第379話 火起こしはキャンプの基本

オートキャンプ場の管理事務所でチェックインの手続きが終わると僕たちは木立に覆われたバンガローサイトに案内された。

老舗のキャンプ場は木陰で作業が出来るので環境が良い。

新規造成されたオートキャンプ場は切り開かれた土地で日差しにさらされている場合が多く、夏場は日差しの強さが気になるものだ。

僕たちが訪れたオートキャンプ場はかなり標高がある山麓に位置しているため、木立を抜ける風は涼しく気持ちが良かった。

風と共に、針葉樹の芳香や、湿った落ち葉の香りがただ漂い、森の中にいることが意識される。

僕と山葉さんは、バンガロー脇の木の根元に莉咲を乗せたベビーカーを置くと、その前でバーベキューの準備を始めた。

本日の夕食はメインがスペアリブとローストチキンの2本立ての予定で、僕が火おこし係だ。

僕は調理に使うカートリッジボンベタイプのガスバーナーを持参して炭に火着火した。

ガスバーナーは普段の業務で魚やスイーツに仕上げの焼き目を付けるとき使っているものだ。

「火おこしと言えば、新聞紙を種火にして着火用のアルコール燃料とかで炭に火を着けるものだと思っていたよ」

「新聞紙なんか使うと、燃えカスの炭化した紙のかけらが焼いた肉にくっついてしまうから、バーナーで一気に燃やしてしまうのがベストなのです」

僕は、知り合いの黒崎氏に教わった受け売りの説明をしながらバーベキューコンロに積み上げた炭に一気に着火していく。

バーナーで加熱された炭はぱちぱちとはぜる音を立てながら炎を上げる。

一度炭全体に火が回り、少し火勢が落ちてきてから使うと安定した火力で料理をすることが出来るのだ。

僕はバーベキューコンロの炭に着火し終わると、地面を掘り下げてからにダッチオーブン用の炭を並べて着火し始めた。

その間に、山葉さんはジッパーバッグに入れたスペアリブをクーラーボックスから取り出していた。

ジッパーバッグにはスペアリブと共に謎の液体が入れられて、スペアリブを浸している。

「その液体は調味液の類ですか」

「そんなところだ。ミキサーにかけたキウイと蜂蜜をベースに程よい浸透圧に調節したものだ」

山葉さんの解説に耳慣れない用語があったので僕は聞き返した。

「浸透圧ってどういうことですか」

「蜂蜜や調味料を加えると液体の浸透圧が高くなって肉の中には浸みこまず、逆に浸透圧の作用で肉から水分が流出してしまう。そのために漬け汁の浸透圧を肉よりも低く調節して、肉の中に調味液の成分が入り込むように調整してあるのだ」

僕は理科の授業で習ったうろ覚えの浸透圧の原理を思い出しながら山葉さんに答える。

「魚に塩を振ったら水分が出てくるのと逆の原理なのですね」

「そのとおり、キウイが含むたんぱく質を分解する酵素でお肉が柔らかくなるはずだ」

山葉さんは最近、新メニュー開発のために調理方法も研究しており、調理関係の知識は増えている。

僕は彼女の熱心さに密かに感心しつつ、地面を掘った即席のかまどの炭に着火していく。

山葉さんはダッチオーブンに玉ねぎやニンジンなどの野菜と鶏肉を詰めると火が付いた炭の上に置いた。

ダッチオーブンは蓋の上にも火が付いた炭を乗せ、まんべんなく加熱することが出来るため、アウトドアでロースト系の料理を作る場合は強い味方になってくれる

ローストチキンが出来るのを待つ間に、僕たちはスペアリブを焼き始めた。

ベビーカーに乗せた莉咲は、慌ただしく動く僕たちの様子を珍しそうに目で追っている。

時折愛嬌を振りまくと、彼女も笑顔を浮かべて喜んでいる。

「莉咲がしゃべるようになるのは何時頃でしょうね」

トングでスペアリブをひっくり返しながら僕が言うと、山葉さんは莉佐の前まで行ってしゃがみ込んだ。

「もうすぐでしゅよね。最初に話すときはママっていうんでちゅよ。ほら、マ・マ」

彼女の言う通り、莉咲は山葉ママの口元を見ながら後に続きそうな雰囲気だ。

僕は、莉咲の第一声は「ママ」になるのだろうなと、あきらめの心境で眺めていた。

スペアリブが焼きあがたところで、僕と山葉さんは持ち込んだビールの缶を開けて乾杯した。

炭火でこんがりと焼き目が付いたスペアリブは、下ごしらえの効果もあって柔ら

かくて美味しい。

「莉咲も一緒に食べられたらいいのにね」

「スペアリブは脂が強すぎるけど、ローストチキンは切り分けて一緒に食べられるよ」

山葉さんは膝の上に莉咲を抱えてダッチオーブンを示す。

僕はミルクしか飲めなかった莉咲が、少しづつ同じメニューも食べられるようになってきたのがうれしい。

僕たちは、自然に囲まれたオートキャンプ場でば家族の団欒を楽しんでいたが、しばらくすると、近くのテントサイトから声高にやり取りする声が次第に耳に付き始めた。

「いい加減にしろよ、ゆるキャンが流行っているからキャンプ場に行けば女の子グループが沢山いると言うから来てみたら、人なんてほとんどいないじゃないか。その上ライター忘れたから火がつけられないとかふざけたこと言ってんじゃねえよ」

僕は思わず手を止めて声が響いてくるテントサイトを眺めた。

自然に囲まれた静かな雰囲気を瞬時に壊してくれる利用者がいるものだと思い、僕はうるさい利用者に腹を立てるよりむしろ悲しい気分だ。

「こんなところまで来て喧嘩を始めるくらいなら、出かけてこなければいいものを」

山葉さんは迷惑そうに眉を顰める。

「ごめん、周囲の人からライターを借りてくるから少し待ってくれよ」

周囲が静かなので怒鳴られた相手の返事まで聞こえてきた。

僕はテントサイトにはあまり泊り客がいなかったことを思い出して山葉さんの顔を見るが、彼女も迷惑そうな表情で僕を見返すばかりだ。

やがて、僕たちの懸念は現実となり、コテージの占有区画の入り口に若い男性が立ち、遠慮がちな雰囲気で呼びかけてきた。

「すいません。ライターを貸していただけませんか」

あいにく、僕はライターの類は持ち歩かないので、火を着ける道具といえば、火おこしに使ったガスバーナーくらいしかない。

僕がガスバーナーを持ち上げて、貸してもいいだろうかと言う意味を込めて山葉さんを見ると、彼女阿仕方なさそうにうなずいた。

「ライターは持ち合わせていないのですが、何に使うつもりなのですか」

あらかた見当がついていても、それなりに会話しなければ話が通じないので僕は男性に尋ねる。

「バーベキューに使う炭に火を着けたいのですが、火を着けるためのライターを忘れてしまったのです」

男性は消えそうな小さな声で僕に告げる。

僕はガスバーナーを手に取ると男性に差し出しながら言った。

「これしかないですけど良かったらどうぞ」

男性はポータブルタイプのガスバーナーを見て、遠慮がちに僕に尋ねる。

「これを貸していただいたらお宅が使えなくて困るのではありませんか」

「いいえ、もう火おこしは終わっているので大丈夫ですよ」

僕が告げると、男性は嬉しそうな表情に変わって僕に答える。

「ありがとうございます。すぐにお返ししますから少しの間貸してください」

僕がガスバーナーを手渡すと、男性はガスバーナーを片手に持って、自分たちのテントサイトに駆け出していった。

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