第388話 途切れた演奏

「ウッチーさんには何か聞こえるのですか」

小西さんが僕たちの様子を見て遠慮がちに尋ねる。

「ピアノの音が聞こえているんだ」

僕と山葉さんの耳にはベートーベンのソナタが流れているのに霊感がない小西さんには何も聞こえていないようだ。

その間に大家の慶子さんは廊下に並ぶドアの一つをマスターキーを使って開け、僕たちは慶子さんの後を追って室内に入った。

室内はきちんと片付いて整理されているが、よく見るとそれは調度品の全てが真新しく住民が生活していた痕跡がないためだと判る。

「この部屋の方は、入居して生活する暇もなく帰省されたのですか」

僕が尋ねると、慶子さんはウンザリした表情で応じる。

「清遠さんが帰省されたのは四月の話です。建前としては清遠さんの大学が当面封鎖されることになったためと話されていましたが、どうも隣室からの物音が気になっていたみたいです」

僕は他人の部屋に入ることで視覚に集中していたが、聴覚に神経を集中するとやはりピアノの旋律が響いている。

その音は廊下で聞いた時に比べて心なしかくぐもって聞こえた。

まるで隣の部屋で本物のピアノを演奏しており、それが壁越しに響いているような音響効果で、僕は霊的なものではなく本当に誰かがピアノを弾いているのではないかと思うくらいだ。

なまじ霊感を持っている人がこの建物に住むと、人気がない建物内で四六時中ピアノの音が聞こえ、そしてそれが自分にしか聞こえないことが判明して精神的に追い詰められていくにちがいない。

「ウッチーさん、ピアノって今も聞こえるんですか?それは単音でポーンと言う感じなんですか。それとも何かの曲になっているのですか

「さっきからベートーベンのピアノソナタ「月光」が聞こえるんだ。階下で出会った女性の言うとおりだね」

僕が答えると小西さんは耳をそばだてて聞こえるはずのない音を聞こうとしている。

ピアノソナタはいつの間にか第2楽章に移っており、山葉さんは建物内の様子を窺いながら慶子さんに質問する。

「この建物の中にピアノを置いてある部屋はありませんか」

慶子さんは首をかしげるしぐさをしながら自分も周囲を見渡した。

「この建物は戦前に建てられたもので、祖父の代から住んでいます。以前は古い調度品がそのまま残っていたのですが、改装するときに好みに合う品物以外はあらかた処分いたしました。この階には仰る通り、ピアノを置いた部屋もありましたので、建物を改装するときに残しておきたい家具などをその部屋に集めました。それ故、古いアップライトピアノを始めアンティークな家具や古い書物のようなこの屋敷の歴史が詰まった品物はその部屋に集めています」

山葉さんは慶子さんの言葉にうなずくと、低い声で尋ねた。

「その部屋を見せていただくことは出来ますか」

慶子さんは微笑して山葉さんに答える。

「もちろんよろしいですわ」

慶子さんはそれまで持っていたマスターキーをしまうと、ポケットから別のカギを取り出した。

改装の際に各部屋を近代的なカギに取り換えたが、問題の部屋の鍵は従来の鍵をそのまま使っているという事らしい。

慶子さんに案内されてその部屋の前まで来ると、いつの間にかピアノの音は聞こえなくなっている。

僕たちが固唾を飲んでみている前で、慶子さんは古びた鍵でその部屋の錠を開けた。

ドアが開くと、微かに黴臭いような臭いを嗅いだ気がしたがそれは気のせいかもしれなかった。

そして、慶子さんが先頭に立って部屋に入り僕たちもその後に続く。

部屋の中には木目調のアップライトピアノや、歴史を感じさせる家具調度品や絵画、それに古い書物が雑然と配置されていた。

「ピアノが聞こえなくなったな」

山葉さんはアップライトピアノを一瞥すると慶子さんに尋ねた。

「このピアノは誰が使っていたのですか」

慶子さんは動きを止めて考え込んだ。

「使ったと言えば私や兄がピアノのお稽古に使いましたし、私の父もこのピアノを弾いたはずです。でも、最初に使っていたのは祖母とその姉だと思います」

僕は三世代にわたって使われていたピアノを改めて眺めた

細かい傷はあるはずだが、そのピアノはきれいに保たれ今でも使えそうなコンディションだ。

「一番かさばるものなのですけど、これはどうしても捨てることが出来ませんでした。今でも年に一度は調律を頼んでメンテナンスをしているのですよ」

慶子さんがそっと鍵盤のふたに手を触れた時、僕は無人のはずのピアノの椅子に若い女性が座っているのが見えた気がした。

現実に存在するピアノは、蓋を閉じて静謐にそこに置いてあるだけなのだが、女性は両手を鍵盤に伸ばして真剣な表情で演奏に取り組んでいる。

奥が目をしばたいてもう一度よく見ようとした時、その女性の姿は跡形もなく消えていた。

その代わりのように、どこからともなくピアノの音色が聞こえはじめ、それはベートーベンのソナタ第14番の第三楽章を奏で始める。

第三楽章は冒頭の第一楽章と対照的に情熱的と評される曲調だ。

分散和音が速いテンポで音階を駆け上がり、疾走するようなスピード感なのだが、僕はそこで思わず動きを止めた。

聞こえてくるピアノの音は極めて上質な演奏だったのだ。

しかし、流れるような演奏は突然音階を外しそこで演奏は止まる。

メディアで供給される音源のように感じていた僕は、演奏がとちったことで何者かが演奏していたものだということを強く意識させられた。

山葉さんも同様に感じたようで、驚いたような表情でピアノを見つめる。

そして、僕と山葉さんの表所を不思議なものを見るような表情で小西君が見つめていた。

彼から見たら僕たちは二匹の猫が人には聞こえない物音に一斉に反応しているのにそっくりな仕草をしているに違いない。

「今、引き間違えて演奏を止めたような気がしたけど」

「僕もそう思いました」

山葉さんは物憂い雰囲気でピアノを眺めて呟いた。

「もしも、今の曲を最後まで演奏できないことが心残りとなって、この世に執着しているのだとしたら、私はどうしたら良いのだろう」

山葉さんは、浄霊する際も霊が抱える未練や執着を解消しなければならないと考えている。

僕は幽霊にピアノを特訓するにはどうしたらよいか、本気で考えていた。


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