第392話 再会の時

僕たちは慶子さんが経営するシェアハウスまで戻ることになり、芳恵さんは耕平さんと一緒にタクシーで同行することになった。

「車いす用のタクシーを呼ばなくて大丈夫なのですか」

僕は車いすを使っている耕平さんが普通のタクシーに乗り降りするのは不便なのではないかと思い、芳恵さんに尋ねた。

「大丈夫です。ひいおじいちゃんは意外としっかりと歩けるんです。ただ、ご本人が若い時のつもりで無理なことをしがちなので、車椅子を使うように皆で説得したのです」

芳恵さんは両手で耕平さんの手を引いて立ち上がらせるが、耕平さんはゆっくりだがしっかりした足取りで歩いて見せる。

「こうして、手をひいてあげるか、歩行器を使って歩くようにしないと転倒の危険が大きいと医師に言われているのですが、杖もつかずにフリーで歩いて転倒したことが何度もあるのです。ひいおじいちゃんの年齢では転んだら即骨折する可能性が高いし、骨折してしまえばもう治らなくて寝たきりになるかもしれないのに」

芳恵さんは、施設の介護スタッフが呼んだタクシーにゆっくりと耕平さんを誘導していく。

ぼくは耕平さんが乗っていた車いすをタクシーのトランクルームの後ろまで運び、車いすを折り畳もうと、ロック機構やヒンジの位置を探した。

どうにかロックを外して折り畳んだ時に、芳恵さんが僕に手を貸しタクシーのドライバーが開けたトランクルームに車いすを収めることが出来た。

「すいません手伝わせてしまって」

「いいえ、気になさらずに」

タクシーのドライバーはトランクルームを閉じる。

芳恵さんに行き先を告げてからWRX-STIに乗り込むと、山葉さん達は待ち構えていた。

「高齢者になるといろいろと大変なものなのですね」

「うむ耕平さんの場合は認知症が始まっている様子だから介護スタッフは苦労しているようだ。さっきの介護スタッフに聞いたのだが、夜中の二時、三時に起きて、玄関を開けて外に出かけようとすることが頻繁にあるそうだ。家庭で介護することはとても無理だろうね」

山葉さんが僕に答えて気の毒そうな表情で答える。

「スタッフの方の話では、あの耕平さんと言うおじいちゃんは自分の年齢が二十台前半で今が朝鮮戦争が起きた頃だと思っているそうですよ」

小西君も自分が調べた知識を披露するが、朝鮮戦争と言えば70年も前の話だ。

「それでは、耕平さんはひ孫の芳恵さんや周囲の介護スタッフは何だと思っているのだろう?」

僕は異聞が感じた疑問を口にする。

耕平さんは車いすに乗ってはいるが、一見すると元気で頭もはっきりとした高齢者に見えたからだ。

「きっと、わからないなりに自分が理解出来る解釈をしているのだろう。それでも芳恵さんんは正しく認識しているみたいだから70年分の記憶が全て飛んでいるわけではないみたいだ」

山葉さんは解説しながらWRX-STIをゆっくりと走らせている

僕たちは大して時間もかからずに慶子さんの自宅兼シェアハウスに到着した。

後ろに続いてきたタクシーは駐車エリアの真ん中に停車し、ドライバーが車いすを下ろし始める。

僕も手を貸して車いすを下ろし、ヒンジ部分をロックして乗れる状態にした。

しかし、耕平さんはタクシーから降りると一歩二歩と自分の足で歩いて、シェアハウスに歩いて行く。

「ひいおじいちゃん。危ないからそのまま歩いちゃだめ、私が手を引くから待って」

耕平さんは芳恵さんの声が耳に届いたらしく、足を止めると僕の前にある車いすに視線を移した。

「僕はそんなものが無くても歩けるよ」

耕平さんは口では否定しながらも、僕が車いすを運ぶとおとなしく車いすに腰を下ろし、芳恵さんはゆっくりと車いすを押し始める。

「この家は見たことが有るよ。芳恵さんが住んでいる家だ」

「あら、私も芳恵だけどここに住んでいるのかしら」

芳恵さんは耕平さんを試すように尋ねる。

「いいや、君は私の可愛いひ孫の芳恵ちゃんだ。ここに住んでいるのは私の婚約者の芳恵さんだよ」

僕たちは、どういうふうに言葉を掛けたらよいのかわからず無言で二人の後に続く。

慶子さんは先に立つと玄関を開けて車いすの耕平さんを迎え入れた。

「いらっしゃいませ。耕平さん」

慶子さんが短く挨拶すると、耕平さんは彼女の顔を見て笑顔を浮かべた。

「敏美さん、しばらく見ない間に大人っぽくなったね」

「いえ、私は敏美ではありませんけど」

慶子さんが否定するが、耕平さんは頓着せずに玄関先で車いすを降りてフロアに立ち上がろうとする。

床面は車いすが置かれている土間よりも高く、直接足をかけるのは危険に思えた。

しかし、耕平さんは思いがけない身軽さで床の上に立ち、廊下を歩こうとする。

「待って、ひいおじいちゃん。そんなに早く歩くと転んじゃうから」

芳恵さんが慌てて近寄り、耕平さんの腕をつかんだ。

「聞きなさい。ピアノの音が聞こえるだろう。あれは芳恵さんが私のために練習してくれているのだ」

耕平さんの言葉を聞いて、僕も識息の下で流れてたピアノの音に気が付いた。

山葉さんも僕と同じようにピアノの音に気が付いた様子だ。

芳恵さんは青ざめた顔で僕たちに尋ねた。

「ピアノソナタの月光ですね。誰が弾いているのですか」

山葉さんは何と答えようかと迷った挙句に本当のことを告げることにしたようだった。

「ピアノを弾いている人などどこにもいません。今2階のピアノの前に行っても無人の部屋に古いアップライトピアノが置いてあるだけでしょう。この音はいわゆる霊感がある人間にだけ聞こえているのです」

芳恵さんは既に察していたらしく大騒ぎはしないが、その顔は一層青くなったように見える。

「ひいおじいちゃんの婚約者だった芳恵さんの霊が弾いているのですか」

山葉さんはゆっくりとうなずいて告げた。

「彼女のピアノが耕平さんの耳に届く今、死者の霊を慰める祈祷を行います。それで彼女を来世に送ることが出来ればよいのですが」

山葉さんも先程ポルターガイスト現象で追い払われているので心なしか歯切れが悪い。

「2階から聞こえているようだな。この階段を登っていいかね」

耕平さんはさっさと階段を登ろうとするので、僕と芳恵さんが両脇を支える形で階段を上ることにした。

階段を登り切り、霊感のある者だけにピアノの音色が聞こえる部屋に近づくと、ベートーベンのピアノソナタ14番は第2楽章に入っていた。

明るい曲調のピアノの調べは二つの魂が膨大な年月を終えて再会することを喜んでいるように感じられる。

やがて、耕平さんはピアノや古い調度品を封じこめた部屋に到達し、ドアノブに手をかけた。

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