第410話 菩薩様との再会

朝になり仏師の慶臨さんの家で目を覚ました僕は、家人が寝静まっているうちに外に出た。

夜のうちに冷え込んだと見えて辺りは一面の霧に覆われていた。

しんしんと冷える中、僕は借り物の蓑の中で体を縮めている。

「内村さん僕たちは元の世界に戻れるのでしょうか」

いつの間にか後ろに来た隆夫さんが僕に問いかけたが、それは僕自身の頭の中にある疑問と同じだったので僕は答えに窮した。

昨日むやみに歩き回ったのは、麓まで出たら実は奥多摩の山奥に瞬間移動していただけで、電車になって東京に帰れるという結末を夢見ていたからだ。

しかし、遭遇したお七さんや慶臨さんと話をするにつれ、自分たちが時間をさかのぼって過去の世界に投げ出されたのではないかという疑いが強くなる。

「ここは時間を遡った過去の世界かもしれない。もしそうだとすれば適切なゲイトウェイが無ければ僕たちは二度と自分の家族に会うことは出来ない」

僕は隆夫さんが絶叫をあげることを半ば予期していたが、彼は持ちこたえただけではなく気丈に僕に答えてみせる。

「昨日僕たちが最初に倒れていた場所に手掛かりがあるかもしれないのですね」

僕はとりあえず彼にうなずいて見せる。入り口となった場所が双方向に行き来できる通路だという可能性は高いと思えたからだ。

「わっ」

「ぎゃあああああああああ」

突然後ろから驚かされて隆夫さんは飛び上がり、その悲鳴は周囲の山々に響き渡りこだまとなって戻ってくる。

隆夫さんを後ろから押したのは縞次郎君で、自分の悪戯によって大の大人が飛び上がって悲鳴を上げたことに得意満面だ。

「あははは、隆夫殿は意気地がないのう。こればかりのことで驚いていては森を抜けて都まで行くことなどとても無理じゃ」

「べ、別に都に行きたい訳でもないし。人を驚かせておいてひどい奴だ」

隆夫さんは大人げなく本気で文句を言っているが、縞次郎君は、意に介さない様子で笑っている。

「あらあら、朝から元気がいいこと。丁度良いいからおぬし達、この桶を持って下の沢まで行って水を汲んできてくれんかの」

お七さんが僕と隆夫さんを見つけて用事を言いつけると、縞次郎君を呼ぶ。

「これ縞次郎、お客様に粗相をしてはならぬ。この方たちはもしかしたら天上人かもしれぬぞ」

「そんなわけがあるものか、わしが脅したら飛び上がっておどろいたではないか」

親子のやり取りを聞きながら僕は隆夫さんを促して桶を抱えて坂道を降り始める。

「家の裏に湧水があるが、冬のこの時期には枯れてしまうのじゃ。客人をこき使ってすまぬの」

申し訳ないとは思っていない雰囲気の口調の七さんの声が僕たちの背後から届く。

「世話になっているのだから、お手伝いでもした方がほうが居ずらくないかもしれないね」

僕は急な坂道を降りながら隆夫さんに話しかけるが、彼は涙ぐんでいるようだ。

「ここ、絶対に現代の日本じゃありませんよ。僕たちは神隠しに遭って得体のしれないこの世界で朽ち果てるのではないですよね」

その可能性は否定できないし、僕自身もそうなることを恐れていた。

昨日意識を取り戻した場所もただの笹原で取り抜ければ元の世界に戻れるような形象は何処にも存在していなかった。

「とりあえず、目の前の用事をかたづけましょう。やっと沢が見えてきましたよ」

水場にしている渓流は、家から百メートル以上も斜面を下った場所にあった。

僕たちは谷を流れるきれいな水を汲むが、水を満たした桶は相当な重量だ。

僕は紐を付けた桶と、出がけに渡され樫の棒を見て気が付いた。

「普段はお七さんか、慶臨さんが一人でこの桶を二つ運んでいるのだね」

「有り得ないですよ。僕はこの桶を一つ持ち上げるだけで精一杯なんですけど」

隆夫さんは桶一つを抱えてよろよろと斜面を登っており、家の前までたどり着いた時には僕も隆夫さんも疲労困憊した有様だった。

「水汲みを手伝ってくれたから助かった。お礼に朝餉を食べていただこう」

お七さんは桶の水を台所の土間にある大きな甕に移し替えながら僕たちに言う。

薪で火を起こし炊飯するにはしばらく時間を要し、質素な朝食を食べ終えたころには周囲はすっかり明るくなっていた。

明るくなったところで、慶臨さんの作業場を覗いて僕は息をのんだ。

そこに置かれていたほとんど仕上がった菩薩像は隆夫さんの背後に取り憑いていた霊の姿と瓜二つだったのだ。

笹原で目覚めて以来隆夫さんの背後に菩薩のような霊の姿は見えなくなっており、見比べることは出来ないが、記憶に残る姿と慶臨さんが作った菩薩像の姿は重なると思える。

隆夫さんも菩薩像のフォルムに気づいた様子だった。

「この仏像、僕が夢に見たのとそっくりなのですけど」

「僕もそう思います。もしかしたらこの家が元の世界に戻る鍵になるおかもしれませんね」

別世界に転移したきっかけが菩薩像のような姿の霊に触れたことであり、その霊と似通った仏像があるのならば、何か関連がありそうだ。

「わしの仏像がどうかしたのかな」

慶臨さんが僕たちの様子を見てさりげなく尋ねたので、僕は思い切って彼に事情を打ち明けることにした。

「僕たちはこの菩薩像に導かれてここに来たような気がするのです。僕たちはこの世界に属する人間ではなく元に戻る方法を探しているのですが、この仏像がそのカギになると思うのでしばらくこの家に置いていただけませんか。できることが有れば何でも手伝います」

慶臨さんは僕と隆夫さんをしげしげと見つめていたがやがて口を開いた。

「わしもおぬしたちが異界の者ではないかと思っていた。何より身に着けているものが見たこともない形であるからな。そのような事情があるならば手伝ってもらいたい仕事はあるからしばらくここに逗留されるがよい」

慶臨さんは鷹揚に僕たちの滞在を認めてくれたが、僕は彼らに負担をかけるのではないかと心配だ。

「あの、手伝うとしたらどんな仕事をすればよいのですか」

僕が口を開く前に隆夫さん後おずおずと尋ねた。

彼は肉体労働に慣れておらず、水を汲んだだけで疲労困憊していたので、手伝う仕事の内容が気がかりなのだ。

「この山の領主様に仏像に使うための木を切り出す許可を頂いている。すでに伐採して山の中で乾燥させている木材があるので、それをここまで運んでくるのを手伝ってもらおうか」

どうやらその仕事には人手を要するみたいなので、僕はそれらしき仕事があって安心したのだが、隆夫さんの心配そうな表情は消えない。

「その木材ってどれくらいの大きさなのですか」

「一抱え程の丸太と思えばよい。丁度男手を雇おうと思っていたので手伝ってもらえるなら好都合だ」

話しからすると仏像用の木材はかなりの重量がありそうで、隆夫さんは気落ちした様子で俯いた。




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