第380話 集中豪雨

時ならぬ訪問者が去った後で、山葉さんは小さな声でつぶやいた。

「忘れ物があったなら、管理事務所辺りで入手できないか確かめてもらいたいものだな」

「重要なアイテムを忘れたために一緒に来た人に攻め立てられて舞い上がっていたのかもしれませんね。どうせ僕たちの用事は終わっていたからいいではありませんか」

僕は、同行者に攻め立てられていた先程の気の弱そうな男性に少なからず同情しながら山葉さんに答えた。

「初めてキャンプに出掛けたら、忘れ物は有りがちだな」

山葉さんは肩をすくめると、ダッチオーブンからローストチキンや野菜を取り出して、莉咲のために取り分けを始める。

ダッチオーブンは鋳鉄製の丈夫なお鍋と、着火した炭を乗せても大丈夫な鉄製のふたの組み合わせだ、野菜から出た水蒸気で肉と野菜は程よく火が通っている。

「莉咲と同じものを食べようと思って味付けは薄めにしてあるから、大人が食べるときはスパイスを追加して食べることにしよう」

山葉さんが取り分けたローストチキンを小さく裂くと莉咲の口に持っていく。

莉咲は大きく口を開けるとおいしそうにチキンを食べ、山葉さんは満足そうな笑顔を浮かべた。

僕は黒コショウの粒をミルで引いてチキンにかけて食べたが、ローストしたチキンは柔らかく仕上がり、野菜の甘みも加わって優しい味に仕上がっていた。

キャンプのご飯と言えば、飯盒炊飯が定番に思えるが、僕たちは小さめの電気炊飯器を持参していた。

バンガローにはエアコンもあれば当然電源もあるので、手を抜けるところは簡単に済ませたかったのだ。

バーベキューコンロにはスペアリブも残っており、炭火で加熱される辺りには新聞紙とアルミフォイルで包んださつまいもとカボチャそして、キャベツや玉ねぎが鎮座している。

僕はクーラーボックスからピノノワールの赤ワインを取り出してコルクを開けた。

緑色のなで肩の瓶にボトリングされたワインは、ミディアムボディーで果実味が強くチキンのローストにあうテイストだ。

食事の途中で中座して莉咲の沐浴を済ませて寝かしつけたので、僕と山葉さんはゆったりとした気分でくつろいだ。

メインの料理を食べ終えて、僕たちは四国から送ってもらったイワシの干物や一夜干しのイカをコンロの残り火であぶりながら吟醸酒など飲み始める。

コンロの熾火がかすかに赤い光を放ち、バンガローの庭先にいる僕たちは夜になって涼しくなった森の空気を楽しんだ。

僕にとってはアルコールが過剰気味なのだが、少し無理をして酒豪の山葉さんに付き合っている状況だ。

コンロで焼いているイワシの干物は、漁師さんが一本釣りした逸品で、濃厚な味は吟醸酒を引き立てる。

周囲の森から聞こえるコオロギや鈴虫の音色を聞きながら自然を満喫していると僕のスマホからLIME着信音が鳴った。

僕がスマホを見るとそれは木綿さんからのトークだった。

「おかげさまで、北岳の山頂を踏むことが出来ました。今山頂直下の山小屋で宿泊しているのですが、夕方からものすごい雨が降り始めています。鬼塚さんによると、時間雨量が80ミリメートルを超えているので、土砂災害の危険があると言うことです。」

僕は吟醸酒をチビチビ飲んでいる山葉さんに木綿さんたちの状況を知らせる。

「たいへんですよ。木綿さんたちがいる山頂で、災害が起きるレベルの大雨が降っているみたいです」

「なんだって、予報ではそんな天気の崩れは無かったはずなのに」

山葉さんがグラスを置くと自分のスマホで天気予報のサイトを開いた。

「これはすごい」

山葉さんが言葉を切ったので僕は彼女の手元のスマホの画面を覗いた。

彼女が見ていたのは気象レーダーの観測結果を予測降水量として色付けして表示するサイトだ。

雨の量を示す表示は白色から始まり、予測雨量に応じて水色から青、そして黄色、赤色と遷移して表示されるが、彼女のスマホの表示は赤色の上、一時間当たりの雨量が80ミリメートル以上を示す紫色で埋め尽くされていた。

