第393話 coda

耕平さんが扉を開くと、古いアップライトピアノや調度品が置かれた部屋はしんと静まり返っていた。

「おかしいなあ。この部屋からピアノが聞こえていると思ったのに」

耕平さんは足早に部屋に入ろうとするが、僕と芳恵さんが左右から両手を抱えて支えているので、思うように進むことは出来ない。

「芳恵さん、どこにいるんだ。今そこでピアノを弾いていたのはあなたなのだろう」

耕平さんは部屋の内部を見渡しながら小声でつぶやき、耕平さんのひ孫の芳恵さんは彼女の曽祖父を見守っているが、その顔色は演奏者不在で流れてくるピアノの音色を聞いたため蒼白だった。

山葉さんは先ほどの祈祷を行った時のまま放置されていた「みてぐら」に歩み寄ると、いざなぎ流の祭文を唱え始めた。

山葉さんはゆっくりと舞うように動きながら祭文を唱え続けるが耕平さんはそれが目に入らない様子で、アップライトピアノの前に立つ。

山葉さんの祭文の詠唱は次第に熱を帯び、それに伴い彼女の動きも神楽と呼ばれるにふさわしいものに変わっていた。

やがて、僕の耳にはピアノソナタ「月光」第3楽章が響き始めた。

ピアノの演奏は流麗でとちることなく続き、ピアノの演奏に呼応するように山葉さんの詠唱もテンポを速める。

やがて、山葉さんが祭文を締めくくる「りかん」の言葉を唱えた時、辺りは白い光に満たされた。

光が弱まり、僕の目が周囲の光景を映し出した時、古いアップライトピアノの鍵盤の前には懸命に演奏に取り組む若い女性の姿があった。

「芳恵さん」

耕平さんが小さな声でつぶやいたのでそちらを見た僕は息をのんだ。

そこに佇んでいるのは90歳を超え、転倒の危険があるから支えなしには歩けない高齢者ではなく若々しい20代の青年の姿だった。

ピアノを弾いている女性は気配を感じたのか、一瞬僕たちに視線を投げたが再び演奏に没頭する。

やがて、女性はベートーベンのピアノソナタ14番の第3楽章を最後まで弾き終え、曲の余韻が残る中でゆっくりと僕たちを振り返った。

「耕平さん忙しいのに来てくださったのね。私、耕平さんがご所望のピアノソナタを最後まで弾けましたのよ」

「聞いていました。僕はこの曲の最初のほうだけイメージして引いて欲しいと言ったのですがこんなに難しい曲だとは知らなかったのです。すごく上手な演奏でした」

耕平さんは明るい声でピアノを弾いていた芳恵さんに答える。

そして、耕平さんのひ孫の方の芳恵さんは凍り付いたように彼女の曽祖父の姿を眺めていた。

「そんな事ではないかと思っていました。でも私はちゃんと練習しましたのよ」

耕平さんは芳恵さんの横に歩み寄ると彼女の手に触れようとしたが、芳恵さんはさりげなく立ち上がって耕平さんから離れる。

「私はあなたを思ってピアノの練習をしている間幸せでした。もともと上手ではなかったのですごく大変だったのですがおかげでずいぶん上達したのです。だからこそあなたに聞いて欲しかった」

僕は山葉さんが、新たに祭文の詠唱を始めていることに気が付いた。

それは「みこ神」の祭文で、亡くなった人を神として祀り来世へと送り出すための祭文だった。

「待ってくれ芳恵さん。どこに行くつもりなんだ」

耕平さんが手を伸ばすと、芳恵さんの姿は瞬時に数メートルも移動して耕平さんから距離を取った。

「あなたの前で最後まで演奏が出来ただけで私は満足すべきなのですよね。本当はもっといろいろなことをあなたと一緒に学びそして経験したかった」

芳恵さんは次第に人としての姿を失い、青い光の塊となって山葉さんの手のひらの上に吸い寄せられていく。

山葉さんが強く気を込めると青い光の塊は忽然と消え、フィアンセのためにピアノの練習をするという幸せな時間に封じ込められていた魂は何処とも知れぬ未来の時空へと送り出されていった。

