第349話 妖に化かされる
僕はカフェ青葉に戻り、入念に手洗いしてから二階の居室のドアを開けた。
山葉さんはソファーで転寝しており、その前に置いてあるハイローチェアでは莉咲がスヤスヤと眠っている。
山葉さんは僕が部屋に入った気配で目を覚ますと、僕の姿を認めて尋ねた。
「早かったね。未来さんと一郎君は無事だったのか」
「ええ、性質の悪い上級生が、堅気でなさそうな大人を連れてきて未来さんに乱暴を働こうとしていたのですが、僕が止めに入ったところで未来さんが回し蹴りでなぎ倒してしまいました」
僕が前髪をむしり取った男は、倒れたままなのをいいことにそのまま放置してきたのだが、死んではいないはずだ。
助け起こして意識を取り戻したら話がややこしくなるので、放置が正解だったと僕は考えている。
「ふむ、一郎君は未来さんの正体を把握してしまったのか?」
「そうなんです。彼女は一郎君に他言しないように念を押した上で、しばらく様子を見ると言っていましたが、今後の推移が気になりますね。それに・・」
「それに?」
僕が言い淀んでいるのを見て山葉さんが尋ねる。
「未来さんは、以前クラリンが奥多摩で行方不明になったときに遭遇した妖の兄妹の片割れだったのです」
山葉さんは最初、何の話か分からない様子できょとんとしていたが、やがて大きく目を見開いて口を抑える。
「私はその出来事をすっかり忘れていたみたいだ」
「美咲嬢と黒崎氏が僕たちの記憶を操作していたのです。あの二人はリスクを減らすためにあの件に関わった人間の記憶を消したうえで、未来さんとその兄をこっそり見守っていたのですね」
山葉さんはしばし呆然としていたが、やがて平静を取り戻した。
「理屈としては理解できるが、微妙に面白くない話だな」
山葉さんはむずかり始めた莉咲のおむつを替えながら話を続けた。
「その件はいいとして、私たちの依頼者は一郎君だから、とりあえず事が収まっているなら様子を見るしかないな」
僕と山葉さんは、一郎君の周辺について一抹の不安を共有していたが、その心配はわずか数日のうちに現実となった。
その日、カフェ青葉のラストオーダーの時間が近づく頃に、祥さんがバックヤードに駆け込んできたのだ。
「大変です。やくざ風の男が中学生くらいの男の子を連れてきて、内村を出せと言っています」
僕が慌てて店舗を覗くと、そこには一郎君と、先日未来さんに蹴り倒された柄の悪い男が立っている。
「この前は、とんでもないことをしてくれたな。警察に訴えられたくなかったら・・」
男はグダグダと話し続ける雰囲気だったので、僕は男の腕を掴んでバックヤードに引っ張っていくことにした。
店内にはまだ数組のお客さんが残っていたので彼のろくでもない口上を聞かせたくなかったからだ。
「いてて、何をするんだ傷害罪で訴えて刑務所に送ってやるからな」
僕は男の言葉を無視して通路から一段高くなった和室に男を押しやった。
「そこでお話を聞かせていただきましょうか、どうぞおあがりください」
丁重な口調で和室に入るように勧めると、男は気圧されたようにおとなしく和室に入る。
男に連れてこられた一郎君は、無言で僕と男のやり取りを見守っていたが、男と少しばかり距離が離れた途端に涙ぐんだ目でこちらを見ながら早口で僕に謝り始めた。
「学校から帰るときに校門でその男に待ち伏せされてここに案内させられたんです。迷惑かけてすいません」
「気にしなくていい。何とかするよ」
僕は一郎君を慰めながら、男の後を追って和室に入ろうとしたがその横をすり抜けるようにして巫女姿の山葉さんが追い抜いた。
彼女は巫女姿で片手には式神を作るときに使う日本刀を握っている。
「山葉さんどうしたんですか」
「このところ、神様へのお祈りをさぼっていたので、神楽を舞ってから敷き紙を作るつもりだったのだ。その男が中学生のトラブルに闖入してきたケチなチンピラだな」
山葉さんは声を潜めることもせずにしゃべるので僕との会話は男にも筒抜けだ。
「このアマ、俺をチンピラ呼ばわりするのか、舐めてんじゃねえぞ」
男がどすを聞かせた声で怒鳴る前で、山葉さんは日本刀の鯉口を切ってスラリと刀を抜き放った。
彼女の刀は刀身が長い大刀で、心得のない人間ではさやから抜くことすら難しい代物だ。
「てめえ、やろうっていうのか」
男は気丈にもポケットから飛び出しナイフを取り出して右手に構え、それらしく間合いを取ったが、山葉さんは何の躊躇もなく日本刀を横に薙ぎ払った。
僕は男の首が宙に舞ったような気がして、血の気が引いたが、彼は意外な俊敏さを示して頭を抱えて畳の上に丸くなってしゃがんでいた。
山葉さんの刀はきわどいところで男の頭をかすめたらしく、髪の毛がはらはらと舞い落ちる。
「カメみたいに首を引っ込めやがって」
山葉さんは日本刀を上段に振りかぶると男の頭に振り下ろす。
そのまま振り下ろせば頭部がざっくりと割れるほどの斬撃だが、彼女もさすがに殺してはまずいと気づいたらしく、振り下ろす途中で刀身を返し、刃がついていない峰の部分が男の頭部をとらえた。
