第350話 授業の再開

黒崎氏の視線に気づいた一郎君は不安な表情を浮かべて周囲を見回す。

「あ、あの、僕のことも記憶を消すつもりではないですよね」

「心配ないわよ、あなたは体験済みでしょ」

未来さんは冷たい表情でつぶやき、黒崎氏は目を伏せてため息をついた。

「一郎君の記憶を消しても、振出しに戻って未来さんにアプローチするパターンを繰り返しているので、僕が対応しきれないクラスメートなどには一郎君と未来さんにまつわる記憶が確実に蓄積しているはずです。もう一度記憶を消すならば同時に未来さんを転校させるなどして彼の前から消すことも考える必要がありますね」

一郎くんは表情を固くして叫んだ。

「嫌だ!僕の想いを消さないで。何の権利があってそんなことを僕に出来るんですか。」

一郎くんは逃げようとして、駆け出そうとしたが、美咲嬢が彼の二の腕を掴んで引き止めた。

「知っての通り未来さんは特殊な身の上の方ですわ。彼女の命を守るためには致し方ありません」

美咲嬢は微笑を浮かべているものの、その目は笑っていない。

一郎君は助けを求めるように僕を見た。

「徹さん、今日のトラブルはあの男が仕返しするために僕を待ち伏せしただけで、僕に落ち度があったわけではないでしょう。僕の前から未来さんを消すなんて言わないでくださいよ」

彼の言い分にも一理あった。

今回の件は、僕と未来さんが痛い目に遭わせた男が、僕に仕返しするために執念深く待ち伏せしたためなのは事実だ。

「それでは一郎君の件は保留にしておいて、未来さんが約束通りに来てくれたから晩御飯を食べて行ってもらおうか。美咲さんと黒崎さんはあの男を撃退してくれたのでそのお礼ということで一緒にどうですか」

僕は言った後で恐る恐る山葉さんの表情を窺ったが、彼女は僕にうなずいて見せる。

未来さんは嬉しそうな表情だがどうしよかと言うように美咲嬢と黒崎氏を振り返り、美咲嬢は華やかな笑顔を僕に向けた。

「この春から、お昼にお宅のテイクアウトを買い求めることはあっても、お店で食事をしたことはなかったから、お招きいただいたらうれしいですわ」

成り行きを見ていた一郎君は、僕にすがるような目線を送るが、彼に言葉をかけたのは山葉さんだった。

「先ほどの男の様子を見て思ったのだが、記憶を消されるということはその時点の彼の人格は抹殺されるのに等しい。一郎君には最後の晩餐として私がおごってあげよう」

一郎君の表情が凍り付きその眼に涙がにじむのが見えた。

山葉さんは閉店後の店内で未来さん達と食事をするつもりらしく未来さん達三人を店舗に案内した。

僕は一郎君を手招きして、状況を説明する

「彼女は君にご飯をおごってあげる口実にあんなことを言ったのだから、そんなに気にしなくていいよ」

「そうなんですか?とてもそんな風には聞こえませんでしたけど」

彼から見たら、山葉さんはとてつもなく怖い人に違いない。

閉店後にシェフに頼むわけにもいかないからと、僕と山葉さんが賄的に食事を作ることにしたが、気のいい田島シェフは手伝ってくれた。

「田島シェフ申し訳ない。ホームパーティーみたいなものだからあなたに手伝わすのは申し訳ないのだけど」

「どうせ賄の晩御飯を作るところだからいいんですよ。オーナーの指示で僕たちも同じものを食べるように言われていますからね」

僕が詫びると、彼は手際よく人数分のサラダを仕上げながら屈託のない笑顔を浮かべる。

その横では、山葉さんが大きな肉の塊を冷蔵庫から出して下ごしらえをしていた。

「急ぎの時はお肉焼いて仕上がりの料理が一番だね」

山葉さんはパウンドステーキ用の大きな肉を惜し気無く焼き上げていくが、僕はその肉の由来が少し気になった。

「その肉、コロナウイルス感染症で営業自粛が始まる前に仕入れたやつですよね」

山葉さんはフフフと笑って、悪びれる様子もなく答える。

「お客様に提供するわけにはいかないが、賄で食べる分には熟成されていておいしいはずだ」 

いいのか?本当に大丈夫なのか?と僕は不安にさいなまれたが、店舗内のテーブルで食卓を囲んでみるとその肉は柔らかく、口に含むとジューシーな旨味が溢れていた。

「あら、程よく熟成されていい味ですわ。料理の腕前もランクアップされたようですわね」

山葉さんが焼いたパウンドステーキは食通と言われる美咲嬢が手放しで褒めるほどの味で、未来さんも目を細めて食事を楽しんでいる。

会食の参加者があらかた食べ終わり、山葉さんは皆に会話再開を許可したうえで、美咲嬢と黒崎氏に話を持ち掛けた。

「一郎君の件だが、今回のトラブルは彼に責を帰するべきではないと思う。ついては私が祈祷を行い山の神の力を借りて、彼の記憶を消すのではなく、考え方や行動パターンを修正し、未来さんをトラブルから守ることを試みようとおもうのだがどうだろう」