「芳恵さん待ってくれ」

耕平さんは芳恵さんの後を追って駆け出していた。

「ひいおじいちゃん危ない!」

耕平さんのひ孫の芳恵さんは悲鳴のような声をあげて耕平さんの後を追うが、耕平さんは既に足がもつれて倒れていた。

「しまった」

山葉さんも唇をかんで、耕平さんに駆け寄る。

ひ孫の芳恵さんが耕平さんに取りすがった時、僕は耕平さんの姿が、本来の高齢の男性の姿に戻っていることに気が付いた。

「骨折しているかもしれない。救急車を呼んでください」

芳恵さんの要請に、慶子さんがすぐに緊急通報を始めていた。

僕は、目を閉じて動かない耕平さんを目の当たりにして、なぜこんなことになってしまったのだろうと自問するしかなかった。

「連れて行かれたのではないはずだ」

山葉さんは沈痛な表情でつぶやく。

緊急通報から救急車の到着までの時間は客観的には極めて短かったのだが、僕たちにはすごく長い時間に感じられた。

救急隊員は耕平さんをタンカに乗せて呼びかけるが彼は答えない。

結局、救急車に芳恵さんが付き添い、行きがかり上僕たちもWRX-STIで救急搬送先の病院に行くことになった。

しかし、ストレッチャーに乗せられた耕平さんが救急車に乗せられても救急車はなかなか動かなかった。

「どうして動かないのでしょう?」

僕が誰にともなく尋ねると、山葉さんは暗い声で答える。

「新型コロナウイルス感染症の影響だ。救急搬送を受け入れてくれる病院がなかなか決まらないのだ」

僕と山葉さんが救急車を注視していると、慶子さん小西が遠慮がちに尋ねた。

「ピアノの音の件は、解決したのですか」

「ピアノの音の主は、耕平さんの婚約者の芳恵さんでした。祈祷の効果で耕平さんと芳恵さんは言葉を交わすことが出来たので芳恵さんは満足して来世に旅立って行ったのだが、耕平さんは追いかけようとして転倒したのです」

山葉さんは慶子さんに答えて唇を噛む。

「なんてことかしら。後期高齢者は転倒が命取りだと言われているのに」

慶子さんは沈んだ声で呟いた。

「慶子さんすいません。あのピアノの音の主は心残りが無くなり旅立っていったのでもうピアノの音に悩まされる人はいないはずなのですが、その過程でこんなことになるなんて」

山葉さんは申し訳なさそうに慶子さんに詫びるが、慶子さんは温厚な表情で山葉さんを宥めた。

「私も一瞬だけどピアノを弾いている女性の姿が見えたわ。あの方が、ひいおばあちゃんのお姉さんだったのね。あなたは彼女の心残りが無くなるように意を尽くしてくれたのだから誰にも謝る必要はないわ」

それでも山葉さんは俯いていたが、その時になって救急車がやっと動き始め救急車に付き添った芳恵さんから僕に通話が入る。

「搬送先が決まりました。三鷹の森総合病院です」

「わかりました。僕たちもそちらに向かいます」

僕は、芳恵さんに答えてWRX-STIのエンジンを始動したが、緊急車両に付いて行く訳にもいかないので、僕は救急車が走り去るのを見送ってからおもむろに発進した。

助手席に座った小西さんはカーナビゲーションに三鷹の森総合病院を目的地として経路をセットする。

病院までの距離は短く、僕たちは外来駐車場にWRX-STIを置いて救急診療の病棟に向かった。

病棟の廊下で寡黙に待つこと数十分、やがて処置室のドアが開いて車いすに乗った耕平さんとひ孫の芳恵さんが現れた。

「ご心配をおかけしました。ひいおじいちゃんは骨折も無いし頭部のCTも異常はないそうです」

山葉さんが大きく息を吐きだしたのが聞こえた。

「このまま検査入院することになりましたのでどうかもうお引き取り下さい。今日はありがとうございました」

芳恵さんはしっかりした様子で僕たちに告げ、夕方には両親も様子を見がてら迎えに来ると言うので、僕たちは引き上げることになった。

数日後、山葉さんと僕そして小西さんが仕事で顔を合わせ、ディナータイムの後の遅い夕食を食べているときに耕平さんが話題に上った。

「芳恵さんに聞いたのですが、耕平さんが夜になると用事があると言って出かけようとする問題行動はあれ以来見られなくなったそうです」

「耕平さんの問題行動の原因が芳恵さんの記憶だったのですかね」

僕が疑問を口にすると山葉さんが穏やかな表情で答える。

「耕平さんの想いが芳恵さんの霊を引き留めていたのか、逆に芳恵さんの霊が耕平さんを呼んでいたのか、今となっては確かめるすべはないね。成就できなかった想いに終止符を打てたと言うものだろうか」

「二人とも思い残りが無くなったのならばいいですね」

僕たちがしんみりと話をしている横で、小西さんはLIMEのトークを打つのが忙しい様子だ。

「ここにはどさくさにガールフレンドを作った奴がいるみたいだし」

山葉さんが小西さんのスマホの画面を盗み見ながらつぶやくと、彼は慌てて画面を隠した。

「いいえ、事後連絡をしていただけですよ」

僕と山葉さんは彼がまじめ腐って答えるのが可笑しくて笑いはじめ、当の小西さんは何を笑われているかわからない様子で不思議そうに僕たちを見返していた。  

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