第346話 嫉妬の嵐

「ただいま」

僕は自宅を兼ねているカフェ青葉に戻り、2階の住居部分の自分たちの部屋のドアを開けたが、山葉さんは「お帰り」も言わずに僕に人差し指を突き付けた。

「手洗いが出来ていないだろう。それに外を歩いたときは階下の更衣室で着替えて外出時に来ていた衣服はビニールに入れて持ち込んでくれ」

「すいません。そうします」

僕は妖の少女、霧島未来さんのことを考えていたので外出後に帰宅したときの手順を忘れていたのだ。

とぼとぼと階下に降りて、スタッフ用更衣室で念入りに手を洗い、カフェ用の制服に着替えてから、それまで来ていた衣類をビニール袋に入れる。

カフェの店内はランチタイムを迎えて忙しそうだったが、未来さんの件を山葉さんに話しておきたいので僕は慌ただしく二階に上がった。

「ビニール袋の中身は洗濯機に入れて、袋はきちっと縛ってごみ箱に捨てる」

右手に下げていた衣類の入った袋を指摘されて、僕は慌てて彼女の言うとおりに袋を処理する。

僕がランドリースペースから戻ってくると、山葉さんは待ちかねたように僕に尋ねた。

「それで、問題の少女は妖だったのか?」

僕は、帰る電車の中でいろいろと考えていたことを思い出しながら山葉さんに告げる。

「おそらく妖の類だと思います。一郎君が不用意に近づいて怒らせたときは、両目が金色に輝いて尋常ではない速さで、彼を攻撃しました」

山葉さんは、大きなため息をついた。

「やはりそうだったのか。問題の一郎君はどうしている」

「それが、彼女は覗き見にも気が付いていたらしく一郎君を詰問して、彼が謝ると事実関係を知られたくないから、誰にも言うつもりはないと宣言していました。一郎君は彼女の言葉を自分に都合よく解釈してなれなれしく近づいたためにしばかれたのです。でも、彼女のことを妖怪だと思っていたことは自分の勘違いだと考えを変えたようです」

「それは好都合だな、彼の目さえ塞いでしまえば未来さんはうまく中学生の中に埋没していると考えていいだろう。この件は何事もなく解決かもしれないね」

山葉さんは、機嫌を良くして僕に告げる。

「ただ、彼女は僕が自分の素性を見抜いたと気づいたと思います。とりあえず住所と連絡先を記した名刺を渡して、困ったことが有れば力になると言っておきました」

山葉さんは表情を曇らせた。

「この場所を教えてしまったのだな。未来さんとやらが私たちを根こそぎ抹殺する気にならなければいいのだが」

「まさかそんなことはしませんよね」

僕は自宅住所を教えた自分が浅はかだったと悟ったが、時すでに遅しだった。

「妖の考えることなど、神のみぞ知るだ。彼女が美咲嬢たちのように人なれしていることを祈ろう」

山葉さんの言葉に、僕もうなずくしかなかった。

一通り、未来さんの件を話した後、僕はカフェの仕事に復帰した。

「ウッチーさん、いいタイミングで帰ってくれましたね。社会的距離をキープできるように席数を減らしてはいますが、使用可能にしている席の半数以上が埋まっています」

アルバイトとして働いている木綿さんが僕に告げ、ランチプレートを運んでいた祥さんは目立たないように腕を上げて、喜んでいる様子を示す。

「テイクアウトはどれくらい出たのかな」

「テイクアウトも少しは出ているのですが、来てくれたお客さんはほとんどが店舗で食事をしています。一時はウエイティングも出たので、待っているお客さんが密にならないように気を使いました」

それは、僕にとっては想定外の出来事だった。

「そうだね。明日からはウエイティングスペースを広く取り、使わない椅子を距離を開けて並べることにしよう」

僕は、食事を終えたお客さんが残した食器を回収しながら木綿さんに告げ、彼女は微笑を浮かべてうなずいた。

僕は店舗営業を再開しても、感染リスクを警戒してお客さんはなかなか戻ってくれないのではないかと危惧していたのだが、うれしいことに僕の予測は外れた。

きっと、数週間にわたって行動自粛していたため、せめて外食くらいしたいという常連客さんが多かったようだ。

夕方、少し早めにラストオーダーを取って店を閉めると、僕たちは明るい気分で賄いの夕食をとった。

一緒に食事をとるために一階に降りてきた山葉さんも、祥さんから報告を聞いて嬉しそうだ。

しかし、僕たちが食事をしながら、談笑を始めようとすると山葉さんはぴしりと言い放った。

「食事中は無駄口をたたかない。お話をするのは食べ終わってマスクをつけてからだ」

僕たちは一転して無言で食事をする羽目になったが、食べ終わった後、堰を切ったように皆が話し始め、今度は山葉さんも咎めることはせず話に加わる。

「このままコロナウイルスの感染症が収まって、元の生活に戻れたらいいですね」

田島シェフがしみじみした口調でつぶやくと、山葉さんは何時になくうれしそうに言う。

「今日の調子でお客さんが戻ってくれたらこの店は続けていけると思う。テイクアウトの営業を頑張ってくれてたみんなのおかげだよ。ありがとう」

彼女は何時になく心のこもった口調でスタッフにお礼を言い。スタッフのみんなも拍手でそれに答える。

春が訪れる前から、店舗営業を自粛してテイクアウト営業で頑張り続け、六月を迎えるころにやっと以前の状態に戻れる兆候が見え始め、皆の努力が報われた瞬間だった。

翌日も、カフェ青葉は相当な数のお客さんが来店し、店内は活気のある忙しさに包まれた。

僕が所属する大学院は、大学ともどもキャンパスへの立ち入り禁止措置を解除すると発表したが、事務所や教室に立ち入り可能になるのはまだまだ先のようだ。

店舗営業のモーニングサービスやランチタイムが忙しい中で過ぎた頃に、僕は自分のスマホに着信が入っていることに気が付いた。

発信元の表示を見ると、渡辺一郎君だと表示されていた。

僕は、胸騒ぎを感じながらスマホの通話を始める。

「内村さんですか。僕は昨日相談に伺った渡辺一郎というものです。もう昨日の相談の件は解決したことになったと思いますが、改めて助けてほしいのです」

一郎君は昨日会った時のおっとりとした話し方ではなく、その声は緊迫した雰囲気を帯びている。

「どうしたんだ。何が起きたのか話してくれ」

僕はカフェのバックヤードに引っ込んで通話を続けるが、一郎君は何から話したらよいかわからない様子でなかなか状況を話さない。

「未来さんが拉致されたのです」

一郎君がやっと口にした言葉は、穏やかでないものだった。

「同じクラスの真由美が、僕と同じように宿題のプリントを借りるつもりで未来さんの家を訪ねたらしいのですが、その時、三年生の女子が数人で未来さんを連れ出すところを見たのだそうです。真由美が隠れて様子を窺っていたら、三年生の女子の彼が未来さんを気に入ってしまったので、怒った三年の女子が未来さんが学校に来られないようにしてやると言って仲間と一緒に未来さんを連れて行くところだったらしくて、真由美はとりあえず僕にそのことを教えてくれたのです」

どうやら、性質の悪い上級生に睨まれてしまったらしい。それだけで助けに行くのに十分な理由だが、僕にはもう一つの心配があった。

助けに行くまでの間、未来さんがおとなしくしていればいいのだが、僕は一郎君が近寄っただけで彼女が簡単に手を出すところを見ていた。

上級生の女子たちが悪意のある攻撃を執拗に加えた場合、未来さんが本気で反撃してその現場には上級生の女子たちの血の雨が降る可能性があった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る