが時々あり、何か原因があるのだろうかと気に病んでいたところだったのだ。

「検査を受けた方がいいのかな」

「それがね、検査してくださいと言ってお医者さんに頼んだら、検査扱いになって保険診療外になるから10割負担なんだって。お腹がしくしく痛むから見てくださいと言って診察を受けて、そのお医者さんが、検査が必要だと判断したら負担額は三割で済むから、自分から検査してくださいって言ったらだめなのよ」

妹は何処で仕入れたのか、医療費の負担割合に関わる知識を披露するので僕は感心したものの、次第に自分の胃が心配になってきたのだった。

「則子も検査を受ける気なのか?」

「だからあ、検査してくださいと言って病院に言っては駄目だってば、私は新型コロナウイルスの感染が少し下火になったら、お父さんと一緒に「胃が痛い」と言ってお医者さんに見てもらうつもりよ」

僕はしばらく会わないうちに、もともと僕よりも世事に長けていた妹がさらにしっかりしたと感じるとともに、自分も胃の診察を受けるべきだろうかと悩むことになったのだった。

その後、僕は久しぶりに両親の様子を見て、もう少し頻繁に様子を見てあげなければと思いながら実家を後にし、僕はカフェ青葉に帰ったのだった。

カフェ青葉は店舗兼住居となっており、僕は五階にある住居部分に戻ると手を洗いながら山葉さんに母の胃潰瘍の話をした。

山葉さんは、ピロリ菌の話を聞くと眉をひそめて僕の顔を見る。

「実は私もピロリ菌のことが気になっていたのだ。親が持っている虫歯菌やピロリ菌が乳幼児期の子供に感染すると聞いていたので、私たちの口に触れた食物は絶対に莉咲に与えないようにしていたのだ。しかし、ウッチーが感染源となる可能性が高いのならば、則ちゃんが教えてくれた手口で速やかに検査と除菌をしてくれ」

彼女の口調は依頼というより命令に近い。

「やっぱり、背中が痛いのは胃がやられているためなのかな」

僕が帰る間気に病んでいた不安を口にすると、山葉さんは穏やかな笑顔で僕に告げる。

「ピロリ菌の感染懸念もあるが、莉咲のお父さんがいなくなっては困るから、予約が取れ次第病院に行ってくれ」

病原菌の感染源として早く除菌しろと言われるのと、多少なりと体を気遣ってもらうのでは受け止める側の気分も違うもので、僕は病院嫌いにもかかわらず近日中に内科医を訪れる約束をする羽目になったのだった。

翌日、僕は大学院の対面授業がなかったこともあり、オンデマンドタイプのオンライン講義が割り振られた時間を使って病院に行くことにした。

コロナウイルス感染症で病院は満杯というイメージだったが、ネット予約ができる大規模病院ですんなり予約を取ることができた。

僕は健康保険証を片手に受付を済ませ、ロビーで自分の診療の順番を待つことにしたが、診療待ちのためのロビーは、密にならないようにスペースを空けているとはいえ沢山の人が目に入る。

そして、診察を待つ人には少なくない割合で黒い影を伴っている人もおり、僕は曰く言い難い気分になる。

その黒い影は祈祷によって追い払える類のものではなく、死期が迫った人に現れる時空の裂け目のような物を霊感なある人間が見ると人型の影として捉えるのだと言うのが山葉さんの説だが、僕としては治療によって事態が好転してその影が消えることを祈るしかなかいのだ。

僕は事前予約した割に待たされたため何気なく周囲を見したが、問題の黒い影以外にも「やばい物」を見てしまった気がして慌てて目をそらした。

それはロビーの壁際のソファーに座っており、一見診察待ちの患者に見えるのだがそのソファーは密防止のためにクローズされたエリアにあったのだ。

そのうえ、その人影はどことなく影が薄く色あせた雰囲気が漂い、霊視能力がある人間にしか見えない存在だと思えた。

僕はこれだから病院に来るのは嫌いなんだと思いながら、自分の診察の順番が来てこの場を立ち去ることが出来ないかと思うが、視野の端に入っているその人影がゆらりと立ち上がったのが見えた。

気が進まないままに視線を向けると、ロビーに座っていた死霊は立ち上がって真っ直ぐに僕を見つめている。

「気付かれてしまったか」

地縛霊の中には自分の死を自覚しているものもあり、往々にして自分の存在に気づいてくれる人間を待ちわびていることもあるのだ。

僕は心霊がらみのトラブルを自ら拾ってしまったことを悟った。

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