第367話 記憶の彼方
廊下の先の暗闇に目を凝らすと、野獣のシルエットに重なって女性の人影が浮かび上がっている。
女性のシルエットは緩やかに動き、いざなぎ流の祭文らしき詠唱が聞こえてくる。
「山葉さんライターを持っていませんか」
「うん?何かに使うかもしれないと思って着火器具なら持っているけど」
山葉さんはポケットから、トリガーを引くと筒の先から炎が出る着火器具を取り出して見せる。
「十分です。相手が式神や式王子を使ってきたら僕が動きを止めて殺虫スプレーをかけますから、それで火を着けてください」
「そんなゴキブリ退治みたいなやり方で式王子を止められるものなのか?」
山葉さんは難色を示したが、僕は実績があるので自信をもって彼女に説明する。
「僕は敵が召喚した高田の王子を同じ手口で燃やしてしまったし、相手はあの野獣みたいなやつが山葉さんの式王子を噛み千切ったじゃないですか。双方の呪術が強力なので道具のレベルで相手が使うものを壊すしかないのですよ」
山葉さんは唖然とした表情で僕を見つめる。
「そういう考え方もあるのだな」
彼女が納得したか確認する前に、女性の霊は光の塊を僕たちに投げつけた。
光の塊はまっすぐに山葉さんを目指していたので僕は駆け寄ってその進路をふさぎ、樫の棒で叩き落そうと試みた。
棒はうまく光の塊にヒットし、棒で絡めとった光に向けて僕は殺虫スプレーを吹き付ける。
山葉さんも、先ほどまでの僕の話を把握していた様子で僕が殺虫スプレーを吹き付けている横から着火器具で火を着け、光の塊は炎の塊と化して燃え上がった。
燃えてしまえば、それは燃えさしの和紙の切れ端に過ぎず、まだ炎を上げる和紙が絡まった樫の棒をかざすと闇に浮かんでいた野獣の影は闇の奥へと逃げていくのが見えた。
野生動物は火を恐れるのだ。
残された女性の霊は僕たちを睨んでいるが、山葉さんはいざなぎ流のオンザキ様の祭文の詠唱を始めていた。
女性の霊は山葉さんに引き寄せられながらその姿は揺らいでいる。
山葉さんは女性の霊を神上がりさせて、未来の時空に転生させる手段に出たのだ。
「おのれ小賢しいことを、うぬらも共に連れて行ってくれよう」
一緒に連れて行かれるということは、僕たちは現世での命を失うことに他ならない。
僕は対処方法がわからないままに山葉さんの前に立ちふさがっていたが、女性の霊は次第にその姿を崩壊させながら僕に衝突した。
僕の視覚は強い光を感じて飽和し、五感も全て消し飛んでいく。
気が付くと僕は一生懸命に板張りの廊下を拭いている誰かの意識に同化していた。
「おさと、雑巾がけはほどほどでいいから私の部屋を掃除して頂戴」
お雪姐さんの声を聞いておさとは、俊敏に立ち上がった。
「はい、今行きます」
おさとはお雪姐さんに答えると、身軽にお雪姐さんの部屋に向かった。
お雪姐さんの部屋はいつも通り散らかっているので、おさとはくすっと笑いながら片付けを始める。
おさとは干ばつで食い詰めた山奥の百姓が女衒に売り飛ばした子供だった。
遊郭に売られた子供は虐げられて人以下の生活を強いられるかと言うと、実態は異なっていた。
器量の良い子供は将来客を取らせるために大事に育てられ、客をあしらう嗜みとして行儀作法や文字を教わり、楽器の奏で方を教育されてちょっとした姫君に仕立てられるのだ。
しかし、おさとが平和に暮らせたのも性質の悪い客に目を付けられるまでの話だった。
「おさと、お前に目を付けた旦那がいるので明日はそのお方の前に出ておくれ」
女将さんが杓子定規におさとに告げ、おさとと同じ身の上の娘たちは羨ましがるような口ぶりでほめそやす。
この業界では水揚げと言われ、最初の客を取ることは一人前とみなされることでもあるが、おさとはそのお客を知っていた。
年端のいかない幼女を好み、半裸にした幼女を幾人も侍らして悦に入った挙句に、幼女を紐で縛って辱める下種な男だ。
