夏越の祓

第351話 お食い初め

梅雨空の下、カフェ青葉は通常の業務形態に戻って営業していた。

「ウッチーさん良かったですね。店舗営業を再開したら、大半の常連客さんが戻ってきて店舗で食事をしてくれるようになりました。社会的距離を保つために席数を減らした関係でウェイティングも出ていますよ」

スタッフの祥さんは、店舗から食器を下げてきながら嬉しそうに僕に告げる。

「テイクアウトは需要が無くなるのかと思ったけれど、新たな顧客が出来たみたいで、販売量は減ったもののいまだに売れているから、これからも販売は継続したい。忙しくなるけれどよろしく頼むよ」

僕が所属している大学院のキャンパスにはまだ立ち入りが制限されており講義のほとんどがリモート化されている。

そのため夏までは、リアルタイムのオンライン授業の時間以外は僕はカフェの仕事を手伝うことが出来る。

しかし、いずれは講義が再開されるはずだし、山葉さんも当面の間は育児休業中なので祥さんにかかる負担は増えていくはずだ。

「お店の経営の方は大丈夫だったのですか」

祥さんは店舗に戻る前に足を止めて僕に聞くので、僕は正直に経営状況を伝えることにした。

「緊急事態宣言中は人件費を含む経費を稼ぐのがやっと。ここは店舗が自己所有なのでどうにかやりくりしているけど、前オーナーの細川さんに不動産代金の残金の支払いがあるから期日までに積み立てたい。細川さんは今年の支払いを猶予してもいいと言ってくださるけど、山葉さんはそこまで甘えられないと言っている」

祥さんの表情が曇った。

「さっき山葉さんが書類を抱えていましたけど、融資の申し込みとかではないですよね」

「あれは三月、四月の売り上げの前年同月との減額幅を計算して、持続化給付金を申請すべく準備しているの」

祥さんは心配そうな表情のままだが、僕たちはとりあえずコロナウイルス感染症の第一波を乗り切ったと言えそうだ。

店舗内のお客は残り少なくなっていた。僕たちは前週から予告して、午後の営業時間を早めに終了する予定だったのだ。

閉店時間を早めたのは、莉咲のお食い初めの祝いの席をささやかに開くためだった。

内祝いの席なので、出席するのは僕と山葉さんに当人の莉咲、そして僕の両親と妹に山葉さんの母、裕子さんといった具合だが、カフェ青葉に住み込みで働いている祥さんも席を連ねることになっていた。

「山葉さん、ご家族のお祝いの席なのにお店のスタッフの私が席を連ねさせていただいていいのですか?」

山葉さんが店舗に顔を出したので、祥さんは遠慮がちに尋ねるが、山葉さんは微笑して答える。

「私たちの親族が来るので、気を使わせて申し訳ないが、一緒に祝ってもらえるとうれしいのだ。」

僕たちも悩んだが、同じ建物で祝いの席を設けているのに同居人の彼女に声もかけないのも心苦しいので招待してしまうことにしたのだ。

そして、僕たちは明日から三日間ほどお店を臨時休業にすることになっていた。

定休日に加えて二日ほど休業するのだが、それは育児の手伝いに来ていた裕子さんが四国に帰るのと、祥さんが長野に帰省するためだった。

「明日から私のために臨時休業してもらうみたいで、それも申し訳ないですし」

祥さんが恐縮した雰囲気で言うので僕は慌てて答えた。

「祥さんはずいぶん長い間、実家に帰るっていないし、実家で行う夏越の祓いの準備のために帰省してもらうのは、経営者としての山葉さんの判断だよ。気にしなくていい」

「そうそう。私の母も父が執り行う地元の集落の輪抜け様の準備のために帰らなければならない。定休日に加えて少しばかり休みにしても大きな影響はないよ」

山葉さんも彼女に気を遣わせないように説明する。

僕たちは翌日、山葉さんの母の裕子さんを四国まで自動車で送っていく予定で、そのついでに祥さんを長野の実家に連れていくつもりだった。

県域をまたいだ移動制限要請は解除され、新幹線や航空機も利用できるが、僕たちは裕子さんや祥さんの感染リスクを可能な限り低くするために自家用車で送っていくことを計画したのだ。

