第411話 丸太運び
日が昇ると僕と隆夫さんは慶臨さんに連れられて山に分け入った。
慶臨さんにしてみれば、人手が確保できたのでこれ幸いと仏像の素材となる木材を搬入することにしたのだろう。
山に分け入り落ち葉が積もった斜面を登るうちに、僕は自分が最初に倒れていた場所から、お七さんと出会った滝壺に至るまで、自分が歩いた経路の立木に傷を着けていたことを思い出した。
慶臨さんに連れられて歩く道のわきにある立ち木に、同じような傷があったためだ。
「隆夫さん、昨日この道を通った覚えはありますか」
隆夫さんは歩きながら周囲の景色を見ていたがやがて首を振った。
「いいえ、昨日はこんな場所を通った記憶は無いですよ」
彼の言葉は僕の考えを裏づけ、立木の傷への疑惑が高まった。
「あ、あの、この木にある傷って誰かがつけたのですか」
僕は慶臨さんに尋ね、彼は先を急いでいたのに気を悪くした様子もなく僕が示す立木の傷を眺めた。
「これは誰がつけたものでもない。この山に居るシカの雄が角を木の幹にこすりつけた時にできる傷だ。ほれ、その向こうの木にも同じようなものがあるだろう」
僕は自分がつけた目印の傷と同じような傷をシカがあちこちに着けていることを知り愕然とした。
シカが角をこすった傷が至る所にあるとすれば、僕と隆夫さんがこの世界に転移したポイントへの道しるべは失われたに等しいからだ。
「いやああああああああ」
感の良い隆夫さんは僕の失敗にいち早く気づいて絶叫をあげ、あまり聞きたくない雰囲気の叫び声が周囲の山々にこだまする。
「どうしたというのじゃ。訳を言うてみい」
慶臨さんは僕たちが突然に落ち込んだのを見て心配そうに尋ねる。
僕は、まだ立ち直っていない隆夫さんの様子を見ながら事情を話すことにした。
「僕たちは、はるか未来の世界から意図せずにこの世界に落ち込んでしまったのです。その時の場所が帰還する手掛かりになると思っていたのですが。僕が道しるべにするために歩いた後に付けてきた印は、シカが角をこすりつけた傷とそっくりなので、彼はその場所にたどり着くことは出来ないと思って落胆したのです」
隆夫さんは手直な木に残る鹿の角跡を見ながら僕たちに気の毒そうに言った。
「そこもとらは、妙に変わったところがあると思っていたがそのような事情があったのだな。その場所に行きたいならば、次の機会がある時にわしもいっしょにさがしてやろうぞ。ところで、おぬしは未来から来たと申したが、そこはどのような所なのじゃ」
僕は口を滑らせたことを悟ったが、仕方なく彼の期待度を満たすような話をすることにした。
「あなた方の東国、武蔵の国あたりに都が移り、その周辺に三千万人くらいが住む大きな都市が出来ているのです。その時代には空を飛ぶ乗り物もでき、人は月にまで到達しているのです。」
「なんと、そのような時代が来ると申すか。到底信じられぬが、空を飛ぶ乗り物とやらに乗ってみたいものじゃの」
慶臨さんは何処まで信じたのか定かでないが、とりあえず僕に話を合わせてくれる。
隆夫さんはパニック状態からどうにか立ち直りつつあるが、その表情は暗い。
「まあ、おぬしたちが仙人じみた雰囲気なのもその話を聞けば納得できるのう。それはさておき、この木を見てみよ」
慶臨さんは僕たちに一本の大きな木を指し示した。
その木は幹の地際が一抱えほどもある大木で、クリスマスツリーにする樅ノ木に似た針葉樹だった。
その葉は小さい葉が集まった羽状副葉というタイプだが、小さい葉の面積が樅ノ木よりも大きく密についており、ワイルドな雰囲気を醸し出している。
「イチイですか」
少なくとも樅ノ木ではないので似たような木の名前をあげると、慶臨さんは微笑を浮かべて僕に言う。
「イチイを知っておるのは上出来じゃが、これは榧という木で硬く、年月を経ても狂いが出ない良い木材が取れるのじゃ。わしはこの木を入手できるからこそあの場所に居を構えておる」
僕は榧の木という名前はおぼろげだが聞き覚えがあり、碁盤を作るのに使うという話だったと考えている。
その時僕の横で隆夫さんが口を開いた。
「僕の祖父も仏像を作る時にその木を材料として使っているようです。ただし、僕が練習に使うのはもっと安い材ですけどね」
慶臨さんは眼を細めて彼の言葉を聞き、そして彼に言った。
「未来においても私と同じ素材を使う仏師がいるのは喜ばしいことじゃ。そなたや祖父殿がどのような仏像を作るのか見せてもらいたいものじゃ」
隆夫さんは複雑な表情を浮かべると無言でうなずき、僕たちは再び仏像の材料を運ぶために山を登り始めた。
慶臨さんが伐採した榧の木を乾燥させていた現場に着くと、玉切りした原木が無造作に積み上げてあった。
直径50センチメートルはありそうな榧の木が使いやすい長さに断ち切られて集積されているのだが、慶臨さんは木材の状況を調べると僕たちに告げる。
これを三人で一本担いで山を下りよう。天気や山の状況を見ながら搬出していけば、麓から人を雇う必要が無くて私としては大変助かる。
慶臨さんがそう言ってくれると、僕と隆夫さんにとっては居候がしやすくて好都合だ。
積み上げられた木材の一つを三人で持ち上げようとした時、隆夫さんは手を滑らせた。
霧で湿った木材ゆえに、そえは隆夫さんの責任ではないのだが、慶臨さんは隆夫さんが手を滑らせて地面に落としかけた木材を支えようとして、下に置いた木材との間に手をはさんでしまった。
「大丈夫ですか慶臨さん」
僕が慌てて尋ねるが彼は苦痛に顔をゆがめている。
相当な重量がある丸太を支えようとして、別の丸太との間に手をはさんでしまったので、慶臨さんの左手は血に染まっている。
「すいません。すいません」
隆夫さんは詫びの言葉を繰り返しているが、慶臨さんは左手押さえてうずくまってしまった。
慶臨さんの痛みが少し引いたところで、僕は彼の負傷の状況を調べたが、重量のある木材に挟まれたため、彼の指の一部はつぶれ、血が噴きだしている。
慶臨さんは、話すことは出来るようになったものの、材木運びはもとより仏像製作が可能かどうかすら危ぶまれた。
しかし、彼は僕たちに気遣うように言う。
「気にせずともよい。せっかくここまで来たのであるから、その丸太わしの家まで持ち帰ろう。わしは片手が使えぬ故、おぬしたちが主に運ばねばならぬが、できるかな」
隆夫さんは血がにじむ慶臨さんの手を見ながら、真剣な表情で言った。
「申し訳ありませんでした。その木材僕一人でも運ばせてください」
榧の木の丸太を運ぶとなれば、当然僕も手伝うのだが、隆夫さんは責任を感じているのか硬い表情で丸太を担ごうとしていた。
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