第389話 ポルターガイスト現象
山葉さんは慶子さんを振り返るとおもむろに告げた。
「この部屋に置かれた品物のどれかに、思いを残して亡くなった方の霊が憑いているようです。ここで祈祷して浄霊を試みたいと思うのですが」
慶子さんは神妙な表情で山葉さんに答える。
「是非お願いします。入居者の方々は学生さんが多いのですが今のところ一時帰省の形をとってくださる方がほとんどです。でも、今の入居者の方々が契約解除したうえ、妙な物音が聞こえるとか風評が流れたら、ここの改装費用が回収できなくなって私も困りますから」
山葉さんは周囲に置かれた古い家具などを見ながら慶子さんに尋ねる。
彼女が思いを残した霊がピアノに取り憑いていると言わないのは、ピアノ周辺に霊体が見えないことに起因している。
僕自身が見たピアノを弾く女性の姿も、幽霊がピアノの前に座ってピアノを弾いているわけではなく、その光景が自分の記憶を回想するように垣間見えた感が強い。
「立ち入ったことを聞いて申し訳ありませんが、あなたはこのシェアハウスの賃貸で生計を立てておられるのですか」
「ええそうです。私は最近夫と離婚したところなのです。慰謝料は貰ったのですが、それは老後のためにキープしたいので、両親から受け継いだこの家をシェアハウスに改造し、家賃収入を生活費に充てようと思っていたのです。でも、入居者のうち少なくない人がピアノの音の幻聴に悩まされて引っ越しも考えているようなのです。コロナウイルス感染症の件で学生さんが一時帰省したために新しい住居を探すような話が進んでいないのが私にはかえって幸いしたかもしれません」
山葉さんは傍らに立つ僕に小声で囁いた。
「予定通りに祈祷を始めることにしよう。大家さんもお困りのようだ」
「でも、霊の心残りを解消しなければ、本格的な浄霊にならないのではありませんか」
僕は、いつもなら霊の事情も斟酌してその心残りを解消してから条例に取りくむ山葉さんが、そのまま浄霊に取り掛かろうとするのが少し意外だった。
「私もそう思ったのだが、ピアノソナタが上手に引けないことが引っかかってこの世にとどまっているのならば、慰めてあげれば心残りを解消出来るかもしれない。それ以外にも理由があるなら改めて考えよう」
山葉さんは、霊の本体が確認できないこともあるので、いざなぎ流の祈祷を行うことで事態が動くことを期待しているようだ。
僕は車に積んであった式王子等の祭具を山葉さんと一緒に運び、いざなぎ流の祈祷の準備を整えることにした。
慶子さんが古い家具等を収納した部屋に、「みてぐら」をしつらえ、準備が整ったところで山葉さんは御幣を手にして祭文の詠唱を始めた。
「みこ神」の祭文を唱え、この世に未練を残して彷徨う霊を神として祀り、その上で新しい命に転生させることが目的だ。
いざなぎ流の神楽と呼ばれるゆっくりとした舞のような動きと共に山葉さんの詠唱の声が部屋の中に流れる。
しかし、詠唱の声にいつしかピアノの音が重なるのを僕は感じていた。
そして、周辺に人気がなく、締め切った建物の中で風もないはずなのに部屋の入口のドアが勢い良く閉じられた。
ドアは叩きつけられるように閉じられ、その音は家中に響くほどのものだった。
小西さんと慶子さんが大きな音にビクッとしたのが見えたが、山葉さんは動じないで祭文の詠唱を続けている。
しかし、部屋に置かれた家具のいくつかがカタカタと振動する音が聞こえ、僕の耳に響くピアノの音はさらにはっきりとしたものになる。
やがて、家具の振動は大きくなり、祈祷を続ける山葉さんの前で、古書が詰まった大きな本棚が傾き始めたのが見えた。
「危ない」
僕は駆け寄って本棚を支えたが、数冊の分厚い本が書棚から滑り落ちて板張りの部屋に降り注ぐ。
山葉さんも詠唱を中断するしかなかった。
「祭文の中で、あの曲が完全に演奏できなくても気にしなくてよいと言った途端にこの有様か。やはりピアノの演奏だけではなくて、他の事情も絡んでいるに違いない」
山葉さんは静かにつぶやいたが、小西さんと慶子さんは驚愕の表情で固まっている。
「今のは何だったのですか」
小西さんがやっと口を開いた様子で僕に尋ねた。
「あれはポルターガイスト現象と呼ばれるものだね。霊的な存在が気に沿わないことがあり、暴れた結果だと言われている」
僕は、心霊関係の怪しげな書物を読みかじった知識を小西さんに教えるが、その原理も真相も理解しているわけではない。
「そうかポルターガイスト現象なのですね」
小西さんは僕の怪しげな説明を鵜呑みにすると、それなりに納得した雰囲気だ。
人は理解が及ばないものでも、社会で共通認識のあるラベルを張るだけで安心するのかもしれない。
「あの、少しお休みになりませんか。下のフロアで飲み物の準備を致します」
慶子さんは遠慮がちに山葉さんに切り出した。
彼女にしてみれば霊的現象を目の当たりにしたため、少し現場を離れて気持ちを整理したいのかもしれない。
「そうですね。まだほんの少ししか祈祷していませんが中座して仕切り直すことにしましょう」
山葉さんも慶子さんの案に同意した。彼女にしてみれば霊の想いはピアノの演奏だけではないと判明したことから、新たな糸口を探す必要も感じているようだ。
僕は書棚から落ちた書物を拾い集めようとして、それが古いアルバムや日記帳の類だと気が付いた。
書棚に残る本には昭和の初期の文豪の作品も多く、古書としてとんでもなく高価なものかもしれないと思える。
慶子さんは僕と一緒に落ちているアルバム類を棚に戻していたが、そのうちの一冊に目を止めるとそれを小脇に抱えた
「階下に降りましょう」
慶子さんは先頭に立って部屋を出ると、最後に小西さんが部屋から出たところで再び部屋に施錠して階下に向かった。
共用スペースのリビングでは三元さんがむっつりとソファーに座っている。
僕たちはダイニングスペースにある大きなテーブルに適当に間隔を開けて座った。
コロナウイルス感染症が世間で騒がれるようになりすでに半年以上の時間が流れ、僕たちは無意識のうちに社会的距離を保つようになりつつある。
「お茶の準備をしてきますから少しお待ちくださいね」
慶子さんは自分のキッチンを使うつもりのようで、自分の占有スペースに姿を消した。
残された僕たちが気が抜けたように黙っていると、三元さんが小さく咳払いした。
僕たちが視線を向けると、三元さんは遠慮がちに尋ねる。
「今ものすごい喚き声が二階から響いてきましたけど、エクソシストに成功したのですか」
僕は至近距離にいたのにピアノの音しか聞いていないが、彼女は霊の喚き声を聞いたと言うのだ。
「その声は何と言っていたかわかりませんか。私達にはピアノの音しか聞こえなかったので」
山葉さんが真剣な表情で聞くが、三元さんは困ったように首を振る。
「くぐもったような感じで、ほとんど聞き取れなかったのです」
その時、三元さんはハッとした様に山葉さんの顔を見た。
「あのピアノの音が聞こえるのですか」
「ええ、私と夫は霊感が強いので聞き取ることが出来ます。ベートーベンのソナタを途中で失敗するのがその霊の心残りだと思って慰めたら、違っていたらしくものすごく怒っていましたね」
山葉さんは照れくさそうに失敗談として話すが、三元さんは救世主を見る目で山葉さんを見つめていた。
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