「わかりましたお言葉に甘えることにします。ところで、さっき言われた輪抜け様って何のことですか」

山葉さんは怪訝な表情を見せたが、やがておかしそうに説明を始めた。

「それは私の実家近辺での夏越しの払いの呼び名なのだ。集落の集会所に茅で作った大きな輪を設置し、近辺の人々が集って蚊帳の輪を潜り抜けての無病息災を祈る行事だ。平野部にある大きな神社では「輪抜け様」と言って、縁日が立つ神祭を行うところもある」

「そうなのですね。私の祖父が神主を務める神社でも、茅の輪を作りますよ。例年はお祭りをするのですが、今年は人を集めるイベントは中止にして神事だけを執り行うのです」

山葉さんと祥さんが、互いの故郷の夏越の祓いの話をしている間に、田島シェフとアルバイトの木綿さんは帰宅し、入れ替わるように店のインターフォンの呼び出し音が鳴った。

山葉さんが対応に出てしばらくすると、業者の人が仕出しの弁当やお膳を搬入し始めたので、僕は祥さんに説明した。

「祥のお食い初めの祝い膳と出席者の仕出し料理の配達を頼んだんだ。本当は出かけるつもりだったのだけど営業時間を短縮しているお店も多いので、山葉さんが交渉したら配達してくれることになったんだ」

「そういえば、宴会がメインのお店はまだ厳しいみたいですよね」

祥さんは、料理を搬入している日本料理店のスタッフを見ながらつぶやいた。

しばらくして、僕の両親と妹が訪れると、莉咲のお食い初めの席が始まった。

お食い初めと言っても生後百日前後なので本当に固形物を食べられるようになるのはまだ二、三か月先の話だ。

食べさせる真似事だけなのだが、莉咲のための祝い膳にはタイの尾頭付きや、お吸い物や赤飯などが並んでいる。

「もう首が座ったのね。お母さんに似て美人になりそうでよかったわ」

僕の母が嬉しそうにつぶやくが、僕に似ると美人にならない雰囲気で心外だ。

「莉咲ちゃんを見に行きたいと言っても、お兄ちゃんがなかなか許可してくれないんだから、もうすぐ七月よ」

妹が文句を言うが実際、僕の家族は数えるほどしか訪ねてきていない。むやみに移動していると途中でコロナウイルスに感染するかもしれないからと僕が止めていたのだ。

「裕子さんに莉咲ちゃんのお世話を押し付けてしまって申し訳なかったです。お家の方は大丈夫なのですか」

「うちの旦那は生活力があるから大丈夫ですけど、明日一旦四国に帰ることになりました。さすがに掃除が行き届いていないかもしれませんから」

裕子さんと僕の母が和やかに話す前で、莉咲は物珍しそうに周囲を見回している。

内祝いの時間は和やかに過ぎていった。

翌日、僕たちは早朝から出発の準備をした。

乳児用のチャイルドシートは後部座席にセットしているが結構場所をとる。

本来なら後部座席にはもう一人しか乗れないところだが、そこに祥さんと山葉さんを無理やり詰め込む予定だ。

トランクルームも荷物を目いっぱい詰め込まれているが、WRX-STIは実用に使う場合も人と荷物を十分積載できる。

「なんだか窮屈そうで申し訳ないわね」

助手席に座った裕子さんが申し訳なさそうに後部座席を振り返るが、山葉さんは余裕のある表情で答える。

「大丈夫だよウッチーが中央高速を疾走して二時間くらいで長野に着くはずだ」

新幹線ではないので三時間はかかるなと思いながら、僕はステアリングを握り、最寄りのインターチェンジを目指していた。



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