初めての相手があの男なのは嫌だと思い、どうにか逃れる策はないかと思いを巡らせるが、良策は思い浮かばない。
その時思い浮かんだのは、子供の頃父や母が執り行っていたいざなぎ流の祈祷だった。
おさとの両親はいざなぎ流の大夫を務め、集落でも尊敬を集めていたのだ。
しかし、日照りが続いて田がカラカラに乾き、コメが取れなかった年に両親はお里とその妹を女衒に売った。
自分をこんな境遇に追い込んだ良心を恨みながらおさとはいざなぎ流の祭文を口にしていた。
おさとが子供の頃、いざなぎの神々は遊び相手だった。
いざなぎの祭文を唱えて呼び出せば大概のことを聞き入れてくれ、退屈を紛らわせてくれたのだ。
おさとが「りかん」を唱えると、お気に入りの式神はおさとの望みを携えて虚空へと消えていく。
自分の行為がどんな結末をもたらしたか知ったのは翌日になってからだった。
件の客は郭に姿を現すことさえなく、風の噂に下町で遊んでいる幼女にちょっかいを出して親と諍いになり刺されたと聞いた。
そして、おさとがいる遊郭には、刃物を振り回す狼藉物が乱入して大勢の死傷者が発生したのだ。
おさとは狼藉者が奉行所の捕りかたに取り押さえられるときにその眼が青く光っているのを見た。
時折見かける客だが普段はおとなしい男だったはずだ。
おさとの遊郭の女将も狼藉者に刺されて死に、遣手婆も重傷を負っているが、おさとは狼藉者にそのような行いをさせたのは自分ではないかとうっすらと気づいていた。
無事だったお雪姐さんは下働きの子供たちを連れて建物を出た。
血まみれの死体が散乱する場所に居られるものではないし、奉行所の見分も入るからだ。
同じ下働きの娘たちが事件の衝撃で泣きじゃくっている横で、おさとは少し離れた場所でじっと考え込んでいたが、ふと気が付くと目の前に修験者姿の男が佇んでいた。
「派手にやったもんじゃの」
決して見栄えは良くないが、嫌な感じではない中年の男はあけすけな口調でおさとに話しかける。
「私は何もしていません」
事件の陰にいざなぎ流を操る自分がいることを知っているとしたら、この男は厄介だと思いお里は警戒する。
「そう怖がらなくともよい。おぬしのような能力を持つものを遊女にしておくのはもったいない故、わしが買い取ってやる。どうじゃ、一緒に仕事をせぬか」
男が遊郭から引っ張り出してくれると言うなら、おさとは乗るしかなかった。
今し方、いざなぎ流の呪術を使って人を殺め、それを知る男を前にするとその言葉を聞かないわけにいかない。
おさとがうなずくと、男は笑顔を浮かべる。
「わしの名は佑太という、そなたの能力使わせてもらうぞ」
その日以降、おさとは佑太の家に住み、呪術を使って人を貶めて利益を得ようとする人々にいざなぎ流の祈祷によって願いをかなえる稼業を始めた。
佑太も多少は呪術の覚えがあったが、おさとの能力はその比ではなく、佑太は営業に徹して客はどんどん増えていった。
客の多くは商売敵や政敵の没落を望み、おさとが祈祷すると顧客の願い通りに標的の人々は病に倒れたり、事業に失敗して没落していく。
やがて、顧客の一部はおさとを祭り上げて宗教団体のような組織を作り上げていた。
おさとは何時しか自分が能力故に優れた存在だとうぬぼれるようになり、贅沢三昧な生活を送るようになっていた。
そんな時、おさとはかつて感じたことがないような嫌な感覚に襲われた。
心当たりがない故に、不安に捉われ様々な方法を使って原因を探るが、やがて自分に呪詛が向けられていることに気が付いた。
それもどうやら、同じいざなぎ流の術を使うものが仕掛けているらしい。
おさとは直ちに呪詛返しで応じ、それと同時に配下の者に呪詛を送った者の所在を探らせた。
江戸とは違い、草深い国故に人も少なく探索に出たものは、さして日も経たないうちに敵対する者の素性を明らかにしていた。
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