彼の命を救ったのは、両手で自分の頭を守っていたことと、片手にはいまだにナイフを握っていた事だ。
山葉さんの峰打ちは打撃力の大半をナイフに吸収されたので男の頭蓋骨は陥没骨折を免れた。
それでも、彼はナイフを取り落とし、打ち据えられた手を抱えて転げまわる。
「どうしたんですか山葉さん、いきなり切りつけたりしたら警察に捕まってしまいますよ」
「久しぶりに山の神に祈りを捧げて、家族の息災を感謝しようとしていたのに、下らぬ輩に邪魔をされてちょっとイラっとしただけだ」
僕は見ていただけで自分の心臓がバクバクしているのを感じながら彼女に言った。
「イラっとしたくらいで首をはねるような攻撃動作はやめてくださいよ」
「すまん。私も新生児育児とコロナウイルス感染対策の双方に気を使い続けたため、ストレスがためっていたかもしれない」
山葉さんは素直に謝ると日本刀を鞘に納めた。
その時、背後からアルバイトの小西さんが、遠慮がちに呼びかけた。
「あの、山葉さんに会いに来たと言われる方たちをご案内したのですが」
彼は三人の来客を引き連れていたが、その顔触れは僕の意表を突くものだった。
「美咲さんと黒崎さん、それに未来さんも」
「ご無沙汰でございますわ。貧乏神も戻っていないようで上首尾ですわ」
美咲嬢は華やかな笑顔を僕に向け、黒崎氏は渋い表情で右手を抑えて苦しむ男を見ていた。
「未来さん」
一郎君は未来さんの姿を見て嬉しそうに呼びかけた。
「この前助けてくれたから、お返しに救援に来た」
未来さんは言葉少なに答えて、美咲嬢と黒崎氏を示す。
「この方々は、私を支援してくれる保護者のような存在だ。一郎くんが連れていかれるのが教室から見えたので救援を頼んだ」
その間に黒崎氏と美咲嬢は和室に上がって、山葉さんが痛めつけた男を見下ろしていた。
「美咲所長、この男は記憶を消してから放免してやるのはどうでしょう」
「そうですわね。私もそれを考えていました。」
美咲嬢はクスクスと笑いながら男の顔を覗き込んだ後、黒崎氏を振り返ると告げる。
「残すに足るほどの記憶はお持ちでないようですわ。小賢しい悪知恵やいやらしい発想ばかり。ごっそりと削除しておあげなさい」
男は美咲嬢の言葉を聞いて、自分が何かされることをうっすらと理解した様子だ。
「おいちょっと待て、俺に一体何をする気だ」
美咲嬢は答えることなくクスクスと笑い、美咲嬢の後ろから様子を窺っていた山葉さんと未来さんも一緒になってクスクスと笑う。
黒崎氏だけは、気乗りのしない表情で男にゆっくりと近寄った。
「よせ、やめてくれ」
畳の上に座り込んでいた男は、立ち上がることさえ出来ずに後ずさりして逃げようとしたが、黒崎氏は無慈悲に男の太ももを踏みつけて動きを止めた。
そして右手の人差し指をついと伸ばすと、男の額に触れる。
それまでけたたましく響いていた男の声はふいに止まり、男の表情は穏やかなものに変わった。
彼は周囲を見回すと、怪訝な表情で手直にいた黒崎氏に尋ねる。
「ここは何処なんですか。」
黒崎氏は困ったように僕たちを振り返った。どうやら黒崎氏は直近の記憶を削除してしまったらしい。
「あなたは、ラストオーダー後に当店に来られたのですが、神奈川県からわざわざ私のラテアートを見るためにいらしたということなので、別室にご案内したうえでご注文の品を楽しんでいただくことにしたのです。もう少しお待ちいただけますか」
山葉さんはアドリブでもっともらしい話をでっちあげて男に告げる。
「す、すいません。そんな特別扱いをしていただくなんて」
男は和室の座布団の上に正座すると、恐縮した様子で僕に告げる。
やがて、山葉さんはラテアートを描いたカフェラテを持って来て男の前に置いた。
「キツネの絵が描いてあるのですね。こんなラテアート初めて見ましたよ」
男はひとしきりラテアートを眺めた後、おいしそうにカフェラテを飲み干すと申し訳なさそうに僕たちに言った。
「こんな特別扱いをしてくださってありがとうございます。カフェラテ美味しかったです。代金はお店の方で支払ったらいいのですか」
「はい。小西さんお客様をレジにご案内して」
山葉さんに指示されて、小西さんは慌てて男を案内する。
「こちらにどうぞ」
小西さんが男を案内して姿を消した後で、僕は黒崎氏に尋ねた。
「彼に何をしたのですか」
「僕たちにまつわる記憶と一緒に、あの男の行動パターンをゆがめているトラウマや嫌な記憶の類を取り除いたのですが、削除部分が多すぎて社会生活に支障が出そうなので標準的な応対が出来るサブルーティンプログラムのようなものを組み込んだのです」
それって洗脳と呼ばれるようなものではないだろうかと僕は思ったが、今更それを言っても手遅れだった。
黒崎氏のクールな視線は次のターゲットを選ぶように一郎君に向けられていた。
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