「木綿さんと鬼塚さんは無事に山を下りられるのでしょうかね」

僕が問いかけても山葉さんはわからないと言うように首を振る。

木綿さん宛てにLIMEのトークを送り、自分たちの身の安全は確保できているのかと尋ねると、折り返して木綿さんから返事が届いた。

木綿さんは自分たちの身の安全ではなく、他ならぬ僕たちに警告していた。

「私たちは山小屋にいるから安全です。鬼塚さんによると、この雨は局所的なものなので今夜のうちに上がるはずだけれど、山頂を含む尾根付近を中心に相当な雨量が続いているので、山に降った雨が集まる谷筋が危険だそうです。ウッチーさん達が宿泊しているキャンプ場は私たちがいる山域に降った雨水が集まる地形なので、土石流などの災害に備えてくださいと言っています」

僕は彼女が送ってきた文面を読み返してから空を見上げたが、午後から曇りがちだった空は、真っ暗で星一つ見えない。

空を見上げる僕の顔の上にぽつりと雨粒が落ちた。

「雨雲がこちらに流れてきたようだ。バンガローの中に引き上げよう」

山葉さんはテーブルや椅子をバンガローの中に移動し、僕もそれに倣う。

あらかた燃え尽きていたバーベキューコンロは消火して撤収し、持ってきた品物をあらかた室内に移動し終えた頃に、キャンプ場に叩きつけるような豪雨が訪れた。

バンガローの中で、僕はキャンプ場周辺の地図を広げた。

南アルプスは最も高い北岳が標高3190メートルに達する大きな山脈だ。

初ヶ岳などと比べても、山麓からの山頂に至るまでの山脈のエリアは広く、鬼塚さんが指摘した通り山頂付近から僕たちの入るキャンプ場までの面積は相当なものになる。

山脈に降った雨は尾根から沢に流れて谷へと集まるが、僕たちがいるキャンプ場は広大な面積の降雨が集まる谷の出口近くに位置していた。

僕はキャンプ場に入る時に、谷を渡る小さな橋を越えたことを思い出し、谷川の増水具合が気になった。

「谷川の増水がどれくらいのレベルか見てきます」

激しい雨音で会話も聞こえにくいほどだが、山葉さんはベッドに寝かしつけた莉咲の様子を見ながら答える。

「危ないから増水した川には近寄らないほうがいい。遠目に確認するだけにしてくれ」

僕は彼女が大げさに話していると思ったが、傘を差してキャンプ場の中を歩くとそれがあながち的外れではないことを理解した。

キャンプ場のから谷川に近づくと、二十メートルほどの川幅一杯に濁流が渦巻いているのが見えたからだ。

来た時に通過した橋は既に濁流の下に沈んで見ることすらできなかった。

橋の作りとして増水時に流れに沈むことを想定していたと思えるが、水が引くまではキャンプ場から出られないことは確実だ。

キャンプ場のテントサイトやバンガローは、谷川から一段高い場所にあるので当面危険はないと判断して僕はバンガローに引き上げた。

「谷川が増水して橋が流れの下に沈んでいます。水が引くまではこのキャンプ場から出られませんね」

僕が告げると、山葉さんため息をついた。

「これほどの降雨があるとは思ってもいなかった。川からここまではかなりの高さがあるから当面危険はないはずだし様子を見るしかないね」

僕たちは翌朝前様子を見て、次の日の日中になれば水も引くのではないかと思っていたが、豪雨のレベルは予想を超えるものだった。

夜半になると、キャンプ場の管理職員がバンガローに現れたのだ。

「申し訳有りませんが、このキャビンサイトも大規模な土石流が発生した場合に危険です。斜面の上にあるイベント用の建物に避難していただけませんか」

職員の言葉に、僕たちは激しい雨の中を避難せざるを得なかった。

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