山葉さんの提案を聞いて、黒崎氏はしばらく考えた後で口を開いた。

「僕も自分の術では行き詰まり感を感じていたので、新しいトライアルは歓迎します」

「そうですわね。いざなぎ流のお手並みを見せていただきましょう」

美咲嬢も賛同したので、山葉さんはおもむろに一郎君に目を移し、彼はビクッとして身を固くする。

「一郎君、私が祈祷させていただくことになった。先ほどの部屋まで来ていただこうか」

山葉さんが促すと一郎君は青い顔で彼女の後に続きバックヤードにある和室に移動した。

和室は本来は従業員の休憩スペースとして使われていたが、山葉さんがいざなぎ流の儀式に使うことが多いため通称いざなぎの間と呼ばれている。

山葉さんは「みてぐら」をしつらえ、関係者をいざなぎの間に座らせたうえで、いざなぎ流の祭文を唱え始めた。

祭文を唱えると共に緩やかな動きで舞い、神に神楽を捧げるのがいざなぎ流の祭祀だ。

山葉さんはひとしきり祭文を唱えた後、出席者の頭上を御幣で祓い、神前に礼をして締めくくると、終始身を固くしていた一郎君に語り掛けた。

「一郎君、人を好きになるのは良いことだが、好きな相手と共に歩み始めるならば、相手をいたわり思いやってあげることが必要だ。未来さんの場合は特に彼女の正体の件があるので、露見すれば彼女の命に関わってくる。これから秘密を厳守し、彼女を守っていく覚悟はあるのかな」

一郎君は彼女の言葉の意味を考えている様子だったが、やがて元気に答えた。

「はい、大丈夫です」

彼の態度は、落ちつきのない様子が消えて、どこか毅然として見えた。

僕は、山葉さんの祈祷の効果がかと思うが、確証はない。

未来さんは一郎君に近付くと、小さな声で言った。

「明日からもよろしく」

「ぼ、僕の方こそよろしくです」

二人が硬くなって言葉を交わしているのを、美咲嬢と黒崎氏は温かい雰囲気で見つめている。

そして、一郎君については、当面様子を見ることになった。

数日後、僕たちはお店の定休日に莉咲の公園デビューのためにWRX-STIにベビーカーを積んでお出かけすることになった。

山葉さんがステアリングを握り、助手席に僕が座り、後部座席では裕子さんがチャイルドシートの莉咲を見守るという鉄壁の布陣だ。

コロナウイルス感染症を恐れて、外に出してあげられなかった分、初めて見る外の世界は綺麗な場所にしようと、山葉さんは東京湾に面したバラの花が綺麗な公園に連れて行きたいと言い、人出が多くなる前の朝早い時間を狙って、お出かけすることになったのだ。

「この間、一郎君を連れて家に因縁をつけようとしてきた男は、警察に保護されて記憶喪失と認定され支援施設に入ることになったようですね」

「うむ、どうやら黒崎氏が彼の記憶を削除しすぎのだな。傷害に当たるかもしれないが、その手段を合理的に証明できないかぎりは黒崎氏を立件することは不可能だ。しかし、あの男にとっては新しい人生をスタートする機会になるのではないかな」

山葉さんは、中学生に絡んで日銭を稼ごうとする輩には手厳しい。

下北沢を出発してしばらく走るうちに、自分たちの車が溝の口駅界隈にいることに気が付いて僕は山葉さんに尋ねた。

「横浜に行くのではなかったのですか」

「丁度、中学生が登校する時間帯だ。学校の近くで見張っていれば、一郎君や未来さんの様子を見られるのではないかと思ってね」

彼女が車を止めたのは、駅方面から人が流れてくる比較的大きな通りで、その中で目指す二人を見つけるのは難しく思えた。

しかし、人通りをしばらく眺めていると山葉さんが指を差す。

「あそこだ」

僕がその方向を見ると、制服姿でカバンを持って歩く未来さんと一郎君の姿があった。

一郎君が歩きながら頻繁に何か話しかけると、未来さんが口数なく答えているのがわかる。

「どうやら何事もなく学校生活をおくっているようだね」

山葉さんは微笑を浮かべると、WRX-STIを発進させた。

「このまま上手く行くのでしょうか」

僕の質問に山葉さんはのんびりとした雰囲気で答える。

「先日私が行った祭祀は息災を祈る祈祷で、私は彼にお説教することで自覚を促したのだ。きっと上手くいくよ」

彼女はスムーズな運転で当初の目的地だった公園を目指